しばらくは触れないでおこうと思っていたが,どうしても気になって仕方がないので,ひとこと書いておくことにした。2月3日(木)の朝日・朝刊に大相撲問題が大きくとりあげられた(これはどこの新聞社も同じだった)。そうした記事のなかで,ひときわ大きな文字で「スポーツとは認めぬ」という見出しで「編集委員(ゴチ)西村欣也」(この文字も小さくはない)という署名入りの論評がわたしの眼に飛び込んできた。「?」,なにがいいたいのだろうか,と。
読んでみたら,もっとも平均的な日本人のスポーツ観(ということは,まことに素人的スポーツ観)にもとづく評論が展開されているだけだった。少なくとも,そこには朝日を代表するスポーツ記者としての矜恃はどこにも感じられなかった。だからこそ,この記事を読んだほとんどの読者は「そうだ,そのとおりだ」と,自分と同じ目線であることに安心もし,拍手喝采をおくったことだろう。そして,文部科学省のお役人さんもこの作文には「花丸」をつけて,いい子いい子と頭をなぜるだろう。しかし,この記事にはいくつかの重大な誤りがある。
まず,第一に「スポーツとは認めぬ」とはどういうことか。この言説は,まさに,「朕は国家なり」と言ったむかしむかしのどこぞの王様と同じで,さぶいぼが立つほどの怖気とともに驚いた。いまどき,こんなに偉い人がいるんだ,と。「スポーツのことなら俺に聞け」「その俺が『スポーツとは認めぬ』と言ってるんだ」と聞こえてくる。まるでヒトラーの演説を聞いているようだ。
たしかに,今回の八百長問題は,どのように批判されても仕方がないほどの大きな瑕疵を残したことは間違いない。みんなびっくり仰天して,腰を抜かしていることだろう。かくいう,わたしとて同じだ。しかし,だからといって一方的に大相撲をまるごと批判して,切って捨ててしまえばそれでいいという問題ではないだろう。こういう批判の仕方は(一方的な誹謗中傷もふくめて),もういやというほど日本の社会に蔓延している。しかも,そのことが野放しになっている。いいたい放題だ。そのことによって日本の社会がどれほど歪みを起こしているかは,みんな承知しているはずだ。その先鞭をつけるかのような役割を,なぜ,西村欣也氏がはたさなくてはならないのか。
相手の非を突いて,一方的な批判をし,相手に有無を言わせぬようなことはしてはいけない,とヘーゲルの『精神現象学』の冒頭の「まえがき」(これが,なんと50ページにもわたる大論文)にくり返しでてくる。つまり,弁証法的な議論の積み上げには,なんの役にも立たない議論で,不毛である,と。だから,この愚を避けつつ,きびしい論評を展開してほしい,これがわたしの真意。
しかし,今回の八百長問題に関しては,こうした不毛の論調があまりにも多い。ここは冷静に考えてみてほしい。力士の圧倒的多数は,まじめに稽古を積み,明日の横綱をめざして日夜精進しているのだ。そして,少しでもいい相撲をとってお客さんに喜んでもらいたい,とこころから念じている。こういう力士が多数を占めてきたからこそ,こんにちの大相撲が成立しているのだ。この事実を忘れないでほしい。そして,もし,言うのであれば「スポーツとは認めぬ」などという「上から目線」ではなく,まじめに努力している同僚力士に対して,どうやって償いをするのか,その罪の重さをこそ指摘し,そこからの救済の方法をさぐるべきではないのか。めざすべきは,どうやって今回の不祥事を乗り越えていけばいいのか,という議論ではないのか。
第二に,西村欣也氏の考えるスポーツとはどういうものをいうのか。あえて,際立つように,わたしの考えを述べておこう。わたしは,大相撲になにが起ころうとも「スポーツである」と認めます。力士たちが八百長をしようが,賭博をしようが,大相撲はスポーツです。西村欣也氏に,少しだけ身をよせてわたしの考えを述べておけば,以下のようになろうか。
西村欣也氏のいう「スポーツとは認めぬ」は,ややことばが乱暴すぎただけで,わたしなら,「大相撲は近代スポーツではない」と言うでしょう。そうです。大相撲は近代スポーツではありません。しかし,大相撲はスポーツではあります。この違いをスポーツを担当する記者のみなさんにはわかっていてほしいのです。
スポーツ史という分野で長い間,仕事をしてきた人間としては,このことは強く主張しておきたいことがらなのです。大相撲は,どう考えてみても近代スポーツではありません。髷を結い,まわしひとつの裸体競技,土俵は神聖な場所で女性を立たせない,行司の装束,部屋制度,呼び出し,床山,などなど,いずれも前近代のままです。そういう前近代性を大相撲の世界はまだまだ多く引き継いだままです。そしてまた,それが様式美もふくめて,たまらない魅力にもなっているわけです。ただひとつ,勝負の判定についてだけはきわめて近代的な手法を導入しているために,それに付随して,優勝劣敗主義が徹底しているために,ついつい大相撲を近代スポーツと勘違いしてしまう人は多いと思います。
しかし,近代スポーツもまた,もとを質せば前近代のスポーツから誕生したものです。その意味では,大相撲は前近代と近代の両方の論理に引き裂かれた状態にある,というのが現状でしょう。ですから,大相撲は,ノミノスクネとタイマノケハヤの決闘にしろ,タケミナカタとタケミカヅチとの決闘にまでさかのぼるにしても,それらもふくめて,わたしは「スポーツである」と考えています。この点は,ヨーロッパ産のスポーツもまた同様です。たとえば,もとをたどれば,古代ギリシア時代のレスリングのはじまりは決闘でした。日本の相撲の起源と変わりません。つまり,スポーツの概念はきわめて広いものだ,ということをここでは確認しておくにとどめます。
ここでは,これ以上のところには踏み込みませんが,スポーツの長い歴史過程を視野に入れた上で「スポーツ」ということばの概念を用いていただきたい,それがわたしの願いです。
西村欣也氏を名指しで批判する結果になってしまったかもしれません。が,いつも書いていますように,朝日新聞の長年の読者として(たぶん,大学に入って上京して以後ずっとですから,50年以上もの読者),しっかりしてほしいのです。ですから,わたしの主張の根底には悪意はありません。むしろ,かつての栄光に輝いていたころの朝日新聞に立ち返ってほしいという深い愛情が,あえて,西村欣也氏に集中したと受け止めてください。
この問題は,西村欣也氏にかぎりません。わたしが眼にする多くのスポーツ記事が,あまりにも貧しいので,ついつい我慢できなくなってしまった,というだけの話です。なかには,素晴らしい感動的なスポーツ記事を書いてくれる記者の方もいらっしゃいます。相当に,スポーツ史やスポーツ文化論を勉強していらっしゃって,そういう素養に支えられた記事は,読んでいて安心です。そして,現実に生きている生身の人間にとってスポーツとはなにか,というもっとも基本的な問いかけがどこかに感じられると,わたしなどは拍手喝采を送っています。
次回は,そういうスポーツ記者を紹介したいと思います。
読んでみたら,もっとも平均的な日本人のスポーツ観(ということは,まことに素人的スポーツ観)にもとづく評論が展開されているだけだった。少なくとも,そこには朝日を代表するスポーツ記者としての矜恃はどこにも感じられなかった。だからこそ,この記事を読んだほとんどの読者は「そうだ,そのとおりだ」と,自分と同じ目線であることに安心もし,拍手喝采をおくったことだろう。そして,文部科学省のお役人さんもこの作文には「花丸」をつけて,いい子いい子と頭をなぜるだろう。しかし,この記事にはいくつかの重大な誤りがある。
まず,第一に「スポーツとは認めぬ」とはどういうことか。この言説は,まさに,「朕は国家なり」と言ったむかしむかしのどこぞの王様と同じで,さぶいぼが立つほどの怖気とともに驚いた。いまどき,こんなに偉い人がいるんだ,と。「スポーツのことなら俺に聞け」「その俺が『スポーツとは認めぬ』と言ってるんだ」と聞こえてくる。まるでヒトラーの演説を聞いているようだ。
たしかに,今回の八百長問題は,どのように批判されても仕方がないほどの大きな瑕疵を残したことは間違いない。みんなびっくり仰天して,腰を抜かしていることだろう。かくいう,わたしとて同じだ。しかし,だからといって一方的に大相撲をまるごと批判して,切って捨ててしまえばそれでいいという問題ではないだろう。こういう批判の仕方は(一方的な誹謗中傷もふくめて),もういやというほど日本の社会に蔓延している。しかも,そのことが野放しになっている。いいたい放題だ。そのことによって日本の社会がどれほど歪みを起こしているかは,みんな承知しているはずだ。その先鞭をつけるかのような役割を,なぜ,西村欣也氏がはたさなくてはならないのか。
相手の非を突いて,一方的な批判をし,相手に有無を言わせぬようなことはしてはいけない,とヘーゲルの『精神現象学』の冒頭の「まえがき」(これが,なんと50ページにもわたる大論文)にくり返しでてくる。つまり,弁証法的な議論の積み上げには,なんの役にも立たない議論で,不毛である,と。だから,この愚を避けつつ,きびしい論評を展開してほしい,これがわたしの真意。
しかし,今回の八百長問題に関しては,こうした不毛の論調があまりにも多い。ここは冷静に考えてみてほしい。力士の圧倒的多数は,まじめに稽古を積み,明日の横綱をめざして日夜精進しているのだ。そして,少しでもいい相撲をとってお客さんに喜んでもらいたい,とこころから念じている。こういう力士が多数を占めてきたからこそ,こんにちの大相撲が成立しているのだ。この事実を忘れないでほしい。そして,もし,言うのであれば「スポーツとは認めぬ」などという「上から目線」ではなく,まじめに努力している同僚力士に対して,どうやって償いをするのか,その罪の重さをこそ指摘し,そこからの救済の方法をさぐるべきではないのか。めざすべきは,どうやって今回の不祥事を乗り越えていけばいいのか,という議論ではないのか。
第二に,西村欣也氏の考えるスポーツとはどういうものをいうのか。あえて,際立つように,わたしの考えを述べておこう。わたしは,大相撲になにが起ころうとも「スポーツである」と認めます。力士たちが八百長をしようが,賭博をしようが,大相撲はスポーツです。西村欣也氏に,少しだけ身をよせてわたしの考えを述べておけば,以下のようになろうか。
西村欣也氏のいう「スポーツとは認めぬ」は,ややことばが乱暴すぎただけで,わたしなら,「大相撲は近代スポーツではない」と言うでしょう。そうです。大相撲は近代スポーツではありません。しかし,大相撲はスポーツではあります。この違いをスポーツを担当する記者のみなさんにはわかっていてほしいのです。
スポーツ史という分野で長い間,仕事をしてきた人間としては,このことは強く主張しておきたいことがらなのです。大相撲は,どう考えてみても近代スポーツではありません。髷を結い,まわしひとつの裸体競技,土俵は神聖な場所で女性を立たせない,行司の装束,部屋制度,呼び出し,床山,などなど,いずれも前近代のままです。そういう前近代性を大相撲の世界はまだまだ多く引き継いだままです。そしてまた,それが様式美もふくめて,たまらない魅力にもなっているわけです。ただひとつ,勝負の判定についてだけはきわめて近代的な手法を導入しているために,それに付随して,優勝劣敗主義が徹底しているために,ついつい大相撲を近代スポーツと勘違いしてしまう人は多いと思います。
しかし,近代スポーツもまた,もとを質せば前近代のスポーツから誕生したものです。その意味では,大相撲は前近代と近代の両方の論理に引き裂かれた状態にある,というのが現状でしょう。ですから,大相撲は,ノミノスクネとタイマノケハヤの決闘にしろ,タケミナカタとタケミカヅチとの決闘にまでさかのぼるにしても,それらもふくめて,わたしは「スポーツである」と考えています。この点は,ヨーロッパ産のスポーツもまた同様です。たとえば,もとをたどれば,古代ギリシア時代のレスリングのはじまりは決闘でした。日本の相撲の起源と変わりません。つまり,スポーツの概念はきわめて広いものだ,ということをここでは確認しておくにとどめます。
ここでは,これ以上のところには踏み込みませんが,スポーツの長い歴史過程を視野に入れた上で「スポーツ」ということばの概念を用いていただきたい,それがわたしの願いです。
西村欣也氏を名指しで批判する結果になってしまったかもしれません。が,いつも書いていますように,朝日新聞の長年の読者として(たぶん,大学に入って上京して以後ずっとですから,50年以上もの読者),しっかりしてほしいのです。ですから,わたしの主張の根底には悪意はありません。むしろ,かつての栄光に輝いていたころの朝日新聞に立ち返ってほしいという深い愛情が,あえて,西村欣也氏に集中したと受け止めてください。
この問題は,西村欣也氏にかぎりません。わたしが眼にする多くのスポーツ記事が,あまりにも貧しいので,ついつい我慢できなくなってしまった,というだけの話です。なかには,素晴らしい感動的なスポーツ記事を書いてくれる記者の方もいらっしゃいます。相当に,スポーツ史やスポーツ文化論を勉強していらっしゃって,そういう素養に支えられた記事は,読んでいて安心です。そして,現実に生きている生身の人間にとってスポーツとはなにか,というもっとも基本的な問いかけがどこかに感じられると,わたしなどは拍手喝采を送っています。
次回は,そういうスポーツ記者を紹介したいと思います。
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