西谷修さんから本がとどいた。すでに,西谷さんのブログで新著がでたことは知っていた。急いで本屋さんに行って・・・ともたもたしているうちに「謹呈」のサイン入り本がとどいてしまった。申し訳ないと思いつつ,感謝の念をこめて本を開く。
この本は,冒頭の「はじめに──本書の成立ち」に詳しく説明がしてあるように,2009年と2010年の2回のシンポジウムとラウンド・テーブルの記録と関連論文に,あらたに西谷さんの総論が書き下ろしで加えられて,世にでたものである。もう少しだけその経緯について触れておけば,以下のようである。まず,2009年と2010年の2回のシンポジウムとラウンド・テーブルの記録と関連論文は,すでに,記録集『グローバル・クライシスと”経済”の審問』(西谷修/中山智香子編)として刊行されていて,関係者に配布されている。この記録集に,それぞれのスピーカーたちが推敲の手を加えたものが,この本の骨格である。そこへ新たに「”経済”とは何か,それはどんな考え方の枠組みなのか,それが現代世界の組織化と認識にどのような役割を果たしてきたのか,その『”経済”を審問する』ということに含まれる課題は何なのか」といったことを包括的に述べた西谷さんの書き下ろしを「趣旨展開をかねて冒頭におく」というかたちをとっている。
だから,わたしにとっては,この冒頭の西谷さんの書き下ろし「Ⅰ.経済学は何をしてきたのか──経済・産業技術システムの興隆と破綻」(約50ページ)のところに飛びつくことになった。そして,いつものことながら,凄いなぁ,とひとりごとをいいながら読み進む。問題の核心を,余分な修飾語抜きで,ずばりとすくい取って提示する思考の明晰さに,酔い痴れてしまう。わたしのような者ですら,強烈に刺激され,早速,自分の専門領域であるスポーツ史やスポーツ文化論へのヒントがつぎつぎに浮かび上がってくる。
たとえば,以下のような文章を,みなさんはどのように読まれるでしょうか。
「テロとの戦争」というのは,9・11の直後から言ってきたようにグローバル世界秩序とその安全保障の問題です。軍事力の洗練やグローバル化の相互依存のために,今ではもはや対等の国家同士の戦争というのは問題になりません。むしろ,グローバル資本の利益追求がなされる市場一元化秩序を維持するために,この一元化が生み出す「異物」の排除,あるいは「汚染」の除去のための諸国家横断的な安保体制,もっとはっきりいえば鎮圧体制が必要になる。それが「テロとの戦争」という新たな世界規模の戦争のレジームです。そこでは「安全」が至上命題として掲げられ,もはや「平和」は問題にもされず,そのために「テロリスト」や「ならず者」相手の不断の監視体制が敷かれ,「予防戦争」さえ正当化どころか必要だとされて,「異物」が徹底的に潰されてゆく。つまりあらゆる障害は秩序の病理であるかのように,「検疫体制」と「予防接種」で潰してゆくということです。例えば,豚インフルエンザが発生したと言って徹底的にワクチンで鎮圧しようとするように。
ここから説き起こして,経済のグローバル化の意味するところを明確にし,さらに「グローバル化の三つのステージ」へと論を展開していきます。それはそれは気宇壮大な議論が,これでもか,といわぬばかりに繰り広げられてゆきます。読んでいるうちに,ある意味で,快感を呼び起こします。かゆいところに手がとどくように,きちんと,わかりやすく説明してくれます。いわゆる,わたしのような人間の「蒙」を「啓」いてくれる,とてもありがたいテクストになっています。(あっ,いけない。いつのまにか西谷さんの文章の「です・ます」調になってしまっている)。
この新しい第一章を読みながら,わたしはわたしで「バドミントンのルール改正」(2006年・サービス権制からラリーポイント制へ)の背景でいかなる「力」のせめぎ合いがあったのか,と考えたりしている。あるいは,1920年代に繰り広げられた「体操改革運動」(Neue Gymnastikbewegung)の背景にあったものはなにか,などと考えたりしている。さらには,マルセル・モースの『贈与論』が頭をよぎり(このテクストの138ページには,ラウンド・テーブル「”経済”を審問する──MAUSSとともに」が収められていて,モースへの隠喩を読み取ることができる),そこからさきは,やはり,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』へと一気につながっていく。
バドミントンのルール改正(といっていいのかどうかは疑問)について少しだけ触れておこう。サービス権制からラリーポイント制への転換は,じつは,バドミントンというスポーツ文化の特質にいちじるしい「変更」「変質」「変容」を迫るものなのだ。しかし,そんなことはお構いなしに,ただひたすら普及のために,わかりやすくするために,テレビで楽しんでもらえるために,管理運営上(試合時間の短縮)のために,そして,オリンピック競技種目として認定してもらえるために・・・等々の理由での「ルールの変更」である。この一つひとつを詳細に分析していけば,その背景にいかなる「力」がはたらいていたかは明々白々である。こうして,バドミントンという古きよき時代のイングランドの伝統精神を色濃く残していたスポーツ文化が,最終的な「グローバル化」への舵を切った,とわたしは考える。このことがなにを意味しているのか,わたしたちは,いまこそ,しっかりと考えなくてはならないことなのだ。
そういうことを,このテクストは教えてくれる。あるいは,気づかせてくれる。これからのスポーツ史研究,あるいは,スポーツ文化論を展開していく上で不可欠の文献。
また,いつか,研究会で取り上げて,みんなで議論をしてみたいと思う。
この本は,冒頭の「はじめに──本書の成立ち」に詳しく説明がしてあるように,2009年と2010年の2回のシンポジウムとラウンド・テーブルの記録と関連論文に,あらたに西谷さんの総論が書き下ろしで加えられて,世にでたものである。もう少しだけその経緯について触れておけば,以下のようである。まず,2009年と2010年の2回のシンポジウムとラウンド・テーブルの記録と関連論文は,すでに,記録集『グローバル・クライシスと”経済”の審問』(西谷修/中山智香子編)として刊行されていて,関係者に配布されている。この記録集に,それぞれのスピーカーたちが推敲の手を加えたものが,この本の骨格である。そこへ新たに「”経済”とは何か,それはどんな考え方の枠組みなのか,それが現代世界の組織化と認識にどのような役割を果たしてきたのか,その『”経済”を審問する』ということに含まれる課題は何なのか」といったことを包括的に述べた西谷さんの書き下ろしを「趣旨展開をかねて冒頭におく」というかたちをとっている。
だから,わたしにとっては,この冒頭の西谷さんの書き下ろし「Ⅰ.経済学は何をしてきたのか──経済・産業技術システムの興隆と破綻」(約50ページ)のところに飛びつくことになった。そして,いつものことながら,凄いなぁ,とひとりごとをいいながら読み進む。問題の核心を,余分な修飾語抜きで,ずばりとすくい取って提示する思考の明晰さに,酔い痴れてしまう。わたしのような者ですら,強烈に刺激され,早速,自分の専門領域であるスポーツ史やスポーツ文化論へのヒントがつぎつぎに浮かび上がってくる。
たとえば,以下のような文章を,みなさんはどのように読まれるでしょうか。
「テロとの戦争」というのは,9・11の直後から言ってきたようにグローバル世界秩序とその安全保障の問題です。軍事力の洗練やグローバル化の相互依存のために,今ではもはや対等の国家同士の戦争というのは問題になりません。むしろ,グローバル資本の利益追求がなされる市場一元化秩序を維持するために,この一元化が生み出す「異物」の排除,あるいは「汚染」の除去のための諸国家横断的な安保体制,もっとはっきりいえば鎮圧体制が必要になる。それが「テロとの戦争」という新たな世界規模の戦争のレジームです。そこでは「安全」が至上命題として掲げられ,もはや「平和」は問題にもされず,そのために「テロリスト」や「ならず者」相手の不断の監視体制が敷かれ,「予防戦争」さえ正当化どころか必要だとされて,「異物」が徹底的に潰されてゆく。つまりあらゆる障害は秩序の病理であるかのように,「検疫体制」と「予防接種」で潰してゆくということです。例えば,豚インフルエンザが発生したと言って徹底的にワクチンで鎮圧しようとするように。
ここから説き起こして,経済のグローバル化の意味するところを明確にし,さらに「グローバル化の三つのステージ」へと論を展開していきます。それはそれは気宇壮大な議論が,これでもか,といわぬばかりに繰り広げられてゆきます。読んでいるうちに,ある意味で,快感を呼び起こします。かゆいところに手がとどくように,きちんと,わかりやすく説明してくれます。いわゆる,わたしのような人間の「蒙」を「啓」いてくれる,とてもありがたいテクストになっています。(あっ,いけない。いつのまにか西谷さんの文章の「です・ます」調になってしまっている)。
この新しい第一章を読みながら,わたしはわたしで「バドミントンのルール改正」(2006年・サービス権制からラリーポイント制へ)の背景でいかなる「力」のせめぎ合いがあったのか,と考えたりしている。あるいは,1920年代に繰り広げられた「体操改革運動」(Neue Gymnastikbewegung)の背景にあったものはなにか,などと考えたりしている。さらには,マルセル・モースの『贈与論』が頭をよぎり(このテクストの138ページには,ラウンド・テーブル「”経済”を審問する──MAUSSとともに」が収められていて,モースへの隠喩を読み取ることができる),そこからさきは,やはり,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』へと一気につながっていく。
バドミントンのルール改正(といっていいのかどうかは疑問)について少しだけ触れておこう。サービス権制からラリーポイント制への転換は,じつは,バドミントンというスポーツ文化の特質にいちじるしい「変更」「変質」「変容」を迫るものなのだ。しかし,そんなことはお構いなしに,ただひたすら普及のために,わかりやすくするために,テレビで楽しんでもらえるために,管理運営上(試合時間の短縮)のために,そして,オリンピック競技種目として認定してもらえるために・・・等々の理由での「ルールの変更」である。この一つひとつを詳細に分析していけば,その背景にいかなる「力」がはたらいていたかは明々白々である。こうして,バドミントンという古きよき時代のイングランドの伝統精神を色濃く残していたスポーツ文化が,最終的な「グローバル化」への舵を切った,とわたしは考える。このことがなにを意味しているのか,わたしたちは,いまこそ,しっかりと考えなくてはならないことなのだ。
そういうことを,このテクストは教えてくれる。あるいは,気づかせてくれる。これからのスポーツ史研究,あるいは,スポーツ文化論を展開していく上で不可欠の文献。
また,いつか,研究会で取り上げて,みんなで議論をしてみたいと思う。
2 件のコメント:
バドミントンでは、1980年代後半以降、中国のトッププレイヤーだった人たちがたくさん日本に渡ってきました。昨日その一人に会う機会があったので、なぜ日本に来たのか尋ねてみました。彼女の話によれば、「バドミントンがオリンピック種目になるために、世界の多くの国でバドミントンが盛んになるよう、世界の国々へ出て行くように国(中国)から言われた」とのことです。何故オリンピック種目になるのが重要なのか尋ねると、「バドミントンがオリンピック種目にならなければ、中国のバドミントンが(あるいは中国が)困るから」とのこと。
今回のルール変更を牽引したか否かは別として、現在に至る始まりは、中国の事情によるのかもしれません。
ch_ikarugiさん,コメントありがとうございました。とても重要な情報で,考えることがたくさんあります。
中国が「国策」として,いろいろのことを国際社会に向けて仕掛けていることは,よく知られているとおりです。太極拳をいかにして世界に普及させ,これをオリンピック競技種目に加えるか,ということのために人材も金もかけていることは,北京オリンピックのとき以来,よく知られています。その前には卓球がありました。それにつづいてバドミントンも・・・ということになると,ことは単純ではなくなってきます。
オリンピック・ムーブメントそのものがヨーロッパによる世界制覇の一翼をになってきたことと同じことを,こんどは中国が別の方法でやろうとしていることになります。この問題は,少し慎重に情報を集めて考えてみたいと思います。こんごとも情報提供をしていただけるとありがたいです。よろしくお願いいたします。
inamasaより。
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