2010年12月7日火曜日

A.コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』からの引用文について。

 いよいよ神戸市外国語大学の集中講義に向けての具体的な準備に入ろうとおもう。そのための予習として,テクストの中のいくつかの重要と思われる断章をとりあげて,思考のウォーミング・アップからはじめることにしよう。
 そこで,まずは,『宗教の理論』(ジョルジュ・バタイユ著,湯浅博雄訳,ちくま学芸文庫)の巻頭を飾るアレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』からの引用文をとりあげてみることにしよう。なぜなら,バタイユが,なにゆえにA.コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』からの引用文を自著の冒頭にかかげたのか,その理由をまず最初に考えておくことが肝要である,と考えるからである。ただ,意味もなく,自著の巻頭に,他者の著作から特定の文章を引いてくるわけはない。だとすれば,バタイユの意図はなにであったのか,それが問われることになる。
 引用文はそれほど長くないので,全文を紹介することからはじめよう。
 「それ自身によってそれ自身へと,認識(真正な)のうちに啓示された<存在>を,ある「主体」へと啓示される一個の「客体」に変えるのは,すなわちその客体とは異なり,その客体に対立しているような一個の主体によって,その「主体」へと啓示されるある「客体」へと変化させるのは,<欲望>である。人間は「彼の」欲望のうちに,かつ欲望によって,あるいはむしろその欲望として──自分自身に対しても,また他者に対しても──,自らを一個の<自己>とし,すなわち<非-自己>とは本質的に異なっており,かつ根底的にそれと対立するような<自己>として構成し,啓示するのである。<自己>(人間的な)とは,一個の<欲望>の──あるいは<欲望>そのものの──<自己>である。
 人間の<存在>そのもの,つまり自己を意識している存在とは,したがって<欲望>を当然のものとして含んでおり,またその前提として仮定している。だから人間的現実とは一つの生物学的現実の内部,また動物的な生の内部においてしか構成されず,維持されることはできないのである。しかし,動物的な<欲望>が<自己意識>の必要な条件であるとしても,それはその十分な条件ではない。この欲望はそれだけでは,<自己感情>しか構成しないのである。
 人間を受動的な平静さ(キエチュード)の内に維持する認識とは反対に,<欲望>は人間を不安(アンキエ)にし,行動するように促進する。行動はこうして<欲望>から生まれたものであるから,それを充足させようとする傾向を持つけれども,行動がその充足をなし遂げることが可能なのは,その欲望の対象を「否定」すること,それを破壊するか,あるいは少なくともそれを変化させることによる以外ない。たとえば飢えを充足させるためには,食料となるものを破壊するか,あるいは変化させる必要がある。このように全て行動というものは,「否定的」に作用するものである。」
 以上が引用文の全文である。ところで,この手の文章に不慣れな読者にとっては,相当に苦戦をしいられる文章ではある。しかし,よくよく熟読玩味していくと,おぼろげながらその言わんとすることはみえてくる。スペースがあれば,逐語的に解釈を加えながら読解をしてみたいところであるが,そうもいかないので,ここではその概要を要約するにとどめたいとおもう(集中講義では,逐語的にくわしく解説する予定)。思い切って意訳をすると,以下のようになろうか。
 「主体と客体の区別のない<存在>が,ある啓示とともに主体に認識され,それが主体にとっての客体へと変化するのは<欲望>による。すなわち,主体と客体とが区別され,主体にとってそれが客体として<存在>するものへと変化させるのは,<欲望>である。人間はみずからの欲望のうちに,かつ欲望によって,あるいはむしろ欲望として,<非-自己>とは本質的に異なり,かつ根底的にそれと対立するような<自己>を構成し,啓示するのである。人間的な<自己>とは,一個の<欲望>の(あるいは<欲望>そのものの)<自己>である。
 自己を意識している人間の<存在>とは,<欲望>を当然のものとして含んでいる。また,それが前提でもある。だから,人間的現実とは,一つの生物学的現実の内部(あるいは動物的な生の内部)にしか構成されないし,維持されることもない。しかし,動物的な<欲望>が<自己意識>の必要条件であるとしても,それは十分条件ではない。この動物的な<欲望>は,それだけでは<自己感情>しか構成しないのである。
 認識は,人間を受動的な平静さに保つけれども,<欲望>は人間を不安にし,行動を促す。行動は<欲望>から生まれたものであるから,それを充足させようとする傾向を持つ。しかし,行動がその充足をなし遂げるには,その欲望の対象を「否定」すること,すなわち,欲望の対象を破壊するか,あるいはそれを変化させることが必要となる。たとえば,飢えを満たすには,食料となるものを破壊する(殺す)か,あるいは変化させる(飼育・栽培する,あるいは,調理する)必要がある。このように,あらゆる行動というものは,「否定的」に作用するのである。」
 これで,いくらかわかりやすくなったであろうか。
 さらに,思い切って,もっと噛み砕いてしまえば,以下のようになろうか。
 「自他の区別のない状態から,その区別がはじまるのは動物的な<欲望>による。しかし,この動物的な<欲望>は<自己意識>の必要条件ではあるが,十分条件ではない。つまり,動物的な<欲望>は<自己感情>を構成するにすぎない。だから,人間はどこまで行っても生物学的現実(動物的な生)の外にでることはできない。しかし,この動物的な<欲望>が人間を不安にし,その欲望を充足させるべく行動を促す。その行動とは,<欲望>の対象を「否定」することである。すなわち,それを破壊するか,変化させる以外にない。たとえば,飢えを充足させるためには,食料となるものを殺し,調理する必要がある。このように行動というものはすべからく「否定的」に作用するのである。」
 これで,だいぶ,すっきりしたのではないかとおもう。
 その上で,ここで,はっきりと意識しておかなくてはならないことは,バタイユは,みずからの『宗教の理論』を立ち上げる出発点として,コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』に依拠している,ということである。つまり,ヘーゲルの主張を,みずからの主張の原点に据えているということだ(他の文献で,バタイユは,わたしの思考の出発点はヘーゲルの『精神現象学』にある,と明言している)。もっと言ってしまえば,この引用文を手がかりにして,徹底的に自己の思考を掘り下げたもの,それがバタイユの『宗教の理論』である,ということである。
 一見したところ,ヘーゲルの思考とバタイユの思考とは,まったくの逆方向を向いているようにみえるし,一般的にそのように理解されてもいる。たとえば,「絶対知」と「非-知」という具合に。しかし,その逆方向に向かう思考のヴェクトルは,たとえば,地球上を東と西に向かって進んだとき,その裏側で真っ正面から対面することになる。だから,バタイユが『宗教の理論』を説き起こすにあたって,ヘーゲルから出発することになんの矛盾もないのである。むしろ,正鵠を射ていると言っていいだろう。
 ただ,ひとことだけ,先取り的に予告しておけば,バタイユは,ヘーゲルのいう「動物的な<欲望>」から出発するものの,それを「消尽」と「有用性」という二つの概念を用いて,動物性と人間性とに引き裂かれ,宙づり状態にある人間存在の救済として「宗教」の問題に切り込んでいく。この「宗教」の問題と同時進行するようにして,スポーツ文化の原形態(Urformen)も立ち現れる,というのがわたしの現段階での仮説である。
 そこを読み解いてみようというのが,今回の集中講義の最大の狙いどころである。
 さて,神戸市外国語大学の学生さんたちは,この狙いどころに対して,どこまで食いついてくれるだろうか。大いに期待したいところである。すでに,前期の,マルセル・モースの『贈与論』を通過している学生さんたちであるので,大いなる飛躍が期待できると確信している。なぜなら,マルセル・モースの『贈与論』を,さらに時代を遡ったところの,まさにヒトが人間になる,つまり,動物性から抜け出して,原初の人間が登場するときになにが起こったのか,という問題意識がバタイユの『宗教の理論』の出発点になっているからだ。バタイユのことばを借りれば,動物性から人間性へと<横滑り>をしていく,このときに「宗教」の問題が立ち上がる,ということになる。そして,そこにこそ,わたしの考えるスポーツ文化のアルケー(古層)が,混沌とした状態ではあれ,芳醇な香りを放っている,というわけだ。
 さて,これからさきは冒険の旅だ。不安でもあり,楽しみでもある。そして,「不安」(Sorge)こそ,ヘーゲルのいう人間的「行動」の原点であり,ハイデガーのいう人間「存在」の出発点なのだから。いざ,旅立とう,「不安」をこそ大切な糧にして,知的な冒険の旅へ。

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