さて,予告しておいて書かないでいるのは心苦しいので,早めに整理しておこう。『宗教の理論』にとことんこだわるがゆえに,なぜ,わたしがヘーゲルの『精神現象学』に踏み込もうとするのか,これが今日のテーマ。
『宗教の理論』を手にとって読んでみようとした人ならだれでも経験していると思うことがひとつある。それは,このテクストの冒頭にかかげられたアレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』からの引用文を,どのように受け止めるのか,ということである。その理由は,まずは,文章の意味を理解することがきわめて困難である,ところにある。わたしもひっかかって,何回も何回も読み返して考えたからである。しかし,思考のトレーニングにはみごとなテクストであることが,次第に浮かびあってくる。つぎの理由は,なぜ,バタイユはこの引用文をこのテクストの冒頭に置いたのか,というその根拠である。しかも,あれほど批判的にヘーゲル哲学をとらえ,みずからの主張(思想・哲学)の対極に位置づけたバタイユが,「へーゲルをどのように読むか」というコジェーヴの入門書からの引用文を,もっとも根源的な問いを発することを意図した『宗教の理論』の冒頭にもってきたのか。
この2点については,かなり多くの人が共有できる経験ではなかったか。
とりわけ,第2点については,どう考えてみても矛盾ではないか,とわたしはずいぶん考えた。しかし,『バタイユ伝』上,1897~1936(ミシェル・シュリヤ著,西谷修・中沢信一・川竹英克訳,河出書房新社,1991年,P.242~246.「歴史とその目的──歴史の終焉」)を読むと,なんの問題もなく氷解する。若き日のバタイユは(36歳のときからだから,けして若いとはいえないが),ヘーゲルの『精神現象学』を真っ正面から理解すべく努力していることがわかるからだ。そのひとつが,アレクサンドル・コジェーヴ(このとき31歳)が行っていた「ヘーゲル読解」の講義に,3年間もの間,聴講生として熱心にかよったという事実である。そして,ほぼ,完璧にヘーゲルを通過することによって,みずからの思想・哲学のよって立つスタンスがより鮮明に意識されるようになってきた,ということもみえてくる。つまり,ヘーゲルの思考・哲学の論理構造をしっかりと理解した上で,それとはまったく対極にみずからの思想・哲学を位置づけるスタンスを構築していく。すなわち,ヘーゲルの「絶対知」に対するバタイユの「非-知」である。(この伝記によれば,バタイユは生涯にわたってヘーゲル哲学を研究していた,という。そして,コジェーヴとは生涯にわたる交友をもちつづけ,ヘーゲル哲学についてはまだまだ論じなくてはならない問題がある,と最後の手紙にバタイユは書いている,という。つまり,バタイユにとってヘーゲル哲学は生涯をとおして,きわめて重要な意味をもっていたということが明らかになってくる。)
では,なぜ,みずからのきわめて重要なテクストの冒頭にコジェーヴのヘーゲル読解の「この部分」を提示しなければならなかったのか。ここが最大のポイントとなろう。
しかし,これもまた,『宗教の理論』をある程度読み込んでいくと,なるほど,と納得できるようになる。言ってみれば,バタイユがこのテクストを書くことになる,そのきっかけとなったと思われる発想が,きわめて濃密に,凝縮された文章で記述されているからだ。コジェーヴの難解きわまりないその文意を,あえて,わたしなりに要約しておくと以下のようになろうか。
コジェーヴは,動物性のまっただなかに生きていた時代のヒトが,あるとき,なにかの拍子に「客体・対象」(オブジェ)となるものの存在に気づき(啓示),ここから人間への道がはじまるととらえ,この問題をとりあげる。そして,このオブジェの存在を気づかせるその直接的な引き金となったと考えられる契機は,まだ動物性を生きているヒトの<欲望>だという。この欲望こそが,オブジェ(客体)と自己(主体)との差異を気づかせ,はじめて自己が立ち現れることになる。だから,自己とは,一個の欲望の自己である,ととらえる。
したがって,人間の存在は(あるいは,自己を意識している存在は),欲望を含んでおり,また,それが前提となる。だから,人間的現実とは,どこまで行っても生物学的現実から解き放たれることはない。つまり,人間は動物の枠組みのなかから抜け出すことはできない,と。しかし,動物的な欲望が<自己意識>が立ち現れる必要条件ではあっても,十分条件にはならない。つまり,動物的な欲望は,それだけでは自己感情しか構成しないからだ。
この動物的な欲望は人間を不安にし,行動を引き起こす。その行動によって不安を埋め合わせようとするが,それが可能なのは,欲望の対象(オブジェ)を「否定」するか,破壊するか,変化させる以外にはないのである。たとえば,空腹を充たすには,食料となるものを破壊するか,あるいは調理して変化させる必要がある。
だから,行動とは,つねに「否定的」に作用するのである。
以上が,このテクストの冒頭に引用されているコジェーヴのヘーゲル読解からの文章の<私的>要約である。
このように理解すると,ヘーゲルのいう「自己意識」とはどういうものであるのか,そして,「自己感情」からいかにして分離・独立していくのか。そこのところが知りたくなってくる。なぜなら,ここのところをしっかりと理解・把握しないかぎり,動物性から人間性へと<横滑り>していく,もっとも重要なプロセスを,厳密に説明することはできない,とわたしは考えるからだ。
そう考えて,再度,『精神現象学』(長谷川宏訳,作品社,1998年)をとりだしてきて目次を確認してみると,ヘーゲルが「自己意識」ということにどれほどのこだわりをもっていたか,その大きさに気づく。
この問題は,つぎのブログで取り上げることにしよう。
とりあえず,今日のところはここまで。
『宗教の理論』を手にとって読んでみようとした人ならだれでも経験していると思うことがひとつある。それは,このテクストの冒頭にかかげられたアレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』からの引用文を,どのように受け止めるのか,ということである。その理由は,まずは,文章の意味を理解することがきわめて困難である,ところにある。わたしもひっかかって,何回も何回も読み返して考えたからである。しかし,思考のトレーニングにはみごとなテクストであることが,次第に浮かびあってくる。つぎの理由は,なぜ,バタイユはこの引用文をこのテクストの冒頭に置いたのか,というその根拠である。しかも,あれほど批判的にヘーゲル哲学をとらえ,みずからの主張(思想・哲学)の対極に位置づけたバタイユが,「へーゲルをどのように読むか」というコジェーヴの入門書からの引用文を,もっとも根源的な問いを発することを意図した『宗教の理論』の冒頭にもってきたのか。
この2点については,かなり多くの人が共有できる経験ではなかったか。
とりわけ,第2点については,どう考えてみても矛盾ではないか,とわたしはずいぶん考えた。しかし,『バタイユ伝』上,1897~1936(ミシェル・シュリヤ著,西谷修・中沢信一・川竹英克訳,河出書房新社,1991年,P.242~246.「歴史とその目的──歴史の終焉」)を読むと,なんの問題もなく氷解する。若き日のバタイユは(36歳のときからだから,けして若いとはいえないが),ヘーゲルの『精神現象学』を真っ正面から理解すべく努力していることがわかるからだ。そのひとつが,アレクサンドル・コジェーヴ(このとき31歳)が行っていた「ヘーゲル読解」の講義に,3年間もの間,聴講生として熱心にかよったという事実である。そして,ほぼ,完璧にヘーゲルを通過することによって,みずからの思想・哲学のよって立つスタンスがより鮮明に意識されるようになってきた,ということもみえてくる。つまり,ヘーゲルの思考・哲学の論理構造をしっかりと理解した上で,それとはまったく対極にみずからの思想・哲学を位置づけるスタンスを構築していく。すなわち,ヘーゲルの「絶対知」に対するバタイユの「非-知」である。(この伝記によれば,バタイユは生涯にわたってヘーゲル哲学を研究していた,という。そして,コジェーヴとは生涯にわたる交友をもちつづけ,ヘーゲル哲学についてはまだまだ論じなくてはならない問題がある,と最後の手紙にバタイユは書いている,という。つまり,バタイユにとってヘーゲル哲学は生涯をとおして,きわめて重要な意味をもっていたということが明らかになってくる。)
では,なぜ,みずからのきわめて重要なテクストの冒頭にコジェーヴのヘーゲル読解の「この部分」を提示しなければならなかったのか。ここが最大のポイントとなろう。
しかし,これもまた,『宗教の理論』をある程度読み込んでいくと,なるほど,と納得できるようになる。言ってみれば,バタイユがこのテクストを書くことになる,そのきっかけとなったと思われる発想が,きわめて濃密に,凝縮された文章で記述されているからだ。コジェーヴの難解きわまりないその文意を,あえて,わたしなりに要約しておくと以下のようになろうか。
コジェーヴは,動物性のまっただなかに生きていた時代のヒトが,あるとき,なにかの拍子に「客体・対象」(オブジェ)となるものの存在に気づき(啓示),ここから人間への道がはじまるととらえ,この問題をとりあげる。そして,このオブジェの存在を気づかせるその直接的な引き金となったと考えられる契機は,まだ動物性を生きているヒトの<欲望>だという。この欲望こそが,オブジェ(客体)と自己(主体)との差異を気づかせ,はじめて自己が立ち現れることになる。だから,自己とは,一個の欲望の自己である,ととらえる。
したがって,人間の存在は(あるいは,自己を意識している存在は),欲望を含んでおり,また,それが前提となる。だから,人間的現実とは,どこまで行っても生物学的現実から解き放たれることはない。つまり,人間は動物の枠組みのなかから抜け出すことはできない,と。しかし,動物的な欲望が<自己意識>が立ち現れる必要条件ではあっても,十分条件にはならない。つまり,動物的な欲望は,それだけでは自己感情しか構成しないからだ。
この動物的な欲望は人間を不安にし,行動を引き起こす。その行動によって不安を埋め合わせようとするが,それが可能なのは,欲望の対象(オブジェ)を「否定」するか,破壊するか,変化させる以外にはないのである。たとえば,空腹を充たすには,食料となるものを破壊するか,あるいは調理して変化させる必要がある。
だから,行動とは,つねに「否定的」に作用するのである。
以上が,このテクストの冒頭に引用されているコジェーヴのヘーゲル読解からの文章の<私的>要約である。
このように理解すると,ヘーゲルのいう「自己意識」とはどういうものであるのか,そして,「自己感情」からいかにして分離・独立していくのか。そこのところが知りたくなってくる。なぜなら,ここのところをしっかりと理解・把握しないかぎり,動物性から人間性へと<横滑り>していく,もっとも重要なプロセスを,厳密に説明することはできない,とわたしは考えるからだ。
そう考えて,再度,『精神現象学』(長谷川宏訳,作品社,1998年)をとりだしてきて目次を確認してみると,ヘーゲルが「自己意識」ということにどれほどのこだわりをもっていたか,その大きさに気づく。
この問題は,つぎのブログで取り上げることにしよう。
とりあえず,今日のところはここまで。
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