2011年5月31日火曜日

『けんちく体操』のいう「けんちく体質」とはなにか。

すでに,このブログでも紹介した『けんちく体操』なる奇書について,その後も折に触れ考えている。これはどう考えてみても,これまでになじんできた「健康体操」や「美容体操」などといった,ある目的合理性を追求する体操とは趣をことにする,とおもうからだ。つまり,体操をとおして「健康」や「美容」をわがものとしようという類のものとはちがう,ということだ。まさか,体操をとおして「建築」をわがものとしようとは,この著者たちは考えていないだろう。この著者たちの目指すものは「けんちく」である。だから,わざわざ「ひらがな書き」で表記している。では,かれらの目指す「けんちく」とはなにか。それは「けんちく体質」のことにちがいない。

もし,このアナロジーが正しいとしたら,わたしの興味・関心は一気に深まっていく。それは,いま,わたしが仮説を立てて,その裏付けを求めようとしている「スポーツ」の本質そのものに,かぎりなく近いところに到達するからだ。もっと言ってしまえば,「体操」の本質そのものにかぎりなく接近していく営みにみえるからだ。

著者たちの言を借りれば,けんちく体操をやればやるほど「けんちく体質」が身につく(と言われている),という。ここがポイントだ。「けんちく体質」は,けんちく体操をする前まではなにもなかったものが,けんちく体操をやりはじめるとしだいに身につきはじめる,というのだ。では,この「けんちく体質」とはいかなるものなのか。

かんたんに言ってしまえば,おもしろいという興味・関心が湧いた瞬間に,その建築物の模写を身体で表現しようとしたくなる「体質」のことだろう。つまり,意識的に模写をする身体から,しだいに無意識のうちに模写をする身体へと変化していく,そういう「体質」のことだ。これは,換言すれば,「わたしの身体」から「わたしではない身体」への移りゆきのことだ。「けんちく体質」のレベルが高まっていけばいくほど,わたの身体は「わたしの身体ではなくなっていく」ことになる。

わたしはこれまで長い間「スポーツする身体」ということを考えつづけてきている。その結果として,スポーツに習熟すればするほど「わたしの身体はわたしの身体であってわたしの身体ではなくなる」というところに到達した。つまり,トップ・アスリートたちのスーパー・パフォーマンスは,直接,そういう人たちに聞いてみると異口同音に,「わたしの身体だったとは思えない」「わたしがやったという意識はまったくない」「だれかに動かされていたようにおもう」「気がついたときは動いていた」などという。このことはなにを意味しているのだろうか。

「スポーツする身体」には,意識的にコントロールされる身体と,無意識的に動いてしまう身体とのふたつの身体が同居している。スポーツに習熟する,つまり,トップ・アスリートになればなるほど,意識的にコントロールされる身体から無意識的に動いてしまう身体へと比重が移っていく。すなわち,考える以前に「からだが反応する」という境地にいたる。日本の武術の名人は,みんなこの境地に到達している。力士の身体もまた,調子のいいときは「からだが自然に動く」という。

これは西田幾多郎のいう「純粋経験」(『善の研究』)の世界で起こる現象と同じである。ヘーゲルもまた『精神現象学』のなかで,「自己意識」が立ち上がる以前と以後の関係性を解きあかすところで,詳細に論じている。このヘーゲルの「自己意識」読解をとおして(アレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』に啓発されながら),ジョルジュ・バタイユは『宗教の理論』のなかで,「動物性」から「人間性」への<横滑り>を起こしたことによって生じた二つの身体の問題を論じている。このバタイユの説によれば,「動物性」の身体は考える以前に「からだが反応する」ことになるし,「人間性」の身体は考えてから「動く」ということになる。もちろん,こんなに単純に区別できることではなくて,この境界領域にこそ人間の身体をめぐる「難題」がいくつも隠されているのだが・・・・。

じつは,「けんちく体質」と著者たちが名づけた概念は,この問題と深く切り結んでいるとわたしは考えている。ここではこれ以上の深追いはしない。『けんちく体操』の仕掛け人たちが,どこまで,この問題を意識しているかどうかはわたしの知るかぎりではない。しかし,荒川修作の提起した「建築する身体」の考え方を知らないはずはないし(けんちく体操博士の専門は「建築史」),表紙カバーに張り付けてある隅研吾のコピー「建築の身体性ってこういうことだったのか」からも十分に推測できるように,この著者たちの「たくらみ」はただごとではない,とわたしは受け止めている。だから,かれらの主張を,わたしの専門である「体操」(あるいは「体操史」)のサイドから,どこまで深追いすることができるのかと興味津々である。

このさきの展開は,また,機会をあらためて書くことにしよう。
今日のところはここまで。

2011年5月30日月曜日

DVD映画『バーレスク』を観る。

ちかごろはまことにありがたいお仕事が舞い込むようになった。DVD(映画)が送られてきて,その感想を聴かせてくれ,とのこと。しかも,スポーツ史家という肩書で,感じたままを書いていい,とおっしゃる。こんなにありがたいことはない。

さて,今回の映画は『バーレスク』(BURLESQUE)。いつもだと,DVDのほかにもリーフレットや関連の解説などがあって,ある程度の予測がつくのだが,今回は,丸裸のDVDだけがポンととどいた。カバーの写真や短いキャッチ・コピーだけが手がかり。
「バーレスク」かぁ,と短いため息をひとつ。このため息は,忘れていた世界を懐かしく思い出すときの,あの少しだけ緊張が解けたときの,ごくごく短いため息だ。それでいて,犬であれば,しっぽを振りまくっているはず。なぜなら,「バーレスク」ということばから真っ先に浮かぶイメージは,情けないことに「ストリップ・ショウ」だ。ケースの写真にもそれらしきものが載っている。だから,この映画はストリップに違いない,と勘違いをしたのだ。そんな,ストリップ劇場に足を運ぶときのような,ときめきを感じながら,パソコンにセット。

しかし,予想はみごとにはずれた。そんな卑猥な関心事とはなんの関係もない,堂々たる歌とダンスをふんだんに盛り込んだ素晴らしい映画だった。しかも,人生はどこまでも自分の夢を追い求めていくべきで,けして途中で諦めてはいけない,というお馴染みの「アメリカン・ドリーム」を絵に描いたような映画だ。そして,人間が「信」をおくべきものは「金」ではなくて,ほんものの「愛」だよということも,しっかりと教えてくれる。たぶん,この映画は折に触れて何回も観たくなるに違いない。落ちこんだときに観れば,間違いなく元気が湧いてくる。だから,DVDとして手元にあることは,それだけで幸せである。貯金が少しばかりたまったような気分。

ストーリーはカバーに書いてあるコピーを借用すると・・・。
バーレスク・ラウンジ,それはセクシーなダンサーたちがゴージャスなショーを繰り広げる大人のためのエンタテインメントクラブ。片田舎を離れ,アリは歌手になる夢を追いかけて,ロサンゼルスを目指す。テスが経営するクラブで自分が思い描いていた憧れの世界に出会ったアリは,アルバイトを始める。やがて,アリは抜群の歌唱力と突出したダンスの才能が話題となり,クラブは大盛況を極めていくのだが・・・・。

この映画がとてもよくできているなぁ,とごく個人的に感心したのは,つぎのようなことだった。
ひとつは,主人公のアリの顔がメイクひとつでみごとに変化するということ。つまり,歌う歌とダンスにマッチするように顔のメイクがみごとに工夫されているということ。メイクの威力とでもいえばいいだろうか。人間の顔というものはかくも変化するものなのか,とびっくりするほどである。映画の中ですら,同じ人間とはとても思えないほどの顔の変わり方をする。日常生活でそれをやったら,ひとりで何役をもこなすことができそうだ。それだけメイクの技が高度化したということでもあるのだろうが,それにしても驚くべきことだ。この女性のもつ奥行きの深さに,男は圧倒されてしまう。まことに残念なことではあるが・・・・。
だから,アリはステージに立つたびに,まったくの別人に変化してしまう。まったくの別人が歌を歌い,まったく別人がダンスを踊る。幕が上がるまでは,アリがどんな顔でスポットライトの中に浮かび上がってくるのか,だれも予測がつかない。考えてみれば,それこそが「バーレスク・ラウンジ」の見せ所でもある。そのお目当てのスターの変身ぶりが客を惹きつける。リピーターの客はそれが楽しみでまたやってくる。

もうひとつは,映画のストーリーの展開に合わせるようにして主人公のアリの顔も変化していく。これもまたメイクの威力なのだろう。田舎にいるときのアリは,まだ,田舎娘のままだ。そのアリがロサンゼルスにでてきて,少しずつ,そこでの生活に慣れてくると,顔や立ち居振る舞いも変化してくる。街中を歩く姿までが自信に満ちてきて,都会風となる。人間はこころの成長とともに歩き方も変わる。そういう演出もみごとだ。

さいごのひとつは,嫉妬や愛憎の渦巻くダンサーたちが,どんなにもめごとが起きようとも,さいごのところではひとつになって団結していかなくてはステージはつとまらない,ということをしっかりと承知している点だ。長年の借金の返済を迫られ,しだいに追い詰められていく経営者のテス(歌手であり,演出家でもある)を,アリは必死で支えていく。そのアリに,このバーレスク・ラウンジを買収しようとする資本家の誘惑の手がのびてくる。そして,お決まりのようにアリのこころは揺れ動く。しかし,意外にアリはしっかり者である。そこでも自分が「信」をおくべきところは「金」ではなくて,「友愛」だと自覚していくアリが描かれる。

まあ,歌とダンスがストーリーとみごとに織りなされていて,現実とステージとが入れ子模様のように展開していく。が,なんといっても,アリを演ずるクリスティーナ・アギレラの歌唱力の素晴らしさ,そして,ダンスの歯切れのよさ,がさいごまで観る者の眼を釘付けにする。もう,それだけで十分という映画だ。

きわめて健康的で,きわめて健全な映画だ。だから,こちらがピンチに陥ったときには間違いなく元気がもらえる。そういう映画になっている。いまの日本の,このどんよりとした,なんとも気持の晴れない世相にあっては,一場の救いの神様であるかもしれない。

2011年5月29日日曜日

海女さんは海のなかに溶け込んでいく=「内在」する存在。

海女さんのことを勉強して帰ってきました。
5月28日(土)午後1時から,山本茂紀・和子さんご夫妻のご尽力により,鳥羽市の「海の博物館」会議室で海女さんの勉強会(「ISC・21」5月鳥羽例会・世話人竹谷和之)が行われました。幸いにも,地元の生き字引のような方がお二人,そして,博物館で専門職としてお仕事をしていらっしゃる若い方がお二人,さらに,三重県博物館の学芸員の方がお一人と,いつもにもまして盛会でした。今回は,われわれの仲間うちから3人が代表して質問をし,それに答えていただくという方法をとりました。とてもいい雰囲気でQ&Aが繰り広げられました。お蔭で多くのことがわかってきて,とてもいい勉強会になりました。

そのなかの,わたしにとっての収穫の一部をご紹介しておきたいとおもいます。

それは,このブログのタイトルに書いたことです。
つまり,海女さんは海のなかに溶け込んでいく存在であるということ,すなわち,海と一体化し海に「内在」する存在であるということです。このことは,わたしにとってはかけがえのない大きな収穫でした。なにか,海女さんの世界というものが,わたしのなかにすとんと落ちてきました。なんともはや快感すのものでした。

どういうことかというと,以下のとおりです。
海女さんは,海に入っていくときに,地上を歩いているときの呼吸のまま,すっと入っていくといいます。つまり,わたしたちが海に潜るときにやるような大きな息の吸い込みはしない,ということなのです。いま,一緒に話をしていたのに,ふと気づくともう海のなかに入っている,というのです。この自然体こそが,海に入る海女さんの身体であり,こころである,というわけです。

海に入ってもすぐに深く潜るということはしない,ともいいます。徐々に,徐々に,からだを海に慣らしながら深く潜っていくということです。そして,平常心で気持ちが落ち着いているときには,あわびがどこにいるかがわかる,つまり,よく「みえる」といいます。駄目なときは,いくら頑張ってもなにも「みえない」ので,そういうときは無理をしないで海と戯れていることにしている,とも。この「みえる」「みえない」という表現が,わたしにはピンとくるものがあって,おおいに納得でした。

さらに,あわびは身の危険を感じると瞬間的に岩に吸いついてしまう,そうすると,どんなに頑張ってもあわびを岩から引き離すことはできないのだそうです。だから,海女さんは,あわびに危険を感じさせないように,さりげなく接近するといいます。そして,あわびが気を許している瞬間に,ノミ(オオノミ,コノミ,カギノミの3種がある)を入れて岩からはがしとります。この間合いのとり方がとても大事だといいます。

ということは,海女さんの泳ぎはできるだけ脱力して,へらーっと海水と戯れているような泳ぎになります。このことが酸素消費を少なくすることになり,長い間,海中にいることができる,というわけです。この海女さんの「潜る身体」は,近代スポーツの競泳選手の「早く泳ぐ身体」とはまるで正反対です。まるで海草が海中に浮かんでいるように,海女さんの身体も海中をただよわせている,といっていいでしょう。つまり,海のなかよ溶け込んでいく身体,海と一体化する身体,すなわち,「水の中に水があるように存在する」(バタイユ)そういう身体,もっといってしまえば,「内在」する身体(あるいは「存在」)というわけです。

この状態は,瞑想する身体,坐禅する身体,悟りの身体,自他の区別のない身体,つまり,他者のなかに溶け込んでいく身体,とほとんど違いがありません。

海女さんという人たちの身体,あるいは,存在はそういう世界を生きている,ということです。このことが,今回の勉強会での,わたしにとっての大きな収穫でした。そして,とても大きな喜びでした。また,ひとつ,わたしの思考の世界が広がりました。

2011年5月28日土曜日

『けんちく体操』なる奇書がとどく。

この本をどう思うか読んでみてほしいという依頼とともに『けんちく体操』なる本がとどいた。『けんちく体操』(THE ARCHTECTURAL GYMNASTICS),体操と文=米山勇+高橋英久+田中元子+大西正紀(チームけんちく体操),エクスナレッジムック,2011年4月刊,1,200円。

宅急便で送られてきたので,そこからとり出した瞬間に笑ってしまった。その表紙をみて。なぜなら,東京タワーの前で,3人の大人(うちひとりは女性)が立位開脚姿勢で両腕を頭の上に伸ばし,手の平を合わせている。真っ青の空に赤白に塗られた東京タワーがそびえ立つ前で,3人が大まじめな顔をして,さきほどのポーズをとっている。つまり,東京タワーになったつもりなのだろう。人の影が長く伸びているところをみると早朝の撮影であることがわかる。これが,すなわち「けんちく体操」だというわけだ。

いつものクセで,目次を拾い読みしたら,すぐに,うしろにまわり,奥付から順番にチェックを入れていく。表紙カバーの折り返しのところに「けんちく体操」の定義らしきものが書いてあるので,それを引いておこう。
【けんちく体操】
建築物を模写する体操。外観だけでなく,構造や用途,個人的に抱いた第一印象などを身体で表現するもので,身体能力以上に,建築を見る,知る,愛する情熱が問われる体操である。やればやるほど「けんちく体質」を身に付けられると言われている。「けんちく体操」を行うために作られたロボット「けんちく体操マン・ウーマン」は,現在,3体確認されている。

ひととおり内容をチェックしてから,この定義を読むと,なるほど,まことに手際よくまとめてあることがわかる。みごとというほかはない。「建築物を模写する体操」ですべて言い切っている。その上で,身体能力よりも建築を見る,知る,愛する情熱」が大事だという。そして,やがて「けんちく体質」が身につくという。このあたりでもう一度,ぷっと吹き出してしまう。さいごに,ロボットが3体確認されている,というところで再度「ぷっ」である。

奥付を一枚めくると,「チームけんちく体操」の4人のメンバーが紹介されている。それがまたふるっている。けんちく体操博士”イサーム・ヨネ”=米山勇,けんちく体操マン1号=高橋英久,けんちく体操ウーマン1号=田中元子,けんちく体操マン2号=大西正紀。それぞれの経歴が詳しく紹介されている。うち,お二人は建築の専門家,あとのお二人も建築にかかわるお仕事にたずさわっていらっしゃる。この4人が横並びに直立不動の姿勢で立っている写真が眼を引く。その顔ぶれをじっと眺めていると,やはり,ふつうの人たちではないな,ということが伝わってくる。

日本の有名な建築を中心に,世界のよく知られる建築を加えて,全部で73のパフォーマンスが紹介されている。みんな,表紙の東京タワーと同じように,身体的なパフォーマンスとしてはきわめて単純で簡単なものばかり。むつかしい身体技法はひとつもない。見れば,すぐに,その場で,だれでもできるものばかりである。たとえば,白川郷の合掌造りは,開脚で立ち,上体をやや前傾して,顔の下で両手を合わせて合掌しているだけである。

これが,なぜ,「けんちく体操」なのかなぁと考える。みんな真剣な表情をしている。つまり,自分のイメージする建築になりきっているのである。この「なりきる」ということが大事らしい。そして,「けんちく体質」を身につけること。そうなると,どうも快感がともなうようになるらしい。ここまで思いがたどりついたとき,はたと気づいたことがある。

そうか。これは,まさに「体操」である。それも体操の「本質」をみごとに衝いている。

20世紀の前後にかけてヨーロッパでは「体操改革運動」(Neue Gymnastikbewegung)なるものが展開された。それは,19世紀に盛んに行われるようになった体操が次第に形骸化してしまい,まるで,ピノキオのような人形が体操をしているようなものになってしまった。そこで,ピノキオに人間の魂を吹き込んで,人形の体操から人間らしい体操をとりもどそうと主張する人びとが登場した。そこに集まってきた人たちは体操の専門家だけではなく,ダンスや音楽や芸術の専門家たちまで集まってきて,人間の魂の内奥からわき上がってくるような快感をともなう体操を模索することになった。

この体操改革運動は,断わるまでもなく,この時代の芸術運動と連動するものであった。たとえば,絵画の印象派やキュービズムやシュールレアリスムなどの,いわゆるアヴァンギャルドと呼ばれる運動と密接にリンクしていたのである。この時代はまた,ジョルジュ・バタイユやカイヨワや岡本太郎などが集まって形骸化してしまったアカデミズムに対する根底的な問いを発していたころとも符号する。これらの主張に共通していることは,人間の内奥の表出を擁護するという立場である。体操改革の主眼もそこにあった。

こうした体操改革の成果は,第二次世界大戦後になって,さらに細分化しそれぞれの道を歩むこととなる。たとえば,競技化をめざした新体操,健康や美容やリズムやエアロビックといった目的別にそれぞれの体操体系を立ち上げ,こんにちにいたっている。しかしながら,1920年代の最大の成果である体操の本質,すなわち,人間の内奥と共振・共鳴する体操の存在が,どこか影がうすくなってきているように思われる。いな,目的意識の明確な体操ブームに煽られてしまって,体操をすることそのものの喜びを重視する体操(体操の本質につながる体操)がどこかに置き去りにされているのではないか,とわたしなどは危惧している。

そこに,この「けんちく体操」の登場である。これを「体操」と名づけたところを高く評価したいと思う。なぜなら,ものまね芸だと片づけてしまってもなんの問題もないかのようにみえるからだ。お笑いの世界でも「炎」という文字をからだで表現する芸がある。形態模写(コロッケの芸)やパントマイムのような芸もある。しかし,それらの芸とは明確に一線を画して,声高らかに「けんちく体操」と名乗りをあげたところが素晴らしい。

なにゆえにか。建築は,人間が産み出した純然たるオブジェそのものである。つまり,人間の身体性ともっとも深くかかわるべきはずの建築が,動物性そのものを体現している身体とはもっとも遠いところに位置づけられることになってしまった。その結果,人間の身体もまたオブジェと化しつつある。このことをもっとも危惧していた建築家に荒川修作がいた。かれは,近代が産み出した直線的な建築に人間の身体がとりこまれてしまうことは「死ぬ」ことと同じだ,と主張し「死なないために」というコンセプトの建築をめざした。そのひとつが「養老天命反転地」というテーマ・パークだ。ここで目指されたものは,建築をとおして「死にかけて」いた身体を蘇生させることだった。

このことと「けんちく体操」は深くつながっている。しかし,そのベクトルは逆だ。「けんちく体操」は,純然たるオブジェである建築物を身体で表現しようとする。しかし,そこにはどう頑張っても埋め合わすことのできない深い溝がある。だから,「なりきる」ことによってその溝を埋め合わせようとする。そのように努力していると,いつのまにか「けんちく体質」が身につくという。この「けんちく体質」こそがポイントだ。すなわち,たんなるオブジェにすぎない建築物に身体をなりきらせようとするとき,身体の「動物性」が蘇生する。つまり,身体の動物性に「じかに」触れる体験をともなう。このとき,人間はいわくいいがたい快感にしびれる。これこそが「体操」の根源であり,「体操」の本質そのものに触れることなのだ。

「けんちく体操」は,長い間,忘れていた「体操」の本質そのものを呼び覚ます恐るべき「文化装置」として,この21世紀に誕生したことになる。

とまあ,大急ぎで,いま,わたしが感じ,考えたことを整理すると以上のようになろうか。このあたりのことは,きわめて重要なことなので,もう少し考えを推敲してみたいと思う。とりあえず,今夜はここまでとする。

2011年5月27日金曜日

山本太郎のツイッター発言を所属事務所が否定とか?!ナヌッ?

インターネット情報はリアル・タイムで流れてくるので,とても面白い。空き時間があると,すぐにあちこち面白そうな情報を探して歩いている。

と,早速,山本太郎のツイッターでのつぶやきが,すでに取消になっていて,山本太郎も「つぶやかない」宣言をしたという。しかも,所属事務所は,山本太郎のつぶやきを「事実ではない」と否定しているという。ここまで魔の手は延びてきているということを実証したようなものだ。おもしろいのは,所属事務所の応答の仕方。事務所の電話番の女性が「事実ではない,と応答するようにといわれています」の一点張りで,それ以上のことはなにもわからないということ。

もし,ほんとうに「事実でない」というのであれば,きちんと説明すれば済むこと。それを事務の女性に代弁させて,おうむ返しの応答しかしていない,というこの事実がすべてを語っているとわたしは受け止める。で,もし,ほんとうに「事実」ではなかったとすれば,山本太郎君自身がツイッターで釈明すれば済む。それもさせないで,ツイッターを消去させ,しかも,ツイッターを中止させた,この不自然な力学を考えれば,だれが,どのようにプレッシャーをかけているは歴然としている。こんな子どもだましのようなことをやるところが,まさに,原子力村の応対ととてもよく似ている。

つまり,責任のなすり合い。だれも責任をとろうとはしない。お互いに,だれかに責任を押しつけ合っている舞台裏がいまでは丸見えだ。で,結局,関係者は全員,貝のように口を閉じてしまい,ただ事務所の女性に「事実ではない」と言わせて終わりにしようという魂胆まで丸見えだ。そして,最後は,山本太郎君に責任をとらせようということ。しかし,太郎君のツイッターまで「口止め」してしまった,この恐るべき「暴力」がまかりとおること自体がおかしい。こういう言論弾圧が,日本の社会ではまかりとおる,ということを見逃してはなるまい。

じつは,この構造は,芸能界という特殊な世界にかぎられたことではなくて,ごくふつうの会社でも,大学でも同じだ,ということが恐ろしい。日本の社会のすみずみまで浸透している,という事実。これは,みなさんの身近にもいっぱい思い当たることがあると思う。この「壁」をいかに突き破っていくかということも,じつは,「3・11」以後を生きるわたしたちの大きな課題なのだ。それもこれも,みんな福島原発の事故が引き金となって,長年培ってきた都合の悪いことは「隠蔽」するという日本の悪しき慣習行動が,ようやく明るみにでてくるのだから。

その意味で,山本太郎君,もう一踏ん張りしませんか,と呼びかけたいし,みんなで支援していきたいと思う。福島のご両親やファンの人たちは憤懣やるかたなし,というところでしょう。日本人として,しかも基本的人権を守る立場からして,きわめてまっとうな発言をし,姿勢を貫くことに,闇の世界から意味不明なプレッシャーがかかってきて,ものも言えなくしてしまう。この構造が厳然と存在し,いまも大きな力をもっている。

あなおそろし,あなおそろし・・・・。

反原発の俳優山本太郎がドラマ出演降板だとか・・・・。ナヌッ?!

日本の社会の支配層に数多く棲息する魑魅魍魎が,このところつぎつぎに馬脚を現しはじめている。まるで「原子力村」のような構造があちこちにあって,自分たちの好き勝手に,やりたい放題のことをやりつづけてきた組織や団体が,音を立てて崩れ落ちはじめているようだ。

芸能界も,むかしから伏魔殿としてよく知られているとおり,摩訶不思議な魔物が数多く棲息しているところとして知らぬ人はいない。こんどは「反原発」を主張し,デモにも参加(20シーベルトから子どもたちを守れ,というきわめてまともなデモ)したという理由で,予定されていたドラマ出演からはずされた,という(本人のツイッター)。

ひとりの俳優として,そして,ひとりの市民として,未来の日本を背負うべき子どもたちのからだのことを憂い,「原発は止めよう」「20シーベルトはあまりに数値が高すぎる」と意思表示をしたことで,ドラマ出演からはずされてしまう,という恐るべき事実が露呈した。

ということは,そのドラマに出演する人たちは,みんな「原発推進」派か,それとも「知らぬ勘兵衛」派の人たちばかりだということになる。もちろん,そのドラマの制作にかかわる人びとは,間違いなくそのいずれかである。もちろん,スポンサーも。(ひょっとしたら,東電かな?)

こういう「踏み絵」を踏まされて制作されるドラマとはいったいなんなのか。
山本太郎君は立派だと思うのは,「ドラマ制作の現場に迷惑をかけるから,どのドラマかは言わない」とつぶやいたことだ。これでいい。放っておいても,どのドラマであるかは,すぐにわかることだ。その方が効果は大だ。みんな特別の関心をもって,そのドラマを観るだろう。あるいは,意図的にチャンネルを変えるだろう。

そうなると,そのドラマに出演している俳優さんや女優さんの立場はどうなるのだろう。まるで,「原発推進」派であることをドラマ出演をとおして表明しているようなものだ。あるいは,頬っかむりをして「知らぬ勘兵衛」さんを押し通す厚顔無恥をさらけ出すことになる。この逆の「踏み絵」も恐ろしいことだ。そのことに気づいた俳優・女優はどうするのだろう。

もっともそのむかし,「原発は安全です」というコマーシャルの顔として大活躍したタカハシ君は,これからどうするのだろうか。早いうちに,「わたしは間違えていました」と懺悔した方がいい。そうしないと,タカハシ君,あなたの人格までが傷ついてしまいます。人間はとてもいい人だ,と聞いているだけにますますそう思う。率先垂範して,タカハシ君,あなたがそういう姿勢を提示することが,わかい俳優・女優さんたちをどれだけ勇気づけることか。そして,芸能界を洗浄するための,きわめて重要な一石を投ずることになることか。ぜひ,やってほしい。

それが,山本太郎君への最大のエールになる。
これから,このドラマの行方をしかと見極めていきたいと思う。
こころの底から許せないから。
そして,山本太郎君に,大いなる拍手を。

2011年5月25日水曜日

小出裕章さんの参議院での陳述にサブイボが立つ。

5月23日の西谷修さんのブログ「小出裕章・後藤政志さんら,参議院で陳述」を読んで,そのなかに紹介されていた「参議院USTREAM中継・脱原発への道」のアドレスを開いて,サブイボが立ってしまった。サブイボとは鳥肌のこと。これは必見の中継。

きちんと紹介しておくこう。「参議院行政監視委員会」行政監視,行政評価及び行政に対する苦情に関する調査(原発事故と行政監視システムの在り方に関する件)。参考人,小出裕章(京都大学原子炉実験所助教),後藤政志(元東芝原子炉エンジニア),石橋克彦(神戸大学名誉教授・地震学),孫正義(ソフトバンク株式会社代表取締役社長)。この人たちが順番に意見陳述をしていく。それぞれの参考人に与えられた時間は短いものであったが,その迫力たるや抜群。なかでも,わたしは小出裕章さんの発言にフリーズしてしまった。

それにしても,参議院の行政監視委員会が,よくも,これらの人たちを参考人として招聘し,意見を聴く場を設けたものだと,ある意味では感動もした。なぜなら,これらの人びとは,NHKをはじめとするマスメディアからは忌避され,排除されてきた人たちだからだ。それを承知で参議院が招聘してそれらの人たちの意見に耳を傾けたことは,高く評価してよいと思う。いや,むしろ,大きな拍手を送りたい。

なかでも小出裕章さんの陳述に,目の前で落雷を受けた大木が真っ二つに引き裂かれていくような,身の毛もよだつ衝撃を感じた。小出さんは,きわめて冷静に,重大な問題点に焦点をしぼり,的確な事実を提示しながら,しかも,気迫をこめて,ことばを選びぬいた陳述を展開。そのすべてを紹介したいところだが,わたしには不可能なので,残念ながら,強烈な印象に残ったところだけを紹介しておこう。

小出さんは,原子力こそ未来を照らすエネルギーだと信じてこの研究の世界に身を投じた,と切り出しながら,途中で,これほど危険で手に負えないエネルギーはないということに気づき,その危険性に警鐘を鳴らしつづけてきた,という。原子力関連の裁判闘争の証人にも立ち,反原発の闘争を展開してきた,という。その上で,つぎのように語る。
高速増殖炉の開発は不可能である,ということが歴然としているにもかかわらず,そこに巨額の資金を投じて,いまも研究開発をつづけている。こんなことが野放しにされていていいのか,と問う。これは,詐欺罪に相当する,と。1億円の詐欺をはたらくとほぼ1年の実刑になるのが過去の判例から明らかだが,モンジュの開発費だけで,すでに1兆円を投じている。したがって,この開発の関係者を詐欺罪で訴えたとしたら,全部で1万年の実刑に相当する。100人で分けもったとしても100年の実刑に相当する,という。こんな馬鹿げたことが野放しにされていることの「狂気」こそが重大問題だ,と指摘。

また,つぎのようにも指摘する。ヒロシマの原爆は800グラムのウランが使用された。しかし,原発1基が1年で消費するウランは1トンになる,と。つまり,ヒロシマの原爆に換算すると1000発以上に相当する,と。こういう原発が日本国内に54基ある。もちろん,定期的に点検に入っているので,すべての原発が稼働しているわけではないが,とんでもない量のウランが絶えず消費されていることに間違いはないのだ。

これ以上のことは,ぜひ,USTREAMで確認してみてください。
全体的な印象としては,原子力村(最近,このことばが踊りはじめた)はやりたい放題の,しかも,狂気の集団のたむろしている村落共同体だ,というものだ。困ったことだが,それが,現実なのだ。だとしたら,まずは,この原子力村の解体からとりかからないかぎり,脱原発はとうていかなわない夢のまた夢に終わりそうだ,ということだ。

その意味では,これからが正念場だと言ってよいだろう。
それは,ちょうど,福島原発の封じ込めに,いまだに「決め手」がみつからないまま,事態はますます悪化していることと同じだ。ここをどのように「通過」するか,日本の将来のすべてがかかっているといっても過言ではない。わたしたちも,そのつもりで監視をつづける必要がある。そして,できるところから行動に移すこと。でないと,日本の将来には夢も希望もなくなってしまう。

これからも小出裕章さんの発言に注目していきたい,としみじみ思ったしだいである。
ひとまず,今夜はここまでとする。

2011年5月24日火曜日

高槻市の上宮天満宮,今城塚古墳を見学。

今日(23日)の午後に,高槻市の如是公民館から依頼されていた講演を済ませて,さきほど,もどってきました。演題は「相撲ってなに?古代相撲から現代相撲まで」というもの。この演題は,如是公民館の富田英子さんに決めてもらいました。というのも,富田さんがわたしのブログを読んで,野見宿禰に関する記述をみつけたのが講演依頼のきっかけだった,と聞いたからです。

この講演に先立って,午前中に,富田さんが上宮天満宮と今城塚古墳を案内してくださいました。
上宮天満宮(じょうぐうてんまんぐう)では,代表役員という肩書の森嘉和さんが応対してくださり,いろいろと貴重な勉強をすることができました。事前に,富田さんが『てんじんさん風土記』という冊子をおくってくださっていたので,ある程度の予習はできていました。
そこで,まずは,ここの境内にある野身神社。この「野身」という文字が気になりました。で,さっそく,あちこち文献をあたってしらべてみましたら,いろいろの表記があるということがわかりました。たとえば,以下のようです。
野見,能見,能美,弩美(のみ),祈祷(のみ),乃禰(のみ),濃美,濃味・・・・という具合です。
要するに,野見一族が,あちこちに分散して,それぞれに好みの当て字を用いて名乗っていたことの名残だろうと,いまのところは推測しています。
それはちょうど,安曇野に拠点をおいた「あずみ」族と同じだなぁ,とかんがえています。安曇,安住,渥美,安積,などのヴァリエーションがあるのと同じだ,と。

上宮天満宮に野身神社があることは,なんの不思議もありません。天満宮は菅原道真を祀った神社ですから,その祖先である野見宿禰を祀るのは当たり前のことでもあります。もちろん,北天満宮にも野見宿禰神社があります。
が,驚いたのは,上宮天満宮は,北天満宮よりも2年前に建立された,という事実です。しかも,この上宮天満宮のある高槻市一帯は,野見一族の拠点になっていた,という事実です。この二つの事実を知って,わたしの頭のなかはフル回転をはじめました。奈良県には「出雲」と呼ばれる土地があって,野見宿禰はそこに住んでいたといわれています。そして,この「出雲」と出雲大社のある出雲とを混同して,野見宿禰は出雲の人,と考えられているからです。わたしも長い間,野見宿禰は出雲の人だと思っていました。が,この事実を知って仰天です。

高槻市には,野見,菅原,という地名がいまも残っていて,その近くには「野見郷」(のみのさと)と呼ばれている土地もあります。それは,上宮天満宮からまっすぐ南にくだってきた地域につらなるようにしてあります。ということは,上宮天満宮ができてからのちも,野見宿禰の子孫たちが,そこに居住していたとかんがえていいだろう,ということです。

さらに驚いたことは以下のことがらです。
富田さんの案内で,今城塚古墳を前にしたときです。発掘したときにでてきた埴輪が,ほぼ,その位置に並べてあるのだそうですが,それがとてつもない数の多さでした。雨が降っていたのと,時間が足りなくなっていた(講演前でしたので)のとで,ゆっくりと見学するわけにはいきませんでしたが,ここは,もう一度きて,じっくりと巨大な今城塚古墳の全体を歩いてまわりながら,感じ,考えてみたいと思いました。そこに並んでいた埴輪の一部に,力士埴輪があって,それらは相撲の所作と考えられるポーズをとっています。そのなかの一体は,神官や巫女さんの集団の先頭に立って,なにやら相撲の所作をしています。その近くには,祭祀が執り行われたであろう二階建ての建物を表した埴輪がいくつも置いてありました。この力士埴輪を眺めているかぎりでは,力士は「すまい」(=素舞い)をしているであって,相撲をとっているわけではありません。「素舞い」とは,祈りの所作が大きくなったもの,つまり,「舞い」=「祈り」=「祈祷」(のみ)そのものである,ということです。

このことと同時に,この今城塚古墳から,これほどの大量の埴輪がでてくることの意味を考えてみると,もっと驚くべきことが明らかになってきます。埴輪を焼くようになったのは,『古事記』によれば,野見宿禰が天皇に上申したのがはじまりだった,ということになっています。以後,埴輪が多く制作されるようになった,というのが一般的な理解です。そして,この埴輪は土師氏という職能集団が焼いたものであります。その長ともいうべき人物が野見宿禰だったわけです。そして,ここにおびただしい数の埴輪が出土するということの意味もおのずから明らかになってきます。

となると,野見宿禰は,出雲の人ではなくて,ここ高槻の人ということになってきます。
だからこそ,菅原道真が太宰府に流されたとき,京都を出発して,最初に宿泊したところが先祖の拠点であったここ高槻ではなかったか,とわたしは考えます。そして,太宰府に到着した菅原道真は2年後には失意のうちに没してしまいます。

それからまもなく京の都ではたいへんなことが起こります。天皇の子どもたちが立て続けに病気になって死に,右大臣であった菅原道真に冤罪をかぶせた左大臣一族がつぎつぎに奇病にかかって死んでいきます。さらに,雷が鳴りつづけ,疫病が大流行します。この現象を京の都の人たちは菅原道真の怨霊による祟りだと受け止めます。そして,菅原道真の御霊を鎮めるために北天満宮を建立します。
が,その前に,菅原道真の死後,ただちに,高槻に住む野見郷(のみのさと)の人びとは天満宮の造営にとりかかったのではないか,とわたしは考えます。その結果,北天満宮に先立つ天満宮という意味で「上宮天満宮」と名づけられたのではないか,とこれもまたわたしの推測です。

というようなわけで,今回の高槻市如是公民館での講演がご縁となって,とんでもない大発見が(少なくともわたしにとっては)ありました。それもこれも,みんな,富田英子さんのお蔭です。富田さんが,もし,わたしのブログを読むことがなかったら,この講演は成立しなかったわけですから。富田さん,お世話になりました。ありがとうございました。
いつか,チャンスをつくって,必ず,もう一度,時間をかけてあちこちの古墳めぐりをしたいと考えています。そのときは,ぜひ,お付き合いくださいますよう,お願いいたします。
取り急ぎ,富田さんへのお礼を兼ねて,このブログを捧げます。ありがとうございました。

2011年5月22日日曜日

国立民族学博物館の「ウメサオタダオ」展に行ってきました。

高槻市の如是公民館が主催する講演を依頼されていましたので(23日午後2時より),少し早めに関西にやってきて,二つ,三つ用事を済ませ,今日(22日),万博記念公園の中にある国立民族学博物館の特別展「ウメサオタダオ」展に行ってきました。

じつは,昨日(21日),関西に在住の友人たちが国立民族学博物館へ案内してくれ,常設展の方を見物してきました。特別展もやってるよ,と教えてくれましたが,梅棹忠夫さんのことをほとんど知らない人たちといくところではないと自分で決めて,お断りをして図録『梅棹忠夫─知的先覚者の軌跡』だけ買って帰ってきました。夕食後,早速,この図録を読みはじめ,朝方の4時ころまでかかってほぼ全部を読み終えました。この人,梅棹忠夫という人の発想の奇想天外さがどこからくるのかと,以前から気がかりでしたが,この図録を読んで,とてもよくわかりました。のみならず,いまさらながらに感動してしまいました。

しっかり予習をしたところで,今日(23日)のすべての時間をかけてもいいから,じっくりと特別展をみようと思って眠りにつきました。が,なんと,今日の午前中はひどい雨風で,これではでかけられないと諦めてホテルに籠もっていました。そして,もう一度,あちこち拾い読みをはじめていたら,午後になって雨が止み,雲が切れてきて,明るくなってきました。これなら大丈夫と走るようにして高槻を出発。万博記念公園は雨上がりの青空をバックに新緑がみごとで,岡本太郎の「太陽の塔」もにこやかに迎えてくれました。

展示の内容はほぼわかっていますので,お目当ては,梅棹さんが用いたフィールド・ノート,メモ用カード,スケッチ・ブック,タイプライター,など。いわゆる『知的生産の技術』という名著を書くにいたる小道具たちがどのように使いこなされていたのか,そこに興味がありました。それと,もう一点は,『文明の生態史観』を生み出すにいたる梅棹さんの足どりとその発想の原点でした。この点については,『図録』でも大勢の人が謎解きをしてくれていますので,一定の予備知識はもっていましたが,やはり展示をみるとじかにその迫力が伝わってきました。

ここでは,わたしなりに納得した結論的なことだけを,思いつくまま書き記しておきたいと思います。
それは,まずなによりも,「足で歩き,その現場に立ち,肌で触れて,そこから思考をスタートさせる」という梅棹さんの基本的なスタンスでした。とにかく行動の人。そして,歩きながら(移動しながら)考える,あるいは,考えながら歩く,その上で文献のチェックをするというスタンス。あらゆる既成の概念にしばられることなく,まったく自由に,想像力(創造力)をはたらかせること。そこから生まれる発想をつぎつぎに書き記していくこと。さらに,カメラはあるのにスケッチをすること。そのスケッチにその瞬間,瞬間に浮かぶアイディアやイメージを書き込むこと。そして,それを整理すること(この整理学こそが梅棹さんの本領発揮というところです),しかも,それらを可能なかぎり文章化すること。これらを精力的にこなすこと。

なぜ,こんなに精力的に仕事ができるのか,と問われた梅棹さんは「あそび」だから,と答えたそうです。当然のことながら,ここでいう「あそび」とは通俗的な意味の「遊び」ではありません。なにものにも拘束されることなく,まったく自由に脳内活動(知的遊戯)を展開すること,これが梅棹さんのいう「あそび」です。ですから,楽しくて楽しくて仕方がない,というわけです。それは,まるで,子ども時代に熱中したという昆虫とりや植物採集(これらも,すでに,整理分類することが,必然的にともなっていた)と同じです。そして,その後は山登りです。三高の2年生のときには,一年のうち100日以上も山で暮らしたといいます。その結果,2年生を3回くり返した(落第したため)といいます。それでも,梅棹さんは,いやいやふつうの人より3倍多く友達ができた,と豪語しているほどです。つまり,これは面白いとなったら,もう,止めようがないという次第です。それが梅棹さんのいう「あそび」です。こういう「あそび」にあやかりたいものだとしみじみ思いました。

その止めようもなく面白いことが,梅棹さんにとってはフィールド・ワークであり,そこから生まれる「発見」であり,それらの「発見」を積み上げていくと,かつて,だれも考えたことのなかった,まったく新しい発想が生まれてくる,それを文章にして発表する,すると,かならず,大きな反響がある。それは,いつも,賛否両論に真っ二つに割れる。だから,なおさら,面白い,と梅棹さんはいう。要するに,梅棹さんは,まことに天性に合った「あそび」が仕事になってしまった,というわけです。ですから,やることなすことみんな面白くて仕方がない,と。

それにしても,こんなに才能に恵まれた人も少ないのではないか,と思います。たとえば,スケッチのみごとさ(画家になっても一流になったのではないかと思います),写真はプロ並み,動物学から社会科学への転身(知りたいと思ったら,いかなる学問領域にも飛び込んでいって,それをわがものとする。そして,さまざまな学問を横断する視野の広さが梅棹さんの発想の根源にある),数学という得意技(オタマジャクシの群れる現象を数学的に解析した論文が学位論文だという),鳥の鳴き声や川の流れる音,風の音,などを五線譜に移しとることができるほどの耳のよさ,地図のない未開の土地への探検・登山を試み,地理上の発見をすること,学術調査の団体を組織して(必要とされるあらゆる学問領域の専門家をあつめる)そのリーダーとなり,調査報告書をまとめあげる力,そして,国立民族学博物館を設立するために行政を説得し,巨費を捻出させる力,などなど。挙げていけばきりがありません。

そうした,トータルな能力の高さが,やがて世界的にみてもトップレベルといわれる「国立民族学博物館」を立ち上げ,初代館長となるところに向けられていきます。そのころに書いたかと思われるメモ書き(たぶん,どこかのレストランで食事でもしていて,眼の前にあったコースターの裏に書いたと思われる)が,『図録』の内側のタイトルの下に掲載されています。そこには,つぎのように書いてあります。しかも,あちこち推敲の跡がいっぱいで,なんとも汚いメモ書きです。
「ふかい学識,ひろい教養,柔軟な行政力,やたかな国際性,いきいきとした市民感覚」

今日は,いささか興奮気味で,まとまりのない文章でお許しください。これから,何回にも分けて,梅棹忠夫さんのことは書いてみたいと思いますし,わたし自身も,これからの仕事をすすめていく上で,ちょっとスタンスが変わるかもしれないと、思っています。このブログの書き方も変わるかもしれません。なぜなら,梅棹さんの「あそび」にあやかってみたい(ちょっと遅きに失したとはいえ),と切実に思うからです。

では,今日はここまで。これから,明日の講演の準備にとりかかります。ちょっと,時間が足りないかな?不安がいっぱい(笑い)。

2011年5月20日金曜日

「3・11」以前の「普通」はふつうではなかった。

なにもかもがメルトダウンを起こし,「3・11」以前に構築されてきた「あらゆるもの」(戦後民主主義も日米関係も,そして,マスメディアもアカデミズムもふくめて「あらゆるもの」)が崩壊(メルトダウン)してしまった。さて,われわれはこれからどのような「問い」を立て,その答えをみつけていけばいいのか,という問題提起を西谷修さんがブログのなかで書いている。

昨夜も今朝もずっとこのことを考えつづけている。

現実には,被災地の復旧・復興に向けて日夜,多くの人びとが全力をそそいでいる。そして,一刻も早く「3・11」以前の「普通」の状態をとりもどそう,という掛け声が鳴り響く。わたしもまったく同感であった。しかし,よくよく考えてみると,ここでいう「普通」とはなにか,という肝心要の「問い」が抜け落ちていることに気づく。この「3・11」以前の「普通」もまた「メルトダウン」してしまったのだ。一度,メルトダウンしてしまったものは半永久的に「普通」にはもどれない。そのことも今回の原発事故によって学んだ貴重な教訓のひとつだ。

そこで,もう一度,「問い」を立て直して考えてみよう。
「3・11」以前の「普通」とはなにか?
この「問い」への応答の仕方は無限に広がっていくので,まずは,この夏に向けての当面の課題である「電力」に限定して考えてみよう。すると,にわかに奇怪なイメージが浮かび上がる。電力事情を「3・11」以前の「普通」にもどすとは,どういうことなのか?という「問い」だ。これは,まさに,原発推進派や東電の思うつぼである。十分な電力を確保するためには,いま停止している原発を一刻も早く再始動させることだ,と。もちろん,いまでは,すでに,原発に頼らなくても電力は確保できる,と多くの識者の試算が提示されているように,この夏の電力は足りる。

このことを確認した上で,「3・11」以前のような電力の消費状態は,はたして「普通」だったといえるのか,という新たな「問い」がここでは不可欠だろう。このブログでも,何回かに分けて書いてきたように,わたしたちはあまりに贅沢に電力を消費してきたのではなかったか。家庭のテレビはつけっぱなし。夜の街中は必要以上に明るい。コンビニを筆頭に,デパートも,駅舎も,会社の中も,とにかく明るいことはいいことだとばかりに目一杯に電力を消費してきた。徐々に,徐々に,少しずつ,長い時間をかけてこの「明るさ」が増大してきたので,わたしたちはこれを「普通」だとカンチガイしてしまった。この明るさは,ヨーロッパの人たちからみると「異常」なのだ。わたしの少なからぬヨーロッパ滞在経験からしても,ヨーロッパの「節電」は徹底している。

「3・11」以後,わたしたちが経験した街中の「節電」も,当初は「暗い」なぁと感じたものの,ものの2,3週間もしたら慣れてしまった。慣れてしまえば,それが「普通」になる。しかも,なにも不自由はない。電車の本数も通常の「8割運転」になった。日中の運転間隔が,やや,遠くなったかなぁ,とは思うが,なんの不自由も感じない。これでいいのだ。つまり,過剰なサービスは不要だということ。デパートの照明も,いま敷設されている電灯の「8割」で十分だ。それでも,ヨーロッパのデパートよりは,はるかに明るい。

このように考えてくると,「3・11」以前の「普通」はふつうではなかった,ということがわかってくる。いったい,この「普通」とはなにか,というつぎなる「問い」が立ち上がってくる。ここからさきはみなさんに考えてもらうことにしよう。

いま,重要なことは,「普通」をどこに設定するかによって,「3・11」以後の目指すべき方向やレベルが決まる,ということだ。以前の「普通」は異常だったという認識に立つことが先決である。そして,つぎなる「ふつう」をどのように模索していくか,それがわたしたちに課せられた「問い」である。そのためには,人が「生きる」とはどういうことなのか,という根源的な「問い」からやり直さなくてはならない。つまり,「0(ゼロ)」からの再出発である。

ことほどさように,なにもかも,「0」からの再出発が必要だ。原発も「0」から仕切り直し。
経済も同様。宇沢弘文さんが仰るように,「人間と自動車とどちらが大事なのか」と考えよ。人間が大事なのは分かり切っているだろう。だったら,道路は歩行者優先にして,まずは,歩く人のための道路を確保した上で,つぎに自動車の走る道を考えるべきだ。それが,いまや,人間が自動車に道を譲らなくてはならない道路になってしまっている。これは本末転倒だ。と宇沢さんの本を読むと,経済そのものの考え方の根本が狂っている,ということがわかってくる。その狂ってしまった市場経済最優先政策の結果として立ち現れた「消費文明」を,わたしたちは「普通」とカンチガイする羽目に陥ったのだ。そこから脱出すること。それこそが,なにもかもメルトダウンしてしまった,「3・11」以後を生きるわたしたちの最大の課題ではないか,とわたしは考えている。

この問題は,これからも折に触れ,取り上げて考えていきたいと思う。
なぜなら,いま,わたしたちが眼にしている「スポーツ」もまた「普通」だと思っている人が圧倒的多数なのだが,じつは,これもまた「普通」ではないどころか,きわめて「異常」なのだ。それは,生きる人間にとってスポーツとはなにか,という根源的な「問い」を立ててみれば,すぐにわかることだ。このことと,「3・11」以前の「普通」とは間違いなく「連動」しているからだ。

なにもかもがメルトダウンして,それまで「普通」だと思っていたことが,きわめて「異常」であったということに,初めて気がつく。すべては「気づく」ことからはじまる。早い・遅いは仕方がない。気づいたときが吉日だ。そこから出発するしかないのだから。

気づいたところから「3・11」以前の「普通」を乗り越えていこう。そして,あらたな21世紀を生きる「ふつう」を構築していこう。

2011年5月19日木曜日

「こちら特報部」の原子力ポスターコンクール見送りの記事について。

ハントルネーム「大仏さん」からコメントが入りました。
昨日のブログの記事のうち,教育に「推進」おかしい,の内容が気がかりだというご指摘でした。この記事は,教育関係者にとってはきわめて身近な,重要なテーマだと思いますので,「気がかり」を解消するために,記事の全文を転記しておきましょう。そして,みんなで考えていただけるとありがたいと思います。わたしたちの身近には,こういう「おかしい」ことが慢性化し,惰性になっているものが,ほかにもたくさんあると思います。そのためのヒントとして,ぜひ,熟読玩味していただければと思います。

以下は引用文です。
まずは,見出しを繰り返しておきます。

原子力ポスターコンクール見送り
教育に「推進」おかしい
市民が中止要請
「事業費は自然エネルギーに」

原発をテーマにした小中学生らによるポスターコンクールが見送られた。1994年から主催してきた文部科学省と資源エネルギー庁は「原発事故が収束しない。当面コンクールはふさわしくないと判断した」と説明する。一方,市民団体は「子どももちに,将来のエネルギーは原発しかないと刷り込みをしてきたのは問題だ」と。永久中止を主張している。(篠ケ瀬祐司)

昨年度の応募要項は「ヒントを参考にして,ポスターをつくろう!」と呼びかけている。
ヒントは九つ。「地球にやさしい原子力発電」「五重の壁で安全を守る発電所」「電気のごみは,地下深くへきちんと処分」など,原発の利点や安全性を強調する内容がずらりと並ぶ。
素直な子どもたちは「ヒント」を参考にしたのだろう。入選作品をみると,地中に核廃棄物が眠る花畑で笑顔をみせる女の子の絵や,原発が森林保全に役立っているデザインに「原子力は地球を守る」との標語をかぶさた「原発との共生」をうたった作品が目立つ。
同コンクールは「ポスターをつくることで,原発に親しみを持ってもらおうというのが目的」(資源エネルギー庁原子力立地・核燃料サイクル産業課)だから,「ヒント」に沿って原発推進色の強いポスターが出品されたのは,主催者の狙い通りともいえる。
文科省によると,これまでに反原発ポスターの応募もあったが,入選はしていないという。
毎年6月に募集を始め,夏休み明けの9月に締め切ってきた。昨年度は小学生以下の3,694人と中学生以上の3,197人が参加した。昨年の実施費用は約4千万円。運営は財団法人「日本原子力文化振興財団」が請け負った。
今年は「原発事故だけでなく津波の被害などで住む場所もない方がいる。今は復旧復興に力を入れるのが先だ」(文科省原子力課)として募集前に実施が見送られたが,そもそも賛否が分かれる原子力利用をめぐり,子どもたちにポスかーをつくらせることには批判の声が上がっていた。
同コンクール中止に向け,1万2千人以上の署名を集めたNPO法人「環境市民」(京都市)の堀孝弘事務局長は「原発は事故だけでなく,放射性廃棄物処理や,原発建設の賛否をめぐる地域対立などの社会的問題を抱えているのに,利点だけを強調するのはおかしい」と指摘する。
その上で「物事を多面的にみるのが教育なのに,子どもに一方の考え方を刷り込むのでは軍国主義(時代)と変わらない」と,教育現場に「原発推進」が持ち込まれたことを厳しく批判する。
同コンクールは来年度以降どうなるのだろうか。文科省は「福島の事故の検証や原子力政策をめぐる議論には時間がかかるから,来年度も開催は難しいのではないか」(原子力課)とするが,資源エネルギー庁は「開催見合せは『当面』。(今後は)様子をみながら決める」(原子力立地・核燃料サイクル産業課)と微妙にニュアンスが異なる。
堀氏は「事故が収束したとしても,多くの人の生きる糧やすむ場所を奪ったのは事実。これを記憶するためにもコンクールは永久に中止し,その分のカネを自然エネルギー推進に使うべきだ」と話している。

以上,全文です。
今夜はこの記事について,余分なことは言わないことにします。みなさんのところで,じっくりと考えてみてください。これが,ひとつの現実なのだ,ここをどのように切り抜けていくか,がこれからの大きな課題になってくるとわたしは考えています。そのためには,やはり,ある「覚悟」が必要だ,と。この「覚悟」をどのようにしてわがものとしていくか,それが問題です。
では,今夜はこれまで。

「大仏」さん,いかがですか。


2011年5月18日水曜日

「こちら特報部」の東京新聞が素晴らしい。

今日は,週に1回の稽古のあとのハヤシライスの日。例によってKさん,Nさん,Iさんの3人。ほかの人たちはさきの予定があって足早に帰る。今日は,なぜか,3人ともカレーライスだった。それも,半分の人,少なめの人,まるまるの人という具合にライスの量については注文が分かれる。そして,いつものようにKさんの素朴にして鋭い質問がNさんに向けられる。それに懇切丁寧に応答するNさん。少しも手抜きはしない。それを聞いているIさんは,いつも感動している。そして,あっ,いけない,今日もボイスレコーダーを忘れている,と。

というわけで,Nさんによるスペシャル・レクチャーは,残念ながらここでは紹介できません。ただ,そのなかの一部には,6月18日(土)に予定されている「ISC・21」の6月例会の『宗教の理論』(バタイユ)読解のど真ん中に入っていくような話があった。それはヒトが人間になるとはどういうことか,という話。赤ん坊がことばをおぼえていくプロセスを考えるとよくわかる,という切り出しから深い話へと分け入っていく。わたしは,しばらくの間,唖然として聞いていた。そうか,「はじめにことばありき」という聖書のことばには,そういう意味も籠められているんだ,とこころのなかでつぶやく。で,それは伏せておいて,その話は『宗教の理論』でいうところの「動物性」から「人間性」へと「横滑り」していくときのことを考える重要なポイントになりますね,とわたし。ああ,これで6月例会の入り口は決まりました,とわたしは嬉しくて仕方がない。Kさんは,早速,手帳を出して「6月18日ね,空けとかなくちゃ」と乗り気まんまん。

解散後,わたしは鷺沼の事務所に向う。その前に,コンビニで東京新聞を購入。このところ毎日のように東京新聞を買って読んでいる。もう,ずいぶん前から(「3・11」以前から),Nさんが,いま,まともな報道をしているのは東京新聞だけだよ,と言っていたので,ちょくちょく買って読んではいた。しかし,5月12日のNさんのブログ「やっぱり東京新聞」を読み,納得。そして,しばしば話題になるのが,東京新聞の「こちら特報部」という2面にわたる特報記事。だから,電車に乗ってすぐにここから読みはじめる。

いきなり眼に飛び込んできたのは,つぎのような見出しのコラム。
原子力ポスターコンクール見送り
教育に「推進」おかしい
市民が中止要請
「事業費は自然エネルギーに」
これがひとつのコラムのなかで躍動している「見出し」である。これだけで,中身を読まなくてもわかってしまう。ほんとうにそうだよ,と思う。原発安全神話をでっちあげた大きな力はここにあったのだ。つまり,子どものやわらかい頭脳を洗脳するという恐るべき方法。刷り込みは若いほど効果がある。これを「市民の要請」があって実現した,というところが嬉しい。いよいよ動きはじめた,こころある人びとが。そう,幼い子どもをもつ親が立ち上がるべきときだ。そして,まずは子どもの「命」の安全を確保すること。そのためには,できるところから身の丈に合わせて,行動を起こすしかない。この記事に,まずは,感動。
つぎのコラムは,うーん,そうなっていたのか,と勉強になる。まずは,見出しの列挙から。
日本の電気はなぜ高い!?
新規業者縛る「制度」
・割高な送配電網利用料
・参入46社で販売3%未満
まず,現在の電力供給のしくみをわかりやすく説明した上で,それが自由競争をはばむ「制度」で守られている。ここでも,東電のような地域独占の電力会社を解体すれば,電気料金はやすくなることを,具体的に解説してくれている。これを読めば,電力の自由化と発電・送電の分離が,まずは突破すべき当面の課題であるということもよくわかる。
そして,そのとなりのコラムの見出しはこうだ。
欧米で進む「発送電分離」
電力10社自由化阻む
電源分散で再生エネ促進
原発の高コスト明らかに
電力の自由化が進めば,あちこちで独自の発電ができるようになり,工場も規模に応じた自家発電が可能となる。そして,余剰電力を一般家庭に買ってもらうこともできる,というわけだ。そうなると,概算では,いまの電気料金の三分の一くらいに下がる,らしい。そうなると,いまの原発のコストがいかに高いかが明らかになる,というのだ。これも,みごとに納得。
こういう記事を読んでいると,わたしたちが考え,選択し,行動すべき道筋がみえてくる。これこそが新聞の責務ではないか。

Nさんのブログによれば,毎日新聞も「脱原発」に舵を切った,産経新聞もなかなかまじめに取り組んでいる,という。読売新聞は正力松太郎以来の原発推進派なので,これはもう論外。かつて,もっとも左翼的といわれた朝日新聞は,いまや,どっちつかずの体たらく。

というようなことが,自分の思考をとおして納得できるようになってきたので,いよいよ,朝日新聞にお別れするときがきたなぁ,としみじみ思う。

よし,来月から朝日を断って,東京にしよう。これもまた,自分の身の丈に合わせた,手のとどくところからはじめる「脱原発」のひとつの行動だ。「原子力ポスターコンクール」を止めた,こころある市民を見倣って。


2011年5月17日火曜日

ヘーゲルの『精神現象学』からやり直し・「3・11」以後のスタンスのために。

いまさら・・・という気もしないわけではありませんが,ここらでもう一度,われとわが身の立ち位置を「0(ゼロ)」から再度チェックし直してみようと思い立ちました。「3・11」は,日本という国がまったく新しく生まれ変わる,大きなターニング・ポイントになるだけでなく,おそらく,世界史に記録されるべき大きな歴史事象になる,と考えるからです。当然のことながら,その一翼を担うひとりの日本人として,いかに考え,いかに行動し,いかにその思想・哲学を鍛え直していくのか,がわたし自身に問われている喫緊の課題である,と考えるからです。それで,まずは,ヘーゲルの『精神現象学』(長谷川宏訳)をとり出して読みはじめています。

なぜ,ヘーゲルからなのか。
その答えは,ジョルジュ・バタイユをより深く理解するため。
さらには,『般若心経』の読解を深めるため。
もっと踏み込んでおけば,道元の『正法眼蔵』と西田幾多郎の世界に分け入るため。
そのキー・ワードは「命」。あるいは,人が「生きる」とはどういうことなのか。
そこから,まったく新しいスポーツ史・スポーツ文化論を立ち上げること。

このことと「3・11」以後を生きるための理論武装は,わたしにとっては表裏一体。

もう少しだけ踏み込んでおきましょう。
じつは,直近の課題は『宗教の理論』(ジョルジュ・バタイユ)の読解にあります。すでに,何回も読み返しては考え,ときにはこのブログにも連載で書いてみたり,あるいは,神戸市外国語大学での集中講義でも取り上げたりして,熟考を重ねてきています。そして,このたびの「3・11」以後のできごとと真っ正面から向き合って,考えるうちに,やはり,この『宗教の理論』に立ち返って考えることが,みずからのスタンスを再確認する上で不可欠である,と考えた次第です。その上に,ありがたいことに,西谷修さんからの提案で,6月の「ISC・21」の定例研究会でこの『宗教の理論』の読解にお付き合いくださる,というのです。

お断りするまでもなく,『宗教の理論』の冒頭には,アレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』の一節が引用されています。しかも,この引用文のなかに,バタイユがなにゆえにこの『宗教の理論』を書いたか,というもっとも重要な鍵がこめられています(と,わたしは理解しています)。ここにこめられている内容は,これもわたしの理解にすぎませんが,人間が「動物性」の世界から離脱して「人間性」の世界に「横滑り」をしはじめる契機はなにか,ということをヘーゲルから読み取ろうとしたバタイユの痕跡です。しかも,コジェーヴの読解をとおして,です。もちろん,バタイユをヘーゲル哲学に(それも『精神現象学』に)導いたのはコジェーヴであったわけですが。

バタイユ自身も,ヘーゲルがいたお蔭で,自分の思想・哲学の立ち位置を明確にすることができた,と語っています。だとしたら,バタイユに,それほどの影響を与えたヘーゲル哲学とはいかなるものなのか,ということを確認しておかなくてはなりません。しかも,それを自分のことばで語れるようにしておかなくてはなりません。ヘーゲルの「知」にたいして,バタイユは「非-知」を主張します。このことの意味するところはなにか,を考えてみたいのです。

そのための第一歩が『精神現象学』読解です。もう何回も読んではいるのですが,自分のことばで語ることができません。それは,読んだことにならない,というのがわたしの考えです。ですから,どうしても,自分で「読んだ」といえるところまで理解を深めておきたい,という次第です。

これから,ちょくちょく,『精神現象学』読解・試論のようなものをこのブログでも書いていければいいなぁ,と思っています。どうぞ,よろしくお願いいたします。

2011年5月16日月曜日

浜岡原発停止に賛成が6割を超える。

月曜日は,鷺沼の事務所にくる途中で,2,3軒の本屋をはしごするのが慣習となっている。その主たる目的は週刊誌にざっと眼をとおすこと,そして,月刊誌を立ち読みすること,あとは,文庫本の新刊をチェックすること,など。一カ所にあまり長くいるのもなんとなく気が引けるので,ついつい,はしごということになる。

それで,今日の感想は,ほとんどの週刊誌がどういうわけか,「脱原発」に舵を切ったなぁ,というもの。今朝の新聞にも,そして,インターネット情報でも,浜岡原発を止めたことについてのアンケート調査の結果6割が「支持」しているという。ざっとみわたしたかぎりでは62%から66%の巾があるが,6割を超えて7割に達しようかという勢いである。こういう空気をいちはやく感じ取ったのだろうか,各週刊誌の見出しの雰囲気ががらりと変化した。「脱原発」の風が吹きはじめた,といってよいだろう。しかし,問題はこれからだ。

「脱原発」に舵を切るということは,わたしたち自身の生活の姿勢そのものの舵も切り替えるということだ。もっと言ってしまえば,ものの見方・考え方を根底から変えるということだ。電気も水道も使い放題にしてきたこれまでの「消費文明」から離脱して,「命を守る」21世紀型の文明へと移動することだ。そのためには相当の覚悟が必要だ。沖縄にはむかしから「命どぅ宝」ということばがある。まずは,なにがあっても「生きる」こと。「生きる」ことを最優先にして,生活の基本を構築していく考え方だ。その上に文化・文明を積み上げていく。わたしたちは,いつのまにか,「命の大切さ」ということを忘れて,目の前の欲望を充たすことにふりまわされてしまい,それが日常化してしまっていた。そのことへの最大の警告・教訓として原発問題が立ち現れた。

いまも制御不能のまま,きわめて危険な状態がつづいているという。しかも,いまごろになって燃料棒が溶融していた,しかも,地震の直後からだ,という。もはや,こうなると,これらを人間の手で制御できるようになるには何年かかるかわからないという。このごにおよんでなおも原発推進派の政界・財界の大物たちが,つぎの戦略を打ち出すために,密かに「ミーティング」をくり返しているという。これからの勝負は,こうした原発推進派と一般市民の脱原発派とのせめぎ合いだ。そして,やはり鍵をにぎるのは,ここでもメディアだ。このメディアも,これまでのマス・メディアからブログやツィッターのようなプチ・メディアにいたるまで,多様化してきた。しかも,いまの若者たちは新聞は読まないがツィッターは読む,という。だから,これからは「情報」の流れをどのように止揚していくか,にかかってくる。

さて,この6割が,これから具体的な行動をとおしてなにかを動かす「力」を身につけるかどうか,そして,意識的に選挙行動にまでつなげることができるかどうか,そこが問題だ。いっときの情緒的反応では困るのだ。その意味で,わたしたちは,もう一度「命」のレベルからものごとを考え,ルールを立ち上げ,制度を構築していくこと,そこからはじめることがなによりも優先されることになる。まずは,一人ひとりの身の丈に合わせて,できるところから「脱原発」に向けて行動を起こすこと,それにつきる。

英文学者外山滋比古先生との出会いがすべての始まりだったか。

もうずいぶん前に書かれた『思考の整理学』が,ある日,突然,注目を集めはじめ(大学生協の書店員の仕掛けたアイディアだったと聞く),あれよあれよという間にベストセラーとなって,書店に平積みされるようになって,わたしは内心とても嬉しかった。
ああ,外山先生,お元気でよかった,と。そして,その後も勢いにのって,新しい書き下ろしも出版され,それもまた注目され,売れている。久しぶりに外山先生のお顔が,どこか書店に立ち寄れば,みられるという僥倖にめぐまれるようになった。それが,いまもつづいている。

朝日新聞の夕刊に「人生の贈りもの」という囲み記事があり,そこに外山先生が登場した。5月9日(月)から13日(金)までの計5回。万年青年だと思っていた先生がもう87歳と知って驚いた。さもありなん,かく申すわたしですら73歳なのだから。

さて,この話をどこから切り出そうかと,そのとば口が見つからなくて困ってしまう。それほどに,先生とわたしとの関係は語りだせばきりがないほどだから。でも,思いっきり単純化して,わたしにとってとても重要な「出会い」の記憶だけを書くことにしよう。

結論から入ろう。わたしのこんにちがあるのは外山先生との出会いが,大きな転機になったことは間違いない。そういうわたしにとっては忘れることのできない大事な恩人なのである。外山先生は愛知県の刈谷市のご出身。わたしは愛知県の豊橋市の出身。同じ「三河」の出身である。その三河出身者のための学生寮が文京区にあって,その名を「三河郷友会東京寄宿舎」という。通称「三河郷友会」(みかわごうゆうかい,と読む),あるいは,「郷友会」。先生もわたしもこの学生寮のOBである。

ちょうど,1970年前後の,いわゆる全共闘世代が大活躍して,あちこちの大学が封鎖されて,授業もままならない事態を迎えていたとき,わたしはまだ大学院の院生として大塚のキャンパスに通っていた。そのキャンパスのなかで,外山先生とばったり出会った。当時,先生は英文科の助教授だったと記憶する。「やあ,稲垣君,いま,どうしているの?」と親しげに声をかけてくださる。で,わたしは「これこれしかじかで,院生をやっています」と答える。「それはいい。じつは,デス君が夜逃げをしてしまって,寮が困っている。君,寮監をやってくれないか。ぼくも応援するから」と仰る。外山先生は寮の理事。デス君というのは寮監。わたしも学生時代にお世話になった寮監の先生。元,都立高校の校長さんで英語の先生。旺文社の「蛍雪時代」などにも原稿を書いている人だった。まじめ一点張りの人で,嘘のない人だったので,寮生からは愛されていた。しかし,全共闘世代の寮生とは話が噛み合わず,嫌気がさして,夜逃げをしてしまった,というのである。

こうして,外山先生とのやりとりがはじまり,何回もお会いしてお話をうかがううちに,とうとう説得されて寮監を引き受けることになってしまった。苦学生が近寄ることもできなかった料亭でご馳走してくれたり,お宅に招かれてご馳走になったり,あま,あちこちで「折伏」の場がもたれた。わたしも,かなたしつこく「お断り」をしていたのだが,外山先生の熱意には勝てなかった。

この三河郷友会のある敷地は,もともと,本多平八郎忠勝の江戸屋敷の一角で,そのとなりにはホテル・ニュー・オオタニの社長の邸宅があった。この社長さんとも,いろいろ問題が生ずるたびに,呼び出されてお会いすることになった。もと力士だった初代社長である。この人物はじつはとてもおもしろい人だった。が,この話はまたすることにして,この学生寮と外山先生のご自宅は,歩いて5分くらいのところにあった。だから,この社長さんから呼び出しがあると,すぐに,外山先生のところに行って相談をし,作戦を練ってからうかがうのがわたしの習いとなっていた。

この新聞の記事によると,外山先生は朝5時に起きて散歩なさる,とある。しかし,わたしが寮監をつとめていたころは,真夜中に散歩をなさっていた。わたしが,ときおり,夜遅くまで起きて仕事をしていると,散歩で通り掛かった外山先生が「灯がついていたので,立ち寄ったけれども,お邪魔していいかなぁ」と玄関に現れる。その時間は,きまって午前3時前後だったと記憶する。そして,おしゃべりに調子がでると「夜明け」までつづく。「いやあ,失敬,失敬。夜が明けてしまった」と言って,帰っていかれる。でも,このときのお話も,いまも忘れられない貴重なものがたくさんある。

このころの寮生のひとりが西谷修さんである。もちろん,船井廣則さんもそうだ。その他,いまではそうそうたる人たちが,寮生として苦楽をともにした。同じ釜のめしを食った戦友のような絆が,いまもそこはかとなく生きている。それほどに,日々,真剣勝負だった。毎晩のように寮監宅(大正時代の木造2階建てで,女中部屋まである,立派な構え。敷地も150坪もあった)の8畳の部屋に寮生が集まってきて,侃々諤々の議論が深夜までつづいた。このときの議論が,いまのわたしの基盤をつくったといって間違いない。わたしも必死で勉強をした。思想と哲学の違いを知ったのも,恥ずかしい話ではあるが,このときである。

いま,考えてみれば,あのとき,外山先生と大塚のキャンパスでばったり出会っていなかったら,西谷さんとの出会いもなかったことになる。その意味では,外山先生はわたしの大切な恩人なのである。そのごも,外山先生とはちょくちょくお会いする機会があったが,最近は,まったくなくなっている。これをチャンスに一度,お伺いしてみようと思う。デニスのお好きな先生だったが,もう,無理でしょうね。もし,お元気だったら,テニスでお付き合いを・・・といきたいところ。

でも,外山せんせいの魅力は「おしゃべり」。いつか,その機会をつくろう。そうだ,「ISC・21」の月例研究会にきていただこうか。いいところに話が落ちたところで,今夜はここまで。


2011年5月14日土曜日

大量殺人犯がこの仕打ちに値しないと言うなら,頭の検査を受けるべきだ(オバマ米大統領)

さいきんは腹の立つことが多すぎる。新聞を読んでも,テレビをみていても,ラジオを聞いていても,はたまた,街中を歩いていても,聞くこと見ること,ことごとく腹が立ってくる。「3・11」以後のわたしの病的症状はますます過激になってくる。困ったものだ。

二日間,ブログが書けなかったこともストレスをため込む大きな誘因となった。さて,どこから吐き出すか,さんざん迷うほど材料はありあまるほどある。これもまた困ったものだ。

で,見出しの問題にまずは眼を惹きつけられたので,ここからはじめよう。
今日の朝日の夕刊に「ことば」という小さなコラムがあって,そこに,短く,つぎのように書かれていた。短いので全文を引く。
「大量殺人犯がこの仕打ちに値しないと言うなら,頭の検査を受けるべきだ」米テレビでビンラディン容疑者殺害を語るオバマ大統領。
たった,これだけである。でも,これで十分だ。オバマ君,君も頭の検査を受けた方がいい,とわたしは応答したい。「大量殺人犯」とは,だれのことか,一度,頭を冷やして考えてみてほしい。武器もまともにない,自爆することが唯一最大の武器とする人たちと,遠隔操作でミサイルを自在に使うことができる圧倒的武力をもつ人たちと,どちらが「多くの人を殺してきたか」,考えるまでもないことだ。真の「大量殺人犯」とはだれか,のちの時代の歴史家たちが明らかにしてくれるだろう。いや,いまでも自明のことだ。

ビンラディンを「テロリスト」と名づけたのはブッシュ君だ。なにをもって「テロリスト」とするのか定義はないと聞く。だとしたら,ビンラディン君がブッシュ君を「テロリスト」と名づければ,ブッシュ君も立派な「テロリスト」となる。その後継者であるオバマ君もまた立派な「テロリスト」だ。そして,また,じつに多くの無実の人たち(一般市民のこと)を無差別に「殺して」きた。その数すら数えられないほどに。まるで,数える必要はないと言っているかのように。意味のない,まったく無意味の「死」を強いられた人たちの霊魂はどこをさまよっているのだろうか。ごくふつうの日常生活をしているところにミサイルをぶち込まれて,あっと思う間もなく死んでいった人たちのことを,オバマ君,少しでも考えたことがあるのだろうか。もし,あるとしたら,見出しのようなセリフが口からでてくることはないだろう。

わたしには情報が少ないので,間違っているかもしれない。が,伝え聞くかぎりでも,ビンラディン君を殺したやり口は,わたしの理解している「テロ」そのものだ。問答無用で殺して,「水葬」にしたという。死体がどこにあるかもわからない,らしい。こんな殺し方をよもやアメリカという大国がするとは・・・。戦後民主主義の教育で育てられたわたしたちの世代(大江健三郎君も同じ)は,アメリカといえば民主主義の理想を実現する国として教えられてきた。そのアメリカが,どこかから狂いはじめた,と疑問に思っていたが,とうとう,ここまできてしまったか,と唖然としている。

その上で,「大量殺人犯がこの仕打ちに値しないと言うなら,頭の検査を受けるべきだ」という大統領発言を知って,もはや手の打ちようがない。そういう国が,いま,世界を牛耳っているのだ。まことに困ったものだ。

アメリカが狂っているのは,じつは,いまにはじまったことではない。アメリカの建国の歴史からひもといていけば,そのことは明らかだ。ということを,わたしは昨年秋の,沖縄国際大学で行われた西谷修さんの集中講義を受講して,こころの底から納得した。このときの集中講義の内容はいずれ,単行本となって世にでるはずである。それまでお預けにしておこう。ただ,ひとことだけ言っておけば,アメリカという国は最初から,変則国家としてスタートしている。世界史のなかでも例外中の例外の国家の成り立ちなのだ。未開の土地に「旗」を立てるだけで「国家」を宣言した国だ。その結果,先住民族であるアメリカ・インディアンは「法律」という「正義」の名のもとに,すべての「土地」から追い出されてしまうことになった(『アメリカ・インディアン悲史』)。このときの経験が,いまも「正義」として継承されている。恐ろしいことだ。

ビンラディン君を育てたのはだれか。もとをたどればアメリカではないか。その育ての親のために精一杯,全身全霊をこめて戦ったのに,なんの論功行賞もえられないまま「使い捨て」にされた。その義憤がビンラディン君の根っこにある。後ろめたさのあるアメリカは,なんとしても,ビンラディン君の「口」を封じ込める必要があった。だから,問答無用で殺してしまった。やろうと思えば(今回の情況から考えて),逮捕して,国際裁判所での裁きを受けてから,しかるべき処分をする,ということができたはずである。が,その方法をアメリカは最初から考えていなかった。なにがなんでも,一刻も早くこの世からビンラディンを「消すこと」,そして,ひとことも言質(言い分)を残さないようにすることに,オバマ君は専念した。ビンラディン君がしゃべることが恐かったのである。なぜなら,ほんとうのことをしゃべるから。嘘で塗り固めて葬り去ること,そして,一刻も早く歴史から抹消すること,そのことしか考えていなかったことが,今回の経緯をみていてわかる。それほどに,アメリカはビンラディン君に怯えたのである。と,わたしは考える。

「頭の検査」を受けなくてはならない人は,オバマ君だけではない。沖縄の普天間移転問題で,余分なことを言いにきたアメリカの妙なおじさんも「頭の検査」を受けるべきだ。それに対して,なんの応答もできない日本の外務大臣もまた「頭の検査」を受けるべきだ。それより,なにより,カン君だ。一刻も早く「頭の検査」を受けて,診断書を提出して,身を引くべきだ。東電にもいる。東大にもいる。朝日にもいる。官僚にもいる。あちこち,うようよしている。いやいや,そういう人たちが主流を形成している。だから,困ってしまうのだ。

そういうお前も,早く「頭の検査」を受けた方がいい,とどこかから聞こえてくる。でも,わたしの害悪はせいぜい,このブログを書くことであり,それを読む人たちだけに限定されている。しかも,読む人は自由だ。いやなら,読まなければいい。それだけのこと。罪はない。しかも,わたしは大まじめにこれを書いている。ただ,それだけのこと。

大相撲の八百長も同じだ。八百長をやりたければやればいい。その結果は,ファンが決めることだ。やりすぎれば,ファンがいなくなるだけのこと。なんの罪もない。刑法上の罪もない。それをどうだ。大山鳴動してねずみ一匹。怯えているのは日本相撲協会の幹部(患部)のみ。

ああ,久しぶりに爆発してしまった。富士山も近いうちに爆発するのではないか,とそんな予感がする。これまた,困ったものだ。

みなさん,「頭の検査」は大丈夫でしょうか。お互いに気をつけましょう。
まずは,わが身から。

メンテナンスが2日間もかかってブログが書けませんでした。

ブログを2日間,休んでしまいました。とはいえ,体調が悪かったわけではありません(そういう心配をして,メールをくれた友人がいましたので,ひとことお断りを入れました)。Bloggerがメンテナンスをしていたからです。それも事前のお知らせでは「約1時間」とあったのに,まるまる2日間かかったようです。なにか,予期せざるトラブルでもみつかったのでしょうか。いずれにしても,ようやくブログ復活という次第です。

それともうひとつ。いま,かなり大型本の翻訳の仕事を引き受けていて,その最終段階にさしかかっています。何回も約束の締め切り日を引き延ばしてきていますので,ストレスが臨界状態(?)にきていました。が,ようやく目処がたち,16日(月)必着の約束が果たせそうです。その意味では,この2日間は,ブログにエネルギーをとられることがなく翻訳の仕事に専念できました。結果的にはとても助かりました。が,その分,ブログを書きたいという愉しみが奪われていたことも事実です。ですので,16日(月)の区切りがうまくつきましたら,元気を出してブログを書こうと思っていますので,よろしくお願いいたします。

このメンテナンスのあとわかった不思議なことをいくつか,報告しておきたいと思います。
ひとつは,ブログの下のところにある「リアクション」の数が一気に増えていることです。つまり,「おもしろい」にクリックしてくれる人の数が,これまでとは比較にならないほど多いということです。なぜか?これがよくわかりません。これまでは,「おもしろい」は多くて18でした。それがなんと,今回のメンテナンスのあと,つまり,いま,確認したところでは,多いブログは30とあります。そして,それ以外にも20を越えていたり,18なんていうのも少なくありません。おやおや,です。ひょっとしたら,2日間,ブログを休んでいたので,激励の意味もこめてクリックしてくださったのかな,と下司の勘繰りをしたりしています。それにしてもありがたいことです。元気がでます。こんごともよろしくお願いいたします。

なお,このことに関連して思い出したことをひとつ。わたしの親しい友人たちの集まりで,わたしのブログが話題になったことがありました。そのときに,わたしから「おもしろい」にクリックを入れてください,とお願いをしましたところ,あのブログは「おもしろい」という基準からはずれているので(いい意味で),クリックするわけにはいかない,と言われてしまいました。もっともなご意見かな,とも思いましたが,やはりそうではない,とあとになって考えました。日本語の「おもしろい」は,古文の「いとかなし」のようなところがあって,その守備範囲はきわめて広いのではないか,とわたしは考えています。つまり,ピカソの絵のように「わけがわからないけれども,おもしろい」というものから,とても下司な話だけれども「おもしろい」ものもあれば,哲学や宗教の深淵をちらりとかいま見ることの「おもしろさ」もふくまれているのではないか,と思っています。ですので,「ウッ」とひっかかるものが残れば,それはもう「おもしろい」の範疇に入れていいのでは・・・・,という次第です。

ふたつめは,ページヴューという数字が「統計」というところをクリックするとでてきます。このページヴューは,これまでは単純に,このページを開いて読んでくれた人の数だと思っていました。ところが,どうもそうではないらしい,ということがわかってきました。なぜなら,「おもしろい」の数が「30」もあるのに,ページヴューのトータルの数がそれより少ないということがあるからです。これまでも,そういうことがありましたので,いったい,このページヴューが示している数字はなにを意味しているのか,わからないでいました。どなたか,教えてくださると助かります。

みっつめは,このページヴューをみているかぎりでは,ブログの自己評価と他者評価は,かならずしも一致しないというものでした。これはまあ仕方のないことではありますが,できることなら一致してほしいなぁ,という願望は残ります。もちろん,満を持して書いたブログに大きなリアクションがあると,「よしッ」と気合が入ります。それが,あまりいいネタではないが・・・と思いつつ書いたブログが予想外の反響があったりすると,「おやおや」と思ってしまいます。まあ,文章というのはむつかしいなぁ,としみじみ思います。奥が深い。その意味では,まだまだ,修行が足りません。

というようなところで,今日のブログはおしまい。
これからも「おもしろい」と自己評価できるものを書いていこうと思っていますので,よろしくお願いいたします。そして,できれば「コメント」をお願いいたします。
取り急ぎ,ブログを休んだお詫びとお願いまで。

2011年5月11日水曜日

「原発安全神話」は政・官・財・学・メディの5役そろい踏みの「大八百長」だった。

今日は太極拳の稽古の日。雨降りにもかかわらず,珍しく全員(6名)がそろっての稽古となった。が,昼食はそれぞれに用事があって,残ったのは,これまたいつもの3人(Kさん,Nさん,Iさん)。

当然のことながら,原発に関する話題が中心だが,ときにはアルジャジーラの話に転じたり,ある著名人が最近,権力寄りになってきたとか,この人は大丈夫と思っていた人までが「ゆでカエル」になってきたとか,どこにでも飛んでいく。最近は,Kさんが問題意識旺盛で,しきりにNさんに質問・疑問をなげかける。そして,Nさんが,みごとな解答を示してくれる。これは,このご時世にあっては,快感である。なぜなら,なんとなく漠然としていてよくわからなかったことがこのところつぎつぎに明るみにでてきて,これはいったいどういうことなのか,ということがじつに多い。この現象をどのように読み解くか,というのはじつはたいへんな力量が必要だ。そこのところの複雑な構造や歴史的な背景や思想・哲学について,じつに明快な道筋をつけてくれるのがNさんの役割。Iさんは,ただひたすら,KさんとNさんのやりとりを感動しながら聞き入るのみ。

そんな話題のひとつが「原発安全神話」がどのようにして構築されたのか,というところにおよんだ。これもまた,懇切丁寧にNさんが解説をしてくださり,とてもすっきりと腑に落ちた。詳しいことは省略するが,結論は以下のとおり。

「原発安全神話」は,政界・官僚・財界・学界・メディアの5者が寄り合って,一致協力した結果の産物である,と。要するに「癒着」であり,「談合」であり,つまりは「八百長」そのものだ。それも,ただの「八百長」ではない。ケタが違う。そこで動いている金額の大きさが,とんでもないものだ。想像を絶するような金額が流れている。それだけではない。この「大八百長」は,人の命まで犠牲にする,空前絶後のものだ。しかも,日本だけではない。世界中の人間の命をも犠牲にする,とんでもないしろものだ。しかも,これを「国策」と称して推進してきたのだ。「国策」が「八百長」によって仕組まれていたのだ。

「原発」がどれほど危険なものであるは,政界も官僚も財界も学界もメディアも,そのトップ・レベルにいる人たちはみんな熟知していたはずである。にもかかわらず,しらを切った。だから質が悪い。なにも知らない庶民は「原発安全神話」に関する膨大な情報量に圧倒されてしまって,「ああ,そうなんだ」と思い込まされてしまった。その手の念の入れ方はすごいもので,小・中学校の教科書にまで踏み込んで「原発安全」教育をこれまでずっとやってきた。およそ30年以上もの間,文部科学省もまた,その片棒をかついできたというわけだ。だから,いまの30代の大人の多くが「原発安全神話」で刷り込まれている。とくに,優等生ほど,みごとに刷り込まれてしまっていて,場合によっては修復不能とまでいわれている。

こうした具体的な話は,また,いつかやることにして,話をさきに進めよう。
この政・官・財・学・メディの5役そろい踏みによって成立する「大八百長」が明るみにでてしまったことが,今回の大惨事にあって,唯一の収穫だった,と言ったら叱られるだろうか。そして,この「大八百長」をこそ突破していく力をわがものとすること,つまり,「脱原発」社会に向けて総力を傾けること,それが「3・11」以後を生き延びるための最大の課題ではないか,とわたしは考える。

この「大八百長」にくらべたら,大相撲の「八百長」などは可愛いものだ。第一に,人畜無害だ。犯罪でもない。やりたければいくらでもやればいい。お客さんがこなくなるだけのこと。大相撲も商売だから,外からとやかく言わなくても,この辺が限度であることぐらい承知している。あとは,自主規制にゆだねておけばいい。そして,自浄能力なし,と判断したら「公益法人」をはずせばいい。そして,天皇杯も返還させる。それだけでいい。それを,絶対にやってはいけない「処分」をしてしまった。

大相撲の八百長がそんなに悪いものだというのなら,「原発安全神話」をでっちあげた「大八百長」を野放しにしておいていいのか。こちらも,ついでに,「特別委員会」を組織して,しかるべき「処分」をしてほしい。いまこそ,メディアが踏ん張るときだ。アルジャジーラのように,現地取材にもとづく事実を洗い出し,その情報を公開し,その判断は視聴者に委ねる,というようなメディアが日本にも育ってほしいものだ。

「原発安全神話」は政・官・財・学・メディの5役そろい踏みの「大八百長」の産物だった。ここをどう突破していくのか,それこそが「脱原発」社会の構築に不可欠,かつ,喫緊の課題だ。いま,わたしたちは未曽有の「覚悟」が求められている。

未完。



2011年5月10日火曜日

「脱原発」宣言をした城南信用金庫に口座を開設しました。

連休明けの昨日(9日),かねてこころに決めていた城南信用金庫の口座を開設しました。「脱原発」宣言をした数少ない金融機関に,まったく個人的なエールを送ったつもりです。

わたしごときが口座を開設したからといって城南信用金庫が儲かるわけではありません。リタイヤした人間が得られる臨時収入はほんの微々たるものでしかありません。でも,口座数がふえることはここで働く人たちにとっては,多少なりとも元気がでるエネルギーの源泉にはなりうるのでは・・・?と愚考したしだいです。そして,なにより,「脱原発」という理想をかかげる金融機関に敬意を表し,その姿勢を支持する意志を示すことに意味がある・・・と考えました。

というわけで,なにか,とてもすっきりした気分でいます。

が,口座開設にあたって,意外なことがありましたので,そのことを少しだけ書いておこうと思います。それは,口座を安易には開設してもらえない,という事実です。
これまでのわたしの経験では,身分証明書と印鑑があれば,預金額に関係なく,すぐに普通預金の口座を開設し,通帳をわたしてくれる,というものでした。ところが,城南信用金庫はそうではありませんでした。「口座を開きたい」というわたしの申し出に対して「普通預金ですか,定期預金ですか」と聞かれる。「普通預金です」とわたし。「では,・・・」といって,窓口の担当者ではなくて,副支店長さんという人が現れ,縷々,説明がはじまりました。要約しますと,最近,普通預金をめぐるトラブルが多発していて,それを未然に防ぐために身元の確認をさせてもらっている,とのこと。そのために,数日の日数を要する,と。おやおや,なんとお固いお話なんだろうと,一瞬,副支店長さんの顔をじっと眺めてしまいました。
せっかく張り切って,意気揚々とやってきたのに,この応対か,と。で,まあ,ここから珍問答がはじまるわけですが,それは省略することにして(たとえば,「脱原発」を宣言した理事長さんの理念が素晴らしい,とか,あの手この手をつかって・・・・),最終的には,わたしの説得が功を奏して,普通預金の口座はその場で開設できることになりました。その決め手になったのが,たまたま持っていた雑誌『世界』(岩波書店)の最新号でした。昨日(8日),発売になったばかりのこの雑誌に掲載されているこの文章はわたしのものです,と提示。それをみた瞬間に副支店長さんの表情が一気に和み,なにもかも了解とばかりに,口座開設に必要な書類を用意してくれ,あとは記入して・・・と順調そのもの。記入をはじめたら,口座開設の目的,などという枠があって,そこにはなにを書けばいいのかと聞けば,すぐに,なるほど,と思われる目的の書き方を教えてくれました。

というようなわけで,なにはともあれ,気分爽快です。

とりあえず,この口座は,「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)に関連する収支のすべてを管理するものとして,特化することに決めました。最初の預金額は1000円。さて,これからこの通帳は黒字を重ねることができるのでしょうか。楽しみではあります。

ということで,じつは,昨日のうちにこのブログを書こうと思っていたら,なにかトラブルがあったらしく「書き込み」できない状態になっていて,今日の午後にようやく旧に復したというしだいです。これで心配することはなにもなし。
以上,ご報告まで。



2011年5月8日日曜日

ロック・バンド「Ain Figremin 」 の将来が楽しみ。

以前から約束のあったロックを聴きにいきました。場所は渋谷の「O-West」。
お目当ては「Ain Figremin」(アイン・フィグレミン)。

7つのバンド出演が予定されていたなかの3番目に登場。
これがなかなかいいのでびっくりした。もっともそんな偉そうな評論ができるほどのロックの知識はないのだが・・・・。それでも,とてもよかった。なにがよかったか。

このバンドの演奏は,昨年の末に,はじめて聴いた。昨年のこの種の音楽の新人コンクールで全国優勝したときの演奏がインターネット上に流れているのを聴いた。このときにまず驚いたのは,同じコンクールの最終選考に残った8パンドの演奏とはまるで世界が違うということだった。それは,少なくとも,わたしがロックとして認識している演奏とはちょっと違う「なにか」がそこにあると感じたからだろう,と思う。その「なにか」とはなにか。

激しい情念が爆発していることに変わりはないのだが,どこか「悲しい」のである。「悲哀」といったらいいだろうか。あるいは,「存在不安」。身のおきどころがみつからない,こころのよりどころがみつからない,どうすればいいんだ,と叫んでいるかのように。若者らしく純粋に自己をみつめ,他者をもとめ,どこまでいっても答えはみつからない。そのいらだちに情念のすべてをぶちこんで,爆発,炎上しようとする。どこか「もの哀しい」ものが,そこからにじみ出てくる。

そう,そうなんだよ,と老人のわたしは応答する。自己の存在は,「いま」という瞬間にたちまち消え去っていく。つぎからつぎへと消え去っていく。すべては過去という時間性のなかに雲散霧消していく。だから,未来をもとめるしか方法はない。しかし,その未来もまた,どこにもたしかな手応えを与えてはくれない。それは夢の世界だから。でも,夢がなくては人間は生きてはいけない。だから,その不確かな未来に夢をかけて生きていくしか方法はないのだ。その夢を見失ったとき,人間は,日常性のなかに埋没してしまい,平凡に,日々同じことのくり返しをはじめる。惰性,マンネリ・・・・そう,ハイデガーのいう「頽落」だ。

このバンドは,この「頽落」に我慢がならないのだ。だから,なにがなんでもここから抜け出そうとする。そして,そのさきにしか「生きる」ことの意味はない,と信じているかのように。だから,そこにわたしは哲学者が感じているような「悲哀」や「存在不安」を聴きとる。これが,たぶん,他のバンドとは違う「なにか」の根拠だろうと思う。

以上が,ネットを流れていた演奏を聴いたときの印象。
今回は,それの「ライブ」だ。やはり,ライブに勝るものはない。しかも,この半年くらいの間に,わたしの耳がたしかなら,飛躍的によくなっている。なにが?ボーカルの歌唱力とギターの演奏力が。そして,このボーカルとギターを,ベースとドラムがみごとに支えている。メンバーの気持がひとつに溶け合っている。そして,一種独特の音楽世界をかもしだしている。

バンドのメンバーを紹介しておこう。
Mii:Vocal & Guitar/Hiroaki Yokota:Base/Shinya Okuno:Drums.
all songs & lyrics composed,written by Mii.

なにを隠そう,このMii君に逢いたくて,わたしはこのライブにでかけたのだ。
8年ぶりの再会を楽しみに。そう,2003年の春から夏にかけて,わたしとこのMii君とはドイツのケルンでしばしば顔を合わせた,という過去がある。当時,このMii君は中学生。なのに,わたしが客員教授をしていたドイツ・スポーツ大学ケルンのゼミナールに参加していた。あれから8年。その間も,何回か会うチャンスはあったが,なんとなくすれ違っていた。そして,その間に,あの中学生だったMii君がロック・バンドを結成して,音楽の世界に打ってでたという。そして,またたく間に,大阪から渋谷のO-Westに招かれるようになった。ラッキー・ボーイだ。そのラッキー・ボーイに8年ぶりに会って話ができた。もちろん,演奏が終わってからだが・・・・。

立派な大人の男になっていた。そして,とても自然体なのがよかった。8年の空白を一気に跳び越えて,いい呼吸で話ができた。そして,かれの方から「こんどはゆっくりお酒でも呑みましょう」と誘ってくれた。嬉しかった。こういう若者から誘われることはもうないと思っていたから。

ひとつだけ質問をした。ひとりのファンとして。「Ain Figremin というのはどういう意味?何語?」「ぼくの造語です。ふつうではない,なにか特別なもの,という意味のつもりです」という。なるほど,造語だったか,と感心する。そして「ふつうではない,なにか特別なもの」という意味を与えたのも,とてもいい。ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』によれば,人間が動物性の世界から抜け出すときの第一歩は,オブジェの発見だった,という。つまり,「ふつうではない,なにか特別なもの」,それがバタイユのいうオブジェの概念だ。ここから人間の理性が立ち上がる。このオブジェからはじまって,それに名づけをしていくのも「ふつうではない,なにか特別なもの」に対してだ。そうして,ついには「神観念」に到達する。「神様・仏様」も Ain Figremin だ。「3・11」以後を生きるわたしたちにとっては「いのち」(命)が新たな意味をもつ Ain Figremin となった。

ボーカルの発声もしっかりしてきたし,ギターの音も素晴らしい。まだまだ,どんどんうまくなる,そういう時期だ。そして,なによりハートがいい。ステージも控え目で,さりげなく現れて,さりげなく去っていく。演奏も途切れることなく,さりげなく音をつなげながら,つぎの曲目に移っていく。この流れもいい。そして,後味がいい。あれだけ激しく爆発しているのに,しんみりしたものが伝わってくる。とてもいい感じだ。

これからの Ain Figremin の活躍を大いに期待したい。
この秋にはCDデビューすると聴いている。いまでも,購入しようと思えばできる。わたしは会場でCDを一枚,購入した。しばらくは,これを聴いて愉しむことにしよう。
ちなみに,HPのアドレスは下記のとおり。
http://ainfigremin.jp/


2011年5月6日金曜日

カン君の初仕事。浜岡原発停止要請に拍手。

これまで首相としての仕事をなにもしないで,責任逃れと対抗馬落しばかりに専念してきた感(カン)のあるカン君が初めて仕事らしい仕事をしてくれた。

浜岡原発に停止要請。ようやく決断したか,というのが実感。でも,半分あきらめていただけに,やればできるではないですか,と褒めてあげたい。これでいいのです。大所高所から,そして,市民レベルの感性をしっかりと受け止めて(もっとも得意のはず),ひとつの道筋を示すこと。これができないのなら,さっさと権力をだれかにゆずること。なにもしないで,もたもたして,後手,後手にまわってばかりの権力では困ります。時間の無駄というものです。

いまは,まさに戦国(センゴク)時代の関が原の戦いと同じ情況。天下分け目の合戦がつづいているのです。旗頭を高くかかげて,旗幟を明確にすること。そうしないと兵はどう行動したらいいのかわかりません。そう,とにもかくにも明確に「脱原発」の路線を打ち出すこと。そういう舵を切るまたとないチャンスなのですから。いまを逃したら,またぞろ,原発推進派に押し切られてしまいます。こちらの手練手管は長い時間をかけて練り上げてきたものなのですから。そのしがらみから脱出するには,いましかありません。なぜなら,ようやく原発の「安全神話」から眼が覚めた国民が味方についています。

「国民の生活が第一」というコザワ君のスローガンで選挙で圧勝してから,あとは,転んでばかりの民主党。なにひとつとして,ポイントを稼ぐことなく,全部,減点ばかり。もう,貯金も使い果たして,極貧生活を余儀なくされていた民主党にとっては,青天の霹靂,まさに久しぶりの快挙です。これで進むべき道もはっきりしてきました。こんどの選挙スローガンは「国民の<命>が第一」でいきましょう。いやいや,いまから,そのスタンスでいきましょう。科学神話に頼っていたのでは,わたしたちの<命>がいくらあっても足りません。まずは,<命>の保全があって,それをささえるための科学でしょう。それが,いつのまにか逆転してしまって,「科学ありき」が大通りをまかりとおっていたのですから。その結果が,今回のフクシマです。この順序をきちんと元にもどしましょう。

「国民の<命>が第一」。
そのための第一歩が浜岡原発停止要請。
でも,ここからが勝負です。電力10社を敵にまわして,いやいや,保守系政治家を筆頭に,マスコミから官僚,そして,財界や御用学者(誤用学者)まで──(これこそが,完璧なる<ゆでカエル>)──恐るべき体制擁護の大勢力を向こうにまわして,カン君がどこまで踏ん張れるか,つまり,民主党が踏ん張れるか(ヨソノ君は困っていることでしょう,ドコソネ君の後押しをした功労者ですから),そこが問題です。あとは,市民レベルのまっとうな感性をもつ不特定多数の力を結集するしかありません。そして,批評精神のしっかりした学識経験者の言説に耳を傾けながら,原発推進派との公明正大な議論を展開していくこと。そのためのキー・ワードこそ<命>です。

明日からは,この<命>を旗印にかかげて,あらゆる難敵に立ち向かっていくことにしましょう。その意味で,今回のカン君の決断にこころからの拍手を送りたいと思います。

まだ,ほんまかいな,とわが眉につばをつけて,首を傾げています。
でも,乗り出した船,カン君は沈没するまで頑張ってほしい,とこころから願っています。微力ながら,浜岡原発停止のためなら,応援を惜しみません。

明日の日本に向けて「光明」をみるとしたら,これが第一歩。
わたしはそう信じています。全人類の<命>を守るために。

2011年5月5日木曜日

『世界』(岩波書店)6月号に「大相撲」の原稿を書きました。

今夜はコマーシャルをひとつ。水曜日定例の「サロン」を終えて帰宅したら,『世界』6月号がとどいていました。発売はたしか8日のはず。でも,執筆者ということで書店への配送と同時に,送り届けてくれたようです。なるほど,月刊誌は発売の5日前にはできあがっているのだ,ということを知りました。これまでに書いてきたことのあるほかの月刊誌は,いつも,発売後に届けられていましたので,ちょっとばかり感動です。

さて,掲載された拙稿のタイトルは,「大相撲 真の再生への提言──21世紀的世界観に立った改革を」というものです。内容をここで紹介するのも難儀なので,とりあえず,小見出しを列挙しておきますので,それなりに想像してみてください。
「問題噴出の根底にあるもの」
「大相撲『商品化』への道を断ち切れ」
「天皇賜杯という契機」
「21世紀的世界観に立つ改革とは」
P.172~179.以上。

この原稿の骨子は,このブログのなかで何回かに分けて,すでに書いてあったものです。ですから,このブログを熱心に読んでいただいている方たちには,おおよその見当はつくのではないかと思います。ただし,それらを「つなぎ合わせる」にはどうしたらいいか,とずいぶん考えました。が,結局,「つなぎ合わせる」などという安易な考え方は間違っているということに,あるとき気づきました。そこで,一旦,ブログに書いたことは忘れることにして,まったく新たに書き下ろすことにしました。そう決心するまでが時間がかかりました。

ようやく腹も決まって,そろそろ書きはじめようと思っていたやさきに3月11日の大地震が襲ってきました。それから3日間ほど,なにも書けないまま,ひたすらインターネットで情報を掻き集めていました。そこに「計画停電」なるものがやってきました。じつは,この原稿の締め切りは3月20日。もう,残りの時間がありません。で,とても焦りました。同時に,大相撲問題なんかを書いているときではないのではないか・・・・とずいぶん悩みました。が,約束は約束です。担当編集者から「取消し」なり「延期」なりの連絡がないかぎり,引き受けた以上はなにがなんでも書かなくてはいけない,と考えました。でも,毎日のように「計画停電」がある,と脅かされ気もそぞろになってしまいました。結局,なにも書けませんでした。

これではいけないと考え,とうとう16日になって弟の住む愛知県豊橋市に,一時避難をして原稿を書くことにしました。これで気持ちがいくらか落ち着き,集中して原稿を書き上げることができました。でも,書き上がったのは20日の早朝。そのまま,弟の家を飛び出して,「ISC・21」3月大阪例会(大阪学院大学・世話人松本芳明さん)に向かいました。その日の午後,この書き上げたばかりの原稿を読み上げて(原稿のコピーは配布),いろいろ批判をしていただき,翌日(21日)の早朝,ホテルで推敲をすませ,岩波書店の担当編集者に送信。

ようやく,なんとか間に合わせたとほっとしていたら,「緊急の編集会議がいま終わって,5月号は「緊急臨時編集号」に切り換えることが決まった」とメールが入りました。それが23日(水)だったと記憶しています(とても怪しい)。で,メールの最後のところに「しばらく時間をください」とありました。ああ,これはボツではなくて,どこかで掲載してもらえる,とほのかな期待をもつことにしました。

その間に,八百長問題調査特別委員会による「25名の元力士処分」の提言がでて,日本相撲協会は,それを丸飲みしてそのまま処分をしてしまいました。これはまたとんでもないことを・・・・と憤っていたら,担当編集者から連絡が入りました。「6月号に掲載する予定のゲラがでてきましたので送信します」とある。そして,「この処分の問題もふくめて,もう少し原稿を書き足してください」という。この「もう少し」という表現を自分なりに解釈して,できるだけ短く書いたつもりだったのですが,いつのまにか相当の分量になっていましたが,そのまま送信しました。そうしたら,大幅に予定ページをオーバーしているので,こんな風に「切り貼り」をして字数の調整をしました,といって最終ゲラが送信されてきました。それをみると,じつにみごとなブラッシュ・アップをしてくれていて,なんの異論もありません。

それがそのまま最終稿となって,6月号にそのまま掲載されています。いわば,原文はわたしの原稿ですが,仕上がりは編集者の手が加わっていて,いわば「合作」です。腕のいい編集者のお蔭です。これはもう感謝あるのみです。

というわけで,とても難産ではありましたが,かなり満足のいく仕上がりとなっています。これまでの大相撲問題の議論とはいささか趣の異なる,新しい視点をいくつか提示したつもりです。どうか,書店で手にとって内容をチェックしてみてください。

それから,これはわたしにとってはとても嬉しいことなのですが,孫正義さんの「東日本にソーラーベルト地帯を──太陽の港,風の港で日本は甦る」という,素晴らしい原稿が同じ6月号に掲載されています。自分の原稿のことはそっちのけにして,まずは,孫さんのこの玉稿を一気に読んでしまいました。そうだ「太陽」と「風」でいいんだ,とますます意をつよくしました。「原発」はもういい。そして,「太陽」と「風」で十分に電力をまかなうことはできる,と確信することができました。こういう議論をもっともっと展開していかなくてはいけない,ととても勇気を与えられました。

その他にも,素晴らしい論考が満載です。わたしの敬愛している柳澤桂子さんも「原子力発電から離れよう」という論考を寄せていらっしゃいます。それでいて定価は840円。
ぜひ,手にとってごらんください。



2011年5月3日火曜日

「脱原発派でもない,原発推進派でもない」東浩紀さん。あまりに恥ずかしい。

これは書かないことにしようと思っていたが,やはり,どうしても抑えがたい思いがふつふつと湧いてきて,もはや,抑えようがないので書くことにした。

東浩紀さん,あなたともあろう人が,「恥ずかしい,あまりに恥ずかしい」。「いい加減な,あまりにいい加減な」。「優柔不断な,あまりに優柔不断な」。「無責任な,あまりに無責任な」・・・・・。さしもの郵便屋さんもどこに配達したらいいかわからなくなってしまうような,「あまりに郵便的な」東浩紀さん。

わたしのような「遅れてやってきた青年」にも,ようやくあなたの正体がみえてきました。

あなたは,某月某日の某新聞に,「わたしは脱原発派でもないし,原発推進派でもない」と堂々と,公明正大に宣言されました。立派です。臆せず,ご自分の信念を明らかにされたのですから。その姿勢たるや,じつに立派。でも,その内容たるやまことにお粗末。

4月も終わりになって,いまもなお「脱原発派でもない,原発推進派でもない」と臆面もなく表明されるあなたのお考えに,わたしはあきれ返ってしまいました。この期に及んで?!もはや,そんな悠長なことを言っていられるときではないことぐらい,賢明なあなたのことだから,十分すぎるほどわかっていらっしゃるはずだ。にもかかわらず,「泰然自若」というべきか,「春風駘蕩」というべきか,どこか世間離れした現実認識にわたしはびっくり仰天してしまいます。

ジャック・デリダが生きていたら,なんと言ったかはだれにもわかること。ひょっとしたら,天国からデリダが降りてきて「君,君,いったいどうしたというんだ」と声をかけるかもしれない。もちろん,「階層秩序的二項対立」でものごとを裁けとは言わないでしょう。がたらといって,この国家存亡の非常時という喫緊の課題が山積する事態に対して「どちらでもない」というスタンスはいったいなにを意味しているのでしょうか。それでは,まるで,カン君の責任逃れと同じです。

そのカン君だって,かつては全共闘世代の一員として権力に立ち向かい,立派に「闘った」東工大の学生さんでした。いくら,いまは,東工大にお勤めとはいえ,一世代も二世代もカン君よりは若いあなたが,同じような優柔不断の姿勢をとるとは・・・・。もっとも,あなたのその姿勢こそが,あなたの世代とそれにつづく世代の人たちが「安易に共有」する考え方であることも,わたしなりに理解しているつもりです。しかし,東さん。気をたしかにもって,もう一度,よく考えてみてください。あなたがそんな体たらくでは,若者は育ちません。「ああ,中立でいいんだ」と安易な道を選ぶでしょう。そこにはなんの「決断」も必要がないからです。それでは,若者は育ちません。若者が育つのは,あえて「エッジ」に立たせることによってです。あえて,全体重をかける「判断」を迫ることによってです。

あなたは評論家ではあっても,批評家ではないですね。この違い,わかりますよね。評論家は,たんなるコメンテーターです。適当なことを言ってお茶をにごしておけばそれでいいのです。やすっぽい相撲評論家ですら,アナウンサーに「さて,この一番,どちらが勝つでしょうか」と投げかけられたとき,平然と「そりゃあ,強い方が勝つでしょうね」と大まじめに答えます。あなたは,「わたしは,東方の味方でも,西方の味方でもありません」と言っているようなものです。それはみせかけのヒューマニズムでお茶をにごしているだけの話です。なんの問題解決にもなりません。その意志さえ示そうとしないのですから・・・・。

どこかの宇宙衛生から相撲中継をしているような,そんな冷静な,どこか人間性に距離をおいた「冷たい」隔たりが,あなたの姿勢には感じられます。そして,汗をかくこともなく,手を汚すこともなく,完全に衛生管理された清潔な部屋から一歩も外にはでようともしないで,コメントだけを発する。あまりに郵便的に。

そうではないでしょう。いまこそ,からだの痛みを分かち合いながら,熱く激論を闘わすときでしょう。わたしはどちらでもありません,では議論にもなりません。やはり,ここは,同じ土俵に下りてきて,ガチンコの議論をすべきではないでしょうか。まずは,相撲をとりましょうよ。高見の見物みたいなことを言ってないで。

かつての熱き全共闘の闘士たちは,「どちらでもない」人間を「日和見主義者」といって,きびしく糾弾したものです。どっちか態度をはっきりさせよ,と。でも,あの時代といまとではまるで世界が違います。ましてや,今回はみんなが恐れていた緊急事態の発生です。そんなときに「どちらでもない」などと悠長なことを言っていられる神経が,わたしには理解できない。東さん,あなたのことですから,いずれ,どこかであなたの真意を明らかにしてくれることでしょう。そのときの言説をとくと拝見したいと思います。

しかし,現時点では,大いに失望したというか,あきれたというか,情けないというか,どうにも収まらない気持ちでいっぱいです。だから,その気持ちをとうとう吐き出すしかなかったのです。こうして,書いたあとも後味が悪い,なんとも「悲しい」気分です。そんなあなたがマスコミに持て囃されることが・・・・・。やはり,現代日本の社会はどこか「病んでいる」・・・・・?

2011年5月2日月曜日

ことし初の「黄砂」が襲う。どんよりと,薄気味が悪い。

井伏鱒二の名作『黒い雨』の映画化された情景のどこかに,なんとも重苦しい空模様が描かれていたことを,今朝,家をでるときに思い出した。高層マンションの9階の玄関をでると,真っ正面の多摩川の向こうに東京の都心がみえる。その都心が,どんよりと赤茶色に霞んでいる。真上を見上げると,微かに青空。これといった雲も見当たらない。なのに,太陽の光は弱々しく,午前なのに夕刻のような印象。なんともはや,気持が重い。映画「黒い雨」といえば,田中好子が主演して,みごとに女優としての地位を確立した作品だ。その田中好子も名言を残して,あの世に旅立ってしまった。まだ,若いのに可哀相なことだった。そんなイメージも重なって,今朝の空模様が妙に悲しかった。
この黄砂は中国からジェット気流に乗ってやってくると聞いているが,その前に,東京の空にもそれ相応の放射能が舞っているはずなので,それらと一体化して,地上にも降りてくるのだろうと思うとますます気分が重くなる。それこそ「黒い雨」となって降ってくるのでは・・・・。
いつもの鷺沼の一番高い見晴らしのいいポイントから東京方面を眺める。ほとんど人も通らないので,気兼ねなく眺めていることができる。不思議な光景である。天気がよければ(今日も悪くはない。雲はないのだから),スカイ・ツリーを筆頭に,東京タワーも六本木ヒルズも,新宿の高層ビルもみんなくっきりとその雄姿をみせてくれるのに・・・・。どんよりとした赤茶色のなかに,わずかにそれとわかる程度の輪郭を確認するのが精一杯だ。
この景色になぜ,こんなに惹きつけられてしまうのだろうか,とふと思う。
そうだ。「3・11」以後のわたしの気分というのは,こんな状態ではないか,と気づく。どこに行っても,人と逢って話をしても,こころの底から笑うことはできない。なにか重いものを引きずっている。自分ではそんなつもりはさらさらないと思っていたが,こんな景色が,いつもとはまったく違った意味を帯びて迫ってくる。まるで能面をみているようだ。能面は,みる人のこころを写し取る,という。いつもにこやかに笑っている延命冠者(事務所に飾ってある)が,ちかごろ,その笑いに力がない。そう,それを眺めているわたしに笑顔が欠けているからだ。こころが晴れないからだ。
鷺沼の眺望ポイントから坂道をくだってくると,わたしの好きな植木屋さんの屋敷がある。毎日,眺めながらとおっているのに,ほとんどなにもみていなかったことに気づく。桜が完全に葉桜になっている。いつのまに?と不思議だ。そして,もう,ハナミズキが真っ盛りをすぎようとしているではないか。あれれっ,とわが眼を疑う。こころここにあらざればみれどもみえず,という。腑抜け状態がいつのまにか日常化している。
こんな精神状態でいるからなのか,数週間前に第3章と第4章の翻訳の推敲原稿がパソコン上からどこかに飛んで行ってしまった。そして,気を取り直して,同じことをやり直し,やれやれと思ったら,またまた,昨日,まったく同じ第3章と第4章がパソコン上から姿をくらましてしまった。昨夜はショックで眠れなかった。今日も一日,事務所の机に向って,この推敲作業をどのようにして進めようかと思案投首。こちらのトンネルは「3・11」以前からつづいている。早く,このトンネルから抜け出して,明るい世界で,気持を解放させたいところ。それまで,ただ,ひたすら耐えるのみ。
こういうときは気分転換に,まったく別の仕事をしよう。西谷修さんの『不死のワンダーランド』の独訳が完成して,まもなく刊行されるという。そして,なぜか,このわたしに短い「序文」を書いてほしいと訳者のアンドレアス・ニーハウスさんが言っていると,西谷さんから,この間の水曜日に聞いた。早速,ニーハウスさんとメールで連絡をとる。西谷さんのことをコンパクトに紹介してほしいとのこと。なるほど,納得。でも,これがむつかしいのだ。だらだらと書けばいくらでも書ける。が,余分なことを切り捨てて,肝心要のところをピンポイントで指摘するのは至難の業だ。
よし,とこころを決めて,太極拳のひとり稽古をし,汗をびっしょりかき,シャワーを浴びて,すっきりしたところで机に向う。不思議なことに,あっという間に書き上げる。一晩寝かせて,明日,もう一度,推敲すればたぶんOK。西谷さんも言っていたが,この重苦しいご時世に,ようやく雲間に太陽が顔をみせた,と。わたしも,こんな名誉なことはないとばかりに,その雲間に便乗して,お裾分けをいただく。
ちょっと,いい気分になってきたので,明日からまた気を取り直して,一気に推敲作業を進めることにしよう。今日の黄砂も明日には通過していてくれるだろう。それを期待することにして。いまは,前を向いて進むしかないのだ。日本国中,みんな。

2011年5月1日日曜日

節電の切り札「夏時間導入と自販機撤去で」(岩国哲人)に大賛成。

昨日のブログでとりあげた「耕論」の下段に,「私の視点」というコラムがあり,表記のような見出しがわたしの眼を惹いた。
岩国哲人さんは,いうまでもないが,前衆議院議員・元島根県出雲市長。たしか公募に応じて出雲市長に立候補して当選し,政治家としてのスタートを切った人。この人が2008年4月の衆院環境委員会で議論したときの二つの提案を,いまこそ実現してほしいと訴えている。
それが,サマータイム(夏時間)の導入と自販機の撤去である。これこそが「節電」の切り札だ,というわけである。
サマータイムの導入は,すでに節電目的で,世界の約70カ国が実施している,という。岩国さんは,日本生産性本部の試算を根拠として提示している。それによると,「夏時間で節約できる電力は100万キロワット級の原発のおよそ1基分に相当する。経済協力開発機構(OECD)加盟国で夏時間を導入していない国は日本と韓国とアイスランドだけ。白夜のアイスランドは夏時間の必要がない。韓国は日本より西にあるにもかかわらず日本との時差はないので,いわば一年中,夏時間を行っている」という次第だ。つまり,夏時間を導入していない国は日本だけだ,ということになる。こんなにわかりやすい議論はない。この夏の電力不足が叫ばれているにもかかわらず(実際には十分に足りるという説もある),サマータイムに踏み切ろうとしないのは,なぜか。ここに大きな問題がある。利害得失だ。計算と打算が渦巻いている。ここの主語は想像力で埋め合わせてみていただきたい。だれが?と問いながら。
やろうと思えばすぐにできる。なのに,やろうとしない。やらせない。だれが? なぜ? もう説明する必要もないことだ。かりに,時限立法でもいい。非常時の臨時措置として。とりあえず,ことしの夏はサマータイムを導入してみてはどうか。その上で,問題点がでてきたら,そこで議論を起こせばいい。なのに,この議論がまったく聞かれない。情けない。
もうひとつは,自販機の撤去。これも,もはや不要の長物となった。コンビニがこれだけ普及しているのだから,自販機は不要。岩国さんは,その根拠をつぎのように提示している。
「私が島根県出雲市の市長だった1994年12月,同市議会は酒や成人向け雑誌などの有害図書を販売する自販機を撤去する条例を全会一致で可決した。全国初となる条例だった。出雲市でできたことが,国や他の自治体でやれないはずがない。──中略。日本中の自販機が年間で消費する電力は原発1基分を超えるという試算もある。ちょっとした便利さのためにエネルギーを浪費してしまう象徴が自販機であり・・・・。」
さらに,つづけてつぎのようにいう。
「・・・・08年1月の朝日新聞の世論調査では84%の人が『自販機がなくても我慢できる』と答えている。その割合は,節電意識が高まったこの状況下ならもっと高いのではないか。」

岩国哲人さんの提案にわたしは諸手を挙げて賛成である。
こんなにわかりやすい議論がなぜ世の中に通用しないのか。なにが,通用させようとしないのか。このことをよくよく考えてみる必要があろう。ここにこそ,日本の現代社会が抱え込んでいる「病理」の根源がある,とわたしは思う。
ほんとうに「病んだ人びと」が日本を支配している。その「病んだ人びと」の多くは,わたしたち自身が選んだり,黙認したりすることによって,世にはばかっている。この「病理」にメスを入れるのはわれわれ国民なのだ。ひとりでも多くの人がこの事実に気づいて,これからの行動を起こすべきときだ。が,しかし,まだまだ少数にすぎない。東京都民がイシハラ君を選んでしまったことの責任は重大だ。またぞろ「原発推進」が根を張る根拠を与えてしまった。「脱原発」を掲げて当選した「区長」さんは,早速,「イシハラ君」にやり玉に挙げられている。区民は「イシハラ君」に向けて大いに反論を展開してほしい。獅子身中の虫として,これから大いに活躍してほしいものだ。「区長」さんのレベルでもいい。ひとつでも「脱原発」を掲げる根拠を増やしていくことがこれからは大事だ。

岩国哲人さんのような「正論」がとおる世の中を,みんなでつくっていくしか方法はない。そこに夢をかけて,頑張りたいものだ。日本の未来は遠い。しかし,一歩ずつ前に足を踏み出すしか方法はないのだ。その一歩が時代や社会を動かす原動力なのだから。