2011年2月17日木曜日

「八百長と日本社会」(朝日新聞)の3人のオピニオンに拍手。

 今朝の朝日新聞の「耕論」(オピニオン)で,「八百長と日本社会」というテーマがとりあげられ,3人の識者がそれぞれの専門の立場から意見を述べている。いずれも傾聴に値する内容になっている。ようやく朝日新聞が大相撲に関するまともな記事を掲載したことに,こころから拍手を送りたい。やればできるではないか,と思いつつ・・・。
 3人の識者とは,御厨貴(政治学者)さん,金田一秀穂(国語学者)さん,柳澤健(ノンフィクションライター)さんの3人。ごく簡単に紹介しておくと以下のとおり。
 御厨さんは「語られざるもの生かす道は」という見出しに明らかなように,八百長は昔から「語られざるもの」としてあったんでしょう,と述べ,全部ガチンコで,というのは緊張感があっておもしろい。でも,「語られざるもの」を組み入れ,政治と同様に第三のスタイルを探ることはできないのか。それができれば,そこに新しい大相撲の魅力というか,おもしろさが出てくるんだと思いますよ,という。そして,専門である政治の世界での議員運営委員長というポスト(国会の正式な役職)と国対委員長(こちらは非公式な役職)という二つの役職があって,ここでいろいろな「裏取引」がなされている,という。しかも,「当然,お金も絡んでくる」という。それでも,政治がうまく回るならそれでも良い,と納得してきた,大きな声では言えないけれど,それでうまくやるのが大人の世界だよ,と。だから,大相撲の世界でも,その仕組み(第三の道)をさぐるべきだ,と。そこから新しい大相撲の魅力やおもしろさが開かれてくるのでは・・・と。
 政治の問題はともかくとして,大相撲は娯楽であり,遊びなのだから,この「第三の道」をさぐるという考え方には賛成である。もっと言っておけば,わたしは大相撲の八百長をふくめて存分に楽しんできたので,それがわからない人のために,この御厨さんの提言に賛成である。
 つづいて,金田一さんは「白黒つけない人情の言葉」として「八百長」ということばがあるのだ,と仰る。そして,日本の社会を動かす原理は,人と人の情である,と。ところが,最近の世相は白黒つけることが分りやすくて良いという考えが広がっているが,これはいささか幼稚な考えではないか,と。「白黒つけないのが大人,日本人的なんです。大相撲は,日本の文化の中に深く入り込んだものです。日本の文化,芸術,美学であってスポーツじゃない。誰が悪い,誰がやったんだ,と白黒つけることはなじまない。白黒つけなくていいんです」とまで仰る。
 「大相撲は,日本の文化,芸術,美学であってスポーツじゃない」という発言に拍手喝采である。この点に関しては,わたしとまったく同じお考えなので,安心もし,勇気をいただいた。これから書こうとしている原稿も,この路線(わたしの本音)でいこうと覚悟を決める。おもしろいものが書けそうだ。その意味では感謝。
 そして,言語学者らしく,「融通をきかせる」「手心を加える」「顔を立てる」ということが日本の社会のなかでは,一種の潤滑油として,きわめて重要な役割をはたしてきている,と。八百屋の長兵衛さんは,そういう日本人の典型のひとりだったわけで,こんなことはいまでも立派に行われている,と。
 そのとおりで,接待ゴルフや接待麻雀などでは,絶対にお客さんに勝ってしまってはいけないというのは暗黙の大原則である。それが,最初からわかっていても,お客さんは喜ぶのである。だから,いまでも平然とそれが行われているのだ。ここが,八百屋の長兵衛さんの原点なのだ。世の中をうまく回すための「方便」なのだから(この「方便」をとんでもないところで用いた人もいて,あきれ返ってしまったが)。
 最後のひとりは,柳澤健さん。ノンフィクションライターの肩書で幅広く活躍されている人だが,とりわけ,プロレスに関する著書で知られる人。この人は大相撲の世界にも明るく「保身の念,一刀両断できぬ」という。
 「もちろん八百長はない方がいい。でも八百長があるからといって大相撲のすべてを否定するのは愚かなことです。」
 「八百長は,この国の一面を示しているともいえます。千秋楽を7勝7敗で迎えた力士が対戦相手から星を買うことを,私は全面的にとがめることができません。八百長の動機の一つに,番付を落したくない保身があったと言われますが,ある意味,保身に走るのは人の常だとも言えます。例えばお中元やお歳暮には,人によっては保身をはかる意味もあるでしょう。」
 「星の売り買いは昔からあったでしょう。でも,それは一部に過ぎず,大部分は真剣勝負だと思います。八百長事件は,海外も含め野球やサッカーなど他のスポーツでも起こっています。」
 とまあ,スポーツの世界に明るい人のことばがつぎつぎに飛び出してくる。
 こういう実態を,だれよりも熟知しているのはスポーツ担当記者であるはず。その人たちのほとんどが「頬被り」をして「知らぬ勘兵衛」を決め込み,にわかに「正義」の使者に成り代わって大相撲叩きをする。このことの異常さに,わたしはただ,ただ,唖然とするのみである。そうではなくて,この「耕論」を企画し,人選し,それを取材した記者のような人たちもいるのだ。もっと,もっと広い視野に立ち,多くの人の意見を聞いてみたいものである。それが新聞の一つの役割ではないのか。一方的な弾劾だけでこと足れりとする,了見の狭い記者の猛省をうながしたい。

 

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