2010年10月18日月曜日

宇沢弘文さんは竹内敏晴さんの3年後輩(一高時代)

 宇沢さんは1945年4月に一高理科乙類に入学。竹内さんは1942年4月に一高理科甲類に入学。したがって,竹内さんが4年生で宇沢さんは1年生,ということになる。
 しかし,竹内さんの自伝(『レッスンする人』語り下ろし自伝,藤原書店)によれば,弓術に打ち込むあまり「落第につぐ落第」とある。宇沢さんもまた,昨日のブログにも書いたように,ラグビーと芋の買い出しに追われ,大学受験には合格したものの一高の卒業に待ったがかかる。単位不足による落第である。しかし,一高の「Bitte」制度によって救済される。竹内さんもまた,1947年に東大文学部に合格するも,やはり単位不足で待ったがかかっている。竹内さんは,全寮制であった一高の寄宿寮の自治寮委員長としての献身的な功績が認められ,学校当局の特別の計らいにより,一高の「Bitte」制度に救われる。
 宇沢さんも竹内さんも,とてつもないスポーツマンであり,かつ他人のために献身的な努力を惜しまない人,それが原因で落第する,でも大学の入試には合格する,というまことに破天荒な青春時代を送っているという点で共通している。
 そして,お二人とも,第二次世界大戦の「敗戦」を経験し,そこを20歳・16歳という若さで通過していらっしゃる。竹内さんは,敗戦を前夜に知り,それを密かに安倍能成校長に報告し,元自治寮委員長として学生の動揺防止と翌日の行動の組織に当たった,と略年譜にある。つまり,大変な緊張のなかで敗戦の日を迎えていたのである。しかも,翌年には「自死をはかるが発見され果たさず」と略年譜にある。竹内さんにとって「敗戦」がどれほどの意味をもっていたかが忍ばれる。しかし,竹内好の「中国における近代意識の形成」という講演を聞き,魯迅に出会う,とこれも略年譜にある。そして,翌年,東大文学部歴史学科に入学。東洋史を専攻する。理科甲類からの転進である。すなわち,戦前を切り捨てて,「0」(ゼロ)からの出発である。
 他方,16歳で「敗戦」を迎えた宇沢さんは,これでようやく「解放」された,とホッとされたそうである。勝つ見込みがない戦争(日本の知識人の間では常識であった)の重圧のもとで,16歳の少年はラグビーでからだを痛みつけることに昇華の方法を見出していたようである。フォワードなので,脳震盪はつきもの。そのたびにバケツの水を浴びて我をとりもどす,という日常だったと振り返る。あとは,腹が減ってどうにもならないので,芋の買い出しに走った,と。その後,宇沢さんは大学では数学を専攻するも,独学で「経済学」を勉強して,経済学者として身を立てることになる。この数学から経済への転進に,宇沢さんの「敗戦」体験が写し出されているように,わたしにはみえる。そして,「人を幸せにするための嘘」に身を捧げることになったのでは・・・と。
 竹内さんは,学者への道をあきらめて,演劇の世界に身を投じていく。そして,生きる人間そのものと真っ正面から向き合う道を邁進する。このあたりのことは近著の『レッスンする人』のなかに詳細に語られているので,そちらに譲ることにする。竹内敏晴という人のライフ・ヒストリーを知るには必読のテクストである。
 こうして,お二人とも,それぞれの分野で日本の戦後史に大きな足跡を残すことになる。
 こんなことを考えていたら,16日の宇沢さんのシンポのあとの懇親会に参加して,竹内敏晴さんの記憶(あるいは,思い出)についてお聞きすべきであった,といまごろになって後悔している。おそらく,玉音放送の日に,竹内さんがどのように振る舞っていたかは,当時の1年生は鮮明に記憶しているに違いない。だとしたら,返す返すも残念の極み。もう二度とチャンスはあるまい。
 しかし,「双葉より芳し」ということばがあるが,大物の青春時代は,一定の枠組みには収まりきらない「激情」があふれんばかりに満ち満ちていたんだなぁ,と思いを新たにしている。こうしたみずからの信念を貫きとおして生きていく人物が,いまの日本の社会のなかで育っているのだろうかと思うと背筋が寒くなってくる。「敗戦」という大きなハードルを,とにもかくにも通過して,そこをバネにして大きく飛躍していく,そういう迫力のある人間はこんご期待できないのだろうか。
 いやいや,あちこちで,そういう芽が育ちつつある,ということに夢を託したい。また,ぜひ,そうあって欲しい,としみじみ思う。
 宇沢さんの「なま」に接することができて,幸せである。本とはまた別の宇沢さんが,体温とともに伝わってくる。シンポが終わってから,たまたま,廊下でばったり,真っ正面から出会うことがあった。なぜか,不思議そうな眼でわたしを鋭く見つめてくる。しかも,はるか上の方から。わたしは,身を固くして,ただ,仰ぎみるだけでどうしたらいいか困ってしまった。仕方がないので,にっこり笑って会釈を返した。それでも宇沢さんは納得がいかない顔のまま,やや小首をかしげるような挨拶を返してくださった。わたしのからだには何万ボルトもの電流が流れ込んできて,完全に感電してしまった。このからだの感覚は生涯,忘れることはないだろう。
 これとまったく同じような「まなざし」を,竹内さんからもいただいたことがある。あの,終始,にこやかに談笑される竹内さんのまなざしが,時折,ギラリと光ることがある。ほんの一瞬のことなのだが,わたしの全身に電気が走る。感電である。
 ここでいう「感電」とは,「我と汝」の境界がなくなってしまうことだ。
 この話のつづきは,23日の名古屋例会で。

0 件のコメント: