2014年11月22日土曜日

書評の地平。森元庸介氏による『破局のプリズム』(西谷修著,ぷねうま舎,2014年9月刊)の書評を読んで。

 書評とはなにか,とこのところ考えることがあって,定期購読している『週刊読書人』の書評をあれこれ考えながら読んでいる。ひとくちに書評といっても,そのスタイルやスタンスはさまざま。しかも,評者についての予備知識がない場合には,その人の書評がどういうものなのか,どのように受け止めればいいのか,その判断に苦しむことが多い。わたしが比較的よく知っている評者の書評は,言外の意味まで忖度できて,とても興味深いのだが・・・・。

 と,そんなことを考えていたら,『週刊読書人』(11月14日号)に,森元庸介さんの手になる西谷修さんの近著『破局のプリズム──再生のヴィジョンのために』(ぷねうま舎,2014年9月刊)の書評が掲載されていた。この書評はとても興味深く読ませていただいた。なぜなら,著者の西谷修さんも,評者の森元庸介さんも,いま,とても仲良くお付き合いをさせていただいて,お二人の著書もわたしなりにしっかりと読ませていただいているつもりの人だから。

 わけても,著者の西谷修さんとは,もう,ずいぶん長いお付き合いをさせていただいていて,この本も著者献本としていただいた。嬉しくてすぐに飛びつくように読んで,いつものことながら,うーんと唸りながら,もし,この本の書評をするとしたらどんな風になるのだろうか,と折あるごとに自問自答していたところだった。できることなら,このブログで書いてみたい・・・と。

 評者の森元庸介さんとも,最近になって親しくお付き合いをさせていただいている。だから,森元さんの手になる翻訳のお仕事(主としてフランス現代思想の翻訳)もひととおりは,読ませていただいている。なかには『猫の音楽』などという意表をつくタイトルの翻訳本もあり,不思議なレパートリーの広さといい,とてもよくこなれた翻訳の文章といい,そして,ご自身の書かれる,じつに味のある文章(文体)といい,森元さん独自の世界があって,それがまたたまらない魅力である。わたしはいつのまにかファンになっている。

 
そんな偶然も重なっていて,だから,この書評はわたしには特別の意味をもつことになり,いろいろと考えさせられた。書評とはなにか,という疑問にもある種の答えを導き出すことができたように思う。とりあえず書いておけば,書評とは,評者のもつ手鏡に写った心象風景が,ほとんどそのまま表出するものだ,と。だから,この書評もまた,森元さん固有の世界が,おのずから表出している。それが,わたしにはまたたまらない喜びをもたらしてくれる。

 したがって,評者の手鏡の大きさやその鮮明度などによって,そこから紡ぎだされる書評はまさに十人十色となる。

 さて,森元さんの書評。上の写真で読んでいただければ一目瞭然。いわゆる,わたしたちが馴染んできた,ふつうの書評ではない。言ってしまえば,最初から最後まで「森元節」が鳴り響いている。逆の言い方をすれば,森元ワールドがある程度わかっていて,しかも,西谷さんの思考の世界を熟知している人でないと,この「森元節」のよさはうまく伝わらないかもしれない。しかし,ありがたいことに「森元節」の奥深くに流れている含意が,わたしにはここちよく伝わってくる。滅多に味わうことのない僥倖である。

 まず,冒頭の書き出しからして,いきなり宇佐美圭司さんへのオマージュからはじまる。それは,つい最近亡くなられた宇佐美さんの死に対して,西谷さんがとても悔しい思いをされていることを,森元さんは察知されているからだ。わたしもまた,西谷さんが「ちょっと油断していた」とポツリと言われたことばが印象に残っている。だから,宇佐美さんと西谷さんとの親密な交友関係を知っている者にとっては,この入り方は感動ものである。思わず「うまいっ!」と叫んでしまったほどだ。

 この導入からはじまって,森元節は徐々に唸りを上げていく。ソフトなタッチの文体ながら,厳密に読み取ろうとすると,どうしてなかなかの難解ものでもある。そこには森元さん独特の隠喩が,一分のすきもなく盛り込まれている。その隠喩に触れられたときにはそこはかとない至福の時が流れはじめる。しかし,そこに触手がとどかない時には,なにかフェイントをかけられたような目眩を覚える。

 それは森元さん固有の思考の深さから発してくると同時に,著者の西谷さんの思考を熟知した上での,二人の共振・共鳴関係から生まれてくる,そういう一種独特の知の地平を拓いているからだろう,とわたしは考える。そして,そうか,書評とは,かくも奥が深いものなのだ,と。つまり,著者と評者のシンクロニシティが成立したとき,その書評はもはやつきなみな書評のレベルをゆうゆうと逸脱していく。そして,それは,もう一つの新しい作品を生みだすことになる。

 だから,この書評を,わたしは,もうすでに,何回もとりだしてきて,読み直している。しかも,そのつど二度,三度と読み返している。そして,そのたびごとに新しい発見の喜びに浸っている。そして,なんという書評なんだ,とひとりごちしている。

 森元さんの選び抜かれたことば。けしてはずすことのないポイント。しかも,そのポイントを手掛かりにして,なお一層,その思考を深めていく,ウデの確かさ。その極めつけのシンフォニーが,最後の段落で鳴り響く。西谷さんのいう「世俗哲学」「チョー哲学」を語るくだりだ。正直に告白しておけば,ことここにいたって,ようやく西谷さんの仰る「チョー哲学」の真意を知ることができた。これぞ至福の時。

 あまりの感動を,やはり,ここにも書き留めておきたい。

 冒頭の書き出し。宇佐美さんの「思考をそこから始め直すチャンス」(破局)に呼応するようにして,森元さんはつぎのように書いている。

 「時の試しに己を開き,糺すべきものを糺して怯まぬ言葉の勁(つよ)さが戸惑いを呼ぶだろうか。しかし勁さは強(こわ)さでない。始め直すべき思考を「世俗哲学」,けれどまた「チョー哲学」と名づける著者は,ふと零れ出る笑いが思考の代えがたい伴走者であることを知るひとだ」。

 もはや,何をか況んや,である。
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