昨日のブログを読み返してみたら,あまりにひどい文章だったので驚き,あわてて推敲しながら補筆・訂正をしましたので,お許しください。いくらかはよくなっているはずです。すでに,読んでしまったという方には,再度,お目通しをいただければ幸いです。
以上,お詫びまで。
さて,『精神現象学』の目次をつらつらと眺めてみる。
大きな柱は,A,B,Cの三つ。
A.意識,B.自己意識,C.理性・精神・宗教・絶対知。
意識の問題は,AとBで終わっているのではなくて,C.理性のなかでもくり返しとりあげられ,議論を深めている。小見出しだけでも,「純粋な状態にある自己意識の観察,および,外界と関係する自己意識の観察」「自己意識と身体──人相学と頭蓋論」「理性的な自己意識の自己実現」という具合である。もっとも,見出しに「自己意識」という表記がでてこないとはいえ,C.理性・精神・宗教・絶対知のいずれも,自己意識と関係しないものはない。精神のなかで取りあつかわれる「共同体」も自己意識抜きには議論は成立しない。宗教も同様である。絶対知にいたっては,自己意識の究極の到達点でもある。
つまり,目次を読み込んでいくだけでも(巻末には丁寧にも,「詳細目次」が提示してあって,しかも,ドイツ語表記と対になっているので,とても役に立つ),そのアウト・ラインはみえてくる。つまり,A.意識,ではもっともプリミティーブな意識の出現から説きはじめ,B.自己意識,にいたって人間の意識がどのように構築されていくかが論じられ,さらに,この自己意識がC.理性・精神・宗教・絶対知,というように細分化し,それぞれに固有の領域を形成しつつ,その精度を高めていく。そして,ついには「絶対知」というゴールにいたりつく,という次第である。
言ってみれば,ヘーゲルのいう「精神」(Geist)の中核をなすものは「自己意識」であることがわかってくる。この自己意識がさまざまに変化・変容しながら,人間としての「精神」を構築していく,とヘーゲルは考えていたようである。そして,その精神の本質としての「否定」運動をくり返しながら(弁証法的に),少しずつ精神の高みへと向っていく。その究極の到達点が「絶対知」である,と。だから,つねに,その中核には「自己意識」がはたらいていることになる,とわたしは理解する。
しかし,わたしの関心は,ヘーゲルのいう「自己意識」のすべてをトータルに理解しようというのではなくて,「自己感情」から「自己意識」へとスライドしていく,そのプロセスを明らかにすることにある。ところが,わたしの不十分なヘーゲル読解では,「自己意識」については詳細な分析がなされているものの,動物次元の「自己感情」ということについては,なにも語ってはいなかったのではないかと記憶する。だから,アレクサンドル・コジェーヴは,ヘーゲルのどの部分から『ヘーゲル読解入門』のあの解釈を引き出したのか,そこを探るしかない,といまのところは考えている。あの「読解」がコジェーヴの独創によるものだとすれば,バタイユが飛びつき,そこをヒントにして『宗教の理論』の発想をえたとしても,不思議ではない。
もし,これが事実だとすれば,バタイユがみずからのテクストの冒頭にコジェーヴの「読解」をもってきた理由は,まことにもっともだ,ということになろう。この課題は,これから時間をかけてじっくりと探っていくことにしよう。
ついでに,『精神現象学』の帯にあるキャッチ・コピーと本文より,という紹介文を転記しておこう。なぜなら,このテクストを読み解く上で,わたしには,とてもありがたい導きの糸(Leitfaden)となっているので・・・・。
「日常的な意識としての感覚的確信から出発して時空の全体を見はるかす『絶対知』に至る意識の経験の旅。揺るぎなき理性への信頼と明晰な論理で綴られる壮大な精神のドラマ。」(キャッチ・コピー)
「力なき美意識が知性を憎むのは,自分にできないことを知性が要求するからだが,死を避け,荒廃から身を清く保つ生命ではなく,死に耐え,死のなかでおのれを維持する生命こそが精神の生命である。精神は絶対の分裂に身を置くからこそ真理を獲得するのだ。精神は否定的なものに目をそむけ,肯定のかたまりになることで力を発揮するのではない。・・・・精神が力を発揮するのは,まさしく否定的なものを直視し,そのもとにとどまるからなのだ。そこにとどまるなかから,否定的なものを存在へと逆転させる魔力がうまれるのである。」(本文より)
熟読玩味するに値する,鋭い切れ味をみるのは,わたしだけではないだろう。こういう文章が随所に点在するこのテクストのすごさは,わたしのような者にもひしひしとつたわってくる。
さて,これからしばらくは『精神現象学』の私的読解を楽しむこととしよう。
なお,蛇足ながら,アレクサンドル・コジェーヴですら『精神現象学』を4回,とにかく強引に読破してみたが,なんのことやらさっぱりわからなかった,という。しかし,ある思想・哲学遍歴をへてのちに,第4章まで読み終えたところで(A.意識からB.自己意識まで),これは「歴史の終焉」を語ったものであり,内容はナポレオンのことだ,と直観したという。そのあとは,面白いように読めるようになったという。そうして,コジェーヴはゼミナール形式の講読をはじめた。そこに集まってきたのはほんのわずかな人たちだったという。しかし,いずれも,のにに大成する大物ばかりである。ちなみに,われわれにもお馴染みの人たちを紹介しておくと以下のとおり。ジャック・ラカン,レーモン・クノー,ロジェ・カイヨワ,モーリス・メルロ=ポンティ,エリック・ヴェイユ,アンドレ・ブルトン,そこにジョルジュ・バタイユである。不思議なのは,ここにサルトルが加わってはいなかったことだ,と伝記作者ミシェル・シュリヤは書いている。
このゼミナール形式の講読は,6年がかりで読み終えることができた,という。どんな議論がそこで展開していたのかは,知るよしもないが・・・・。恐るべき渦が巻いていたことだろう,とわたしは勝手に推測するのみである。
以上,お詫びまで。
さて,『精神現象学』の目次をつらつらと眺めてみる。
大きな柱は,A,B,Cの三つ。
A.意識,B.自己意識,C.理性・精神・宗教・絶対知。
意識の問題は,AとBで終わっているのではなくて,C.理性のなかでもくり返しとりあげられ,議論を深めている。小見出しだけでも,「純粋な状態にある自己意識の観察,および,外界と関係する自己意識の観察」「自己意識と身体──人相学と頭蓋論」「理性的な自己意識の自己実現」という具合である。もっとも,見出しに「自己意識」という表記がでてこないとはいえ,C.理性・精神・宗教・絶対知のいずれも,自己意識と関係しないものはない。精神のなかで取りあつかわれる「共同体」も自己意識抜きには議論は成立しない。宗教も同様である。絶対知にいたっては,自己意識の究極の到達点でもある。
つまり,目次を読み込んでいくだけでも(巻末には丁寧にも,「詳細目次」が提示してあって,しかも,ドイツ語表記と対になっているので,とても役に立つ),そのアウト・ラインはみえてくる。つまり,A.意識,ではもっともプリミティーブな意識の出現から説きはじめ,B.自己意識,にいたって人間の意識がどのように構築されていくかが論じられ,さらに,この自己意識がC.理性・精神・宗教・絶対知,というように細分化し,それぞれに固有の領域を形成しつつ,その精度を高めていく。そして,ついには「絶対知」というゴールにいたりつく,という次第である。
言ってみれば,ヘーゲルのいう「精神」(Geist)の中核をなすものは「自己意識」であることがわかってくる。この自己意識がさまざまに変化・変容しながら,人間としての「精神」を構築していく,とヘーゲルは考えていたようである。そして,その精神の本質としての「否定」運動をくり返しながら(弁証法的に),少しずつ精神の高みへと向っていく。その究極の到達点が「絶対知」である,と。だから,つねに,その中核には「自己意識」がはたらいていることになる,とわたしは理解する。
しかし,わたしの関心は,ヘーゲルのいう「自己意識」のすべてをトータルに理解しようというのではなくて,「自己感情」から「自己意識」へとスライドしていく,そのプロセスを明らかにすることにある。ところが,わたしの不十分なヘーゲル読解では,「自己意識」については詳細な分析がなされているものの,動物次元の「自己感情」ということについては,なにも語ってはいなかったのではないかと記憶する。だから,アレクサンドル・コジェーヴは,ヘーゲルのどの部分から『ヘーゲル読解入門』のあの解釈を引き出したのか,そこを探るしかない,といまのところは考えている。あの「読解」がコジェーヴの独創によるものだとすれば,バタイユが飛びつき,そこをヒントにして『宗教の理論』の発想をえたとしても,不思議ではない。
もし,これが事実だとすれば,バタイユがみずからのテクストの冒頭にコジェーヴの「読解」をもってきた理由は,まことにもっともだ,ということになろう。この課題は,これから時間をかけてじっくりと探っていくことにしよう。
ついでに,『精神現象学』の帯にあるキャッチ・コピーと本文より,という紹介文を転記しておこう。なぜなら,このテクストを読み解く上で,わたしには,とてもありがたい導きの糸(Leitfaden)となっているので・・・・。
「日常的な意識としての感覚的確信から出発して時空の全体を見はるかす『絶対知』に至る意識の経験の旅。揺るぎなき理性への信頼と明晰な論理で綴られる壮大な精神のドラマ。」(キャッチ・コピー)
「力なき美意識が知性を憎むのは,自分にできないことを知性が要求するからだが,死を避け,荒廃から身を清く保つ生命ではなく,死に耐え,死のなかでおのれを維持する生命こそが精神の生命である。精神は絶対の分裂に身を置くからこそ真理を獲得するのだ。精神は否定的なものに目をそむけ,肯定のかたまりになることで力を発揮するのではない。・・・・精神が力を発揮するのは,まさしく否定的なものを直視し,そのもとにとどまるからなのだ。そこにとどまるなかから,否定的なものを存在へと逆転させる魔力がうまれるのである。」(本文より)
熟読玩味するに値する,鋭い切れ味をみるのは,わたしだけではないだろう。こういう文章が随所に点在するこのテクストのすごさは,わたしのような者にもひしひしとつたわってくる。
さて,これからしばらくは『精神現象学』の私的読解を楽しむこととしよう。
なお,蛇足ながら,アレクサンドル・コジェーヴですら『精神現象学』を4回,とにかく強引に読破してみたが,なんのことやらさっぱりわからなかった,という。しかし,ある思想・哲学遍歴をへてのちに,第4章まで読み終えたところで(A.意識からB.自己意識まで),これは「歴史の終焉」を語ったものであり,内容はナポレオンのことだ,と直観したという。そのあとは,面白いように読めるようになったという。そうして,コジェーヴはゼミナール形式の講読をはじめた。そこに集まってきたのはほんのわずかな人たちだったという。しかし,いずれも,のにに大成する大物ばかりである。ちなみに,われわれにもお馴染みの人たちを紹介しておくと以下のとおり。ジャック・ラカン,レーモン・クノー,ロジェ・カイヨワ,モーリス・メルロ=ポンティ,エリック・ヴェイユ,アンドレ・ブルトン,そこにジョルジュ・バタイユである。不思議なのは,ここにサルトルが加わってはいなかったことだ,と伝記作者ミシェル・シュリヤは書いている。
このゼミナール形式の講読は,6年がかりで読み終えることができた,という。どんな議論がそこで展開していたのかは,知るよしもないが・・・・。恐るべき渦が巻いていたことだろう,とわたしは勝手に推測するのみである。
0 件のコメント:
コメントを投稿