2010年9月5日日曜日

サッカー映画『ルドandクルシ』をみる。

 最近はあまり映画をみなくなってしまって,これはよくないなぁ,と思っていたら,『ルドandクルシ』というサッカー映画のDVDが送られてきて,短いコメントをしてくれという依頼があった。
 これは絶好のチャンスとばかりに,ほかの仕事をなげうって,さっそくこの映画をみてみた。面白い,のひとこと。最初から最後まで,とにかく面白い。話の展開のテンポもいいし,つぎからつぎへとさまざまなメッセージが発信されてくる。一瞬たりとも退屈しない。
 ストーリーはきわめて単純。メキシコの片田舎のバナナ園ではたらく兄弟が,偶然とおりかかったサッカー・スカウトの目にとまり,メキシコ・シティへつれていかれ,プロへの道を歩む。田舎者が都会にでてきて,だれもが経験するさまざまな洗礼をうけながらも,幸運なことに二人とも才能をはやばやと開花させ,一躍有名人となる。兄はゴールキーパーとして,弟はフォワードとして。有名人になるととたんに都会ならではの悪魔のお誘いがあの手この手で押し寄せてくる。純朴な青年である兄弟は,あっという間に,その道に引きこまれていく。そして,あとは・・・・,というお定まりのストーリー。それでも,大好きな母親のために,母親の好きな海岸に豪邸をプレゼントし,兄弟二人の夢は実現する。しかし・・・・,という話。
 冒頭のサッカー・スカウトとの出会いの場面が,まず,腹をかかえて大笑いする。スカウトは二人は無理だから,とちらか一人だ,という。そこで,仕方がないので,それぞれ得意のポジションである兄はゴールキーパー,弟はフォワードとして,ペナルティ・キックをすることになる。止めれば兄,入れれば弟。ところが,ここで兄弟愛がとんでもない演出をする。兄は弟に「右に蹴ろ」と指示する。弟は仕方がないので,「右」に蹴る。ところが兄は「右」に飛ぶ。お互いに自分からみての「右」しか考えていなかったのだ。だから,弟のシュートがみごとに決まり,すぐに,兄が弟のところに駆け寄り,掴み合いの大喧嘩となる。兄が「右と言っただろう」,弟「だから,右に蹴った」,二人が激しく口論する場面で,まずは大笑い。
 ところが,このペナルティ・キックはこの映画の伏線になっていて,最後のフィナーレで,ふたたび兄弟対決となる。兄は,弟に,同じように「右」を指示する。どちらも「名声」と「名誉」がかかっている。兄はキーパーとして,パーフェクト・セーブの記録を更新中,弟は女性問題で謹慎中で,このペナルティ・キックをはずせば,以後はペンチ組になると監督に言われている。この事情を知っている兄は,弟に花をもたせようと覚悟を決めている。しかも,兄は,この試合でセーブに失敗すれば,賭博で負けた借金をチャラにするという八百長が仕掛けられていることも知っている。おまけに,もし,この八百長を成立させなければ,マフィアに命を狙われる,ということも言い聞かされている。弟も,兄がその気になっていることがわかっている。だから,以前と同じように「右」に蹴ればいいのである。しかし,弟には一瞬の迷いが生じ・・・・,運命の明暗を分けることになる。
 兄のサッカー選手としてのニックネームは「ルド」(=タフな乱暴者),弟は「クルシ」(=ダサい自惚れ屋)。二人とも,その名のとおりの大活躍をする。映画としてみているかぎりは,まことに面白い。そのひとことに尽きる。
 しかし,見終わったあとの,なんとも言えない寂寥感はなんだろう。人間とはなんと愚かなんだろう。田舎の素朴な人間同士のほのぼのとした暮らし,たとえ貧乏であろうとも,暖かいこころの通い合いにささえられた日々。それを断ち切って,まだ,見たことのない都会に憧れ,サッカーの夢の実現に猛進する兄弟。そこに待ち受けていたものは,得点をとれば(兄はセーブすれば)英雄。ただ,それだけ。兄弟が英雄となり,豊かな暮らしをはじめたとたんに,忍び寄る悪魔の手。田舎育ちの純朴な兄弟には,その罠が見抜けない。女,麻薬,賭博,マフィア,八百長へと一直線。そして,最後は虫けら同然のように,光り輝く世界から放り出される。兄は命こそ助かるものの片足を,マフィアの銃弾にやられて失う。弟は,しがない歌手となり,場末を流れて生きていく。
 人生は「賭け」だなぁ,としみじみおもう。サッカーに夢を託して都会をめざす若者は,だれもとどめようもない。ごくごく当たり前のことだ。それが,サッカーでなくても同じだ。勉学に夢を託して都会をめざすのも,大相撲で夢の実現をめざす若者も,みんな対等だ。しかし,その夢を実現させた者の方にかえって大きな落とし穴が待っている。功なり名をとげた,立派な学者・研究者の中にも「女」で失敗した人を何人も知っている。政治家でも同じだ。人生は,分け隔てなく,大きな罠が仕掛けられている。まがりなりにも,若き日の夢を実現できた者はまだしも,大多数ははやばやと夢破れて,第二の人生を歩むことになる。
 つまり,圧倒的多数は「敗者」なのだ。それは,スポーツをみれば一目瞭然だ。サッカー選手なり,野球選手をめざす若者は,掃いて捨てるほどいる。その熾烈な競争を勝ち抜いた,ほんの一握りの人間しか,その頂点には立てないのだ。その意味では,人生は「いさぎよく負ける」ための哲学を学ぶ場なのだとおもう。そして,何回も何回も立ち上がり,挑戦をつづける。そのうちに「あきらめる」。このとき,人はほんとうの意味で「達観」するのではないか。よく闘い,よく負けること。そういう人のみが到達することのできる「境地」がある。「明鏡止水」の境地は,こういうプロセスを経た人たちにのみ可能なのではないか,としみじみおもう。
 運良く成功した人たちこそ,ありとあらゆる悪魔の手が忍び寄ってきて,人生のどこかで大なり小なり失敗をする。他人には絶対に知られたくない「隠し事」は,こういう成功組の方が多い。政治家をみれば,一目瞭然だろう。ほとんどの政治家は叩けば埃が舞い上がる。身辺がまったく潔癖で,最後まで生ききることのできる政治家のなんと少ないことか。財界も官僚も学者も,みんな同じだ。つまり,人間としての弱さなのだ。人間はわかっていながらにして,悪の深みにはまっていく。ほんとうに弱い存在だとおもう。
 この映画をみて,こんなことを思いめぐらせてしまうことになった。さて,わずか700字足らずの字数で,どんなコメントをしたらいいのだろうか。こんどは,わたしが悩む番だ。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

こんばんは。
突然のメールをお許し下さい。
神戸市外国語大学・竹谷先生のゼミの3回生、西村彩乃です。

本日竹谷先生から集中講義の連絡を頂きました。贈与論は私にとって本当に難解で、読むこと自体にそれはもうとてもとても悪戦苦闘しましたし、頭の中は「?」でいっぱいです。頑張って自分なりにでも課題を果たしたいと思います。どうかよろしく御願い致します。

それでは、失礼致します。