昨年の神戸外国語大学の集中講義では,前期にマルセル・モースの『贈与論』をとりあげ,後期にはジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』をとりあげた。いささか欲張った授業を展開したわけだが,予想外に学生さんたちは意欲的に食いついてくれた。それは提出されたレポートを読んで確認することができた。とても,嬉しかった。
もっとも,この授業にでてくる学生さんの大半は,竹谷さんのゼミの学生さんで,すでに『近代スポーツのミッションは終わったか』(平凡社)を輪読しながら,民族スポーツとはなにか,という初歩的な指導を受けている。だから,いささか突拍子もないわたしの話にも,かなりのレベルで食いついてくれたのだと思う。昨年の後期のレポートもかなりのレベルの高さで応答があった。そのうちの3人には「100点」をつけた。こんなことは珍しいことである。バタイユについて,相当に読み込んで(他の関連の文献も読み込んで)いるということが如実につたわってくる,よく練れたレポートであった。おそらく,本人たちも大満足だっただろうと推測している。おそらく,世界がひっくり返るような経験をこの3人の学生さんたちはしただろうと思う。その代わり,予習もなにもしないで,ただ出席して坐っていただけの学生さんたちには,なんのことやらさっぱりわからなかったことだろうと思う。授業中でも,まことにつまらなそうな顔をしていたし,レポートも半分はなげやりだった。こういう学生さんをも拾えるような授業の展開の仕方を考えなくてはいけないなぁ,というのが反省点。
で,ことしも次年度のシラバスを書いて提出せよ,という連絡があった。どうしようかとさんざん考えあぐねた結果,竹谷さんとも相談をして,再度,『宗教の理論』をとりあげることにした。その理由は以下のとおり。
昨年の後期の授業では,『宗教の理論』の第一部・基本的資料のⅠ.動物性(P.21~33)とⅡ.人間性と俗なる世界の形成(P.34~54)をとりあげただけで終わってしまった。時間が足りなかったのだ。で,一番肝腎な,Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則(P.55~81),が残ってしまった。ここまで読み切って,はじめてマルセル・モースの『贈与論』につながるのである。バタイユ自身も,この『贈与論』をしっかり視野に入れた上で,さらに,ポトラッチなどが行われるようになる前の段階の人間の問題に焦点を当てていることは,『宗教の理論』を読めば明白である。だから,バタイユは問題の設定を,「動物性」から「人間性」に<横滑り>する,その過程(プロセス)を詳細に分析するところに置き,ヒトが人間になるときに「宗教的なるもの」が立ち現れる,という根拠を明らかにした。わたしの着眼点もここにある。つまり,「宗教的なるもの」が立ち現れるときに,同時に,「スポーツ的なるもの」が立ち現れる,と。すなわち,「宗教的なるもの」と「スポーツ的なるもの」とは渾然一体となって立ち現れる,と。その根拠を,わたしは,Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則,のなかに読み取ることができると考えているのである。
2011年度の前期の授業は徹底的に,Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則,を深読みしてみたいと考え,そのようにシラバスを作成して提出した。手の内をさきに明らかにしておけば,この授業がうまくいけば,わたしは一冊の本を書こうと考えている。題して『スポーツとはなにか──その根源的問い直し』(仮題)というような。その意味では,これまでにもまして気合が入る。これまでにもやってきたように,ブログをとおして,事前にわたしの「読解」を公開しておいて,それをめぐって学生さんたちに議論をしてもらおう,と考えている。授業が近づいてきたら,書きはじめる予定。興味のある人はアンテナを張っていてください。
ちなみに,ことしの前期の集中講義は8月4日(木),5日(金),8日(月)の三日間。朝8時50分から午後5時40分まで。一日5コマの授業。6日(土)と7日(日)は大学が休み。この間に,かんたんなフィールド・ワークと「ISC・21」の8月例会を考えている。詳しくは,いずれHPの掲示板に案内がでる予定(世話人は竹谷さん)。ぜひ,いまから時間を確保して,この授業に参加してみてください。授業の前と後とでは世界がひっくり返るような体験ができると確信しています。なぜなら,わたし自身が,この授業をとおしていつも大変身しているのですから。ただし,事前に相当の予習をしてきてください。それがないと,まったく,わけのわからない授業になること間違いなし,です。
そのための準備として,わたしはヘーゲルの『精神現象学』をもう一度,精読しておこうと考えている。その理由については,明日のブログで。
もっとも,この授業にでてくる学生さんの大半は,竹谷さんのゼミの学生さんで,すでに『近代スポーツのミッションは終わったか』(平凡社)を輪読しながら,民族スポーツとはなにか,という初歩的な指導を受けている。だから,いささか突拍子もないわたしの話にも,かなりのレベルで食いついてくれたのだと思う。昨年の後期のレポートもかなりのレベルの高さで応答があった。そのうちの3人には「100点」をつけた。こんなことは珍しいことである。バタイユについて,相当に読み込んで(他の関連の文献も読み込んで)いるということが如実につたわってくる,よく練れたレポートであった。おそらく,本人たちも大満足だっただろうと推測している。おそらく,世界がひっくり返るような経験をこの3人の学生さんたちはしただろうと思う。その代わり,予習もなにもしないで,ただ出席して坐っていただけの学生さんたちには,なんのことやらさっぱりわからなかったことだろうと思う。授業中でも,まことにつまらなそうな顔をしていたし,レポートも半分はなげやりだった。こういう学生さんをも拾えるような授業の展開の仕方を考えなくてはいけないなぁ,というのが反省点。
で,ことしも次年度のシラバスを書いて提出せよ,という連絡があった。どうしようかとさんざん考えあぐねた結果,竹谷さんとも相談をして,再度,『宗教の理論』をとりあげることにした。その理由は以下のとおり。
昨年の後期の授業では,『宗教の理論』の第一部・基本的資料のⅠ.動物性(P.21~33)とⅡ.人間性と俗なる世界の形成(P.34~54)をとりあげただけで終わってしまった。時間が足りなかったのだ。で,一番肝腎な,Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則(P.55~81),が残ってしまった。ここまで読み切って,はじめてマルセル・モースの『贈与論』につながるのである。バタイユ自身も,この『贈与論』をしっかり視野に入れた上で,さらに,ポトラッチなどが行われるようになる前の段階の人間の問題に焦点を当てていることは,『宗教の理論』を読めば明白である。だから,バタイユは問題の設定を,「動物性」から「人間性」に<横滑り>する,その過程(プロセス)を詳細に分析するところに置き,ヒトが人間になるときに「宗教的なるもの」が立ち現れる,という根拠を明らかにした。わたしの着眼点もここにある。つまり,「宗教的なるもの」が立ち現れるときに,同時に,「スポーツ的なるもの」が立ち現れる,と。すなわち,「宗教的なるもの」と「スポーツ的なるもの」とは渾然一体となって立ち現れる,と。その根拠を,わたしは,Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則,のなかに読み取ることができると考えているのである。
2011年度の前期の授業は徹底的に,Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則,を深読みしてみたいと考え,そのようにシラバスを作成して提出した。手の内をさきに明らかにしておけば,この授業がうまくいけば,わたしは一冊の本を書こうと考えている。題して『スポーツとはなにか──その根源的問い直し』(仮題)というような。その意味では,これまでにもまして気合が入る。これまでにもやってきたように,ブログをとおして,事前にわたしの「読解」を公開しておいて,それをめぐって学生さんたちに議論をしてもらおう,と考えている。授業が近づいてきたら,書きはじめる予定。興味のある人はアンテナを張っていてください。
ちなみに,ことしの前期の集中講義は8月4日(木),5日(金),8日(月)の三日間。朝8時50分から午後5時40分まで。一日5コマの授業。6日(土)と7日(日)は大学が休み。この間に,かんたんなフィールド・ワークと「ISC・21」の8月例会を考えている。詳しくは,いずれHPの掲示板に案内がでる予定(世話人は竹谷さん)。ぜひ,いまから時間を確保して,この授業に参加してみてください。授業の前と後とでは世界がひっくり返るような体験ができると確信しています。なぜなら,わたし自身が,この授業をとおしていつも大変身しているのですから。ただし,事前に相当の予習をしてきてください。それがないと,まったく,わけのわからない授業になること間違いなし,です。
そのための準備として,わたしはヘーゲルの『精神現象学』をもう一度,精読しておこうと考えている。その理由については,明日のブログで。
1 件のコメント:
2009年に外大を卒業したあまり若くない者です。
先生の講義を受けられなくて残念。(いずれにしても受講できないコースだったのですが…)
井上邦子先生の講義は受けました。個人的に衝撃を受けたので、以来私もからだと心にこだわっています。
コメントを投稿