柏木裕美能面展・鼎談のつづき。その3.
昨日のブログでは,今福龍太さんがこんなお話をしてくださった,ということをinamasa流にアレンジして報告をした。つぎは,西谷修さんのお話である。
しかし,ここではたと困ってしまった。西谷さんのお話を整理して,概要を伝えるということは至難の業であるということがわかったからである。そこで,西谷さんの論法をお借りして,西谷さんのお話をわたしはこんな風に受け止めて,こんな風に考えました,というように書こうと思う。それなら書ける。多少,間違っていたにしろ,わたしはこう受けとった,となればさしもの西谷さんといえども,「ああ,そうですか」と答えるしかないからだ。以下は,この論法の展開である。
まず,お話の冒頭で,西谷さんは「テンションの高さ」というお話をされた。
その枕の部分で,みんなさんの爆笑を誘った。
「柏木さんは,マッシュ・ルームを食べすぎて,ハイ・テンションに入り,幻覚症状のなかであの創作面を打ったのではないか」と。
芸能もスポーツも一流の役者やアスリートは,われわれ常人とはまったく次元の違うハイ・テンションの状態に入り,演技やプレイを展開する。だから,多くの人びとを感動させることができるのだ,と。柏木さんも,いまや,その世界に入り込んでお仕事をしているに違いない。それでなければ,2年間にあれほど多くの創作面が誕生するはずがない。それも,気がついたらできあがっていた,と仰る。これこそが「一流」の証である,と。
つづいて,「能面とはなにか」という問いを立てて,つぎのような刺激的な,ある意味で挑発的なお話をされた。まるで,柏木さんの作品群に煽り立てられるようにして。
まず,能面は人間の顔を写し取ったものであるが,人間の顔をそのまま写し取ったものではない。じつは,人間の顔というものは,考えれば考えるほど不思議な存在なのだ。まず,第一に,自分の顔は自分ではみることができない。では,自分の顔はどこに行ってしまうのか。自分の顔は,この顔をみている人の眼のなかに入り込んでしまって,その人の印象のなかにある。しかも,自分の顔は瞬間,瞬間に変化していくので,みる人によって,どの瞬間をみているか,どの瞬間の顔がみる人の印象として強く残るかは,まったく個別的なものとならざるをえない。したがって,自分の顔は,それをみる人によって個々ばらばらな印象となって拡散していく。
つまり,自分の顔は,もし「みんな」というものが存在するとすれば,みんなのものになっていく。つまり,自分ではみることのできない顔が「みんなのもの」になっていくのである。もっと言ってしまえば,自分の顔は他者に預けられてしまう,あるいは,預けられたものとしてしか存在しない,ということになる。その他者に預けられた顔が自分の顔として認知されていくことになる。だから,自分の顔は100分割にも,1000分割にもなりうる。それが顔というものである。
こういう人間の顔を,能面に写し取るとはどういうことなのか。それは,たとえば,小面でいえば,ある若くて美しい女性の顔を写し取ったものである,と言われている。そこには必ずある「モデル」となった女性がいたはずである。この「モデル」となった女性の顔を,最初は,ある特定の面打師が自分のイメージだけで制作したに違いない。しかし,別の面打師が異議を唱えて,この「モデル」の顔はこうだ,といってその面打師のイメージで制作する,ということが起こったに違いない。そうして,多くの面打師が「小面」と題する面を制作していくうちに,次第に淘汰されていって,やがて「みんなの小面」が集約されて,一定の様式にもとづく定番の「小面」ができあがっていったのだろう。それが,こんにちに伝承されている「小面」である。だから,「小面」のなかには,さまざまな女性の感情が凝縮したかたちで埋め込まれている。世にいう「小面のうらに般若あり」は,こうした背景を伝えているのだろう。
だとしたら,柏木さんが「小面変化」を100分割する試みをはじめたとしても,なんの不思議もない,ごくごく当然の成り行きである,と言ってよいだろう。しかし,これまでの面打師は,こんなことは考えようともしなかったし,思いも及ばなかったことに違いない。ただ,ひたすら伝統面の様式に則って,そのコピーを制作することに情熱をそそいできた。しかし,柏木さんは,同じ道筋を歩みながら,伝統面のなかに安住することに満足できなくなってしまった。そうして,依頼されて制作した「鑑真」面が,柏木さんの無意識の世界になにかを持ち込むこととなった。それがうずうずとうずきはじめて,とうとう身近にいる人間の顔を,それこそ最初は実験的に制作する,ということをはじめた。そこに,たまたま,太極拳の仲間として一緒にいた,「ヒー君」(inamasa)「オー君」(西谷修さん)「李自力老師」が,つごうのいいモデルとして使われることになった。
西谷さんは,ここで必殺のジョークをとばす。
「われわれは柏木さんの不朽の名作となる恩恵に浴することになった」(大爆笑)と。
柏木さんの「小面百変化」はここからはじまった。
そのことと,面打師という肩書を捨てて,「能面アーティスト」を名乗るのは同時だった。以後,水をえた魚のように,じつに生き生きと泳ぎはじめた。毎晩,夜中の3時,4時まで,制作に熱中し,根も精もつきはてるまで打ち込み,太極拳の稽古にきたときには,からだが動きません,という状態にまで自分のからだを酷使していた。それがいまもつづいている,という。
ここから,柏木さんの能面につけられているキャプションについて,西谷さんは不思議な見解を披瀝する。
今福さんも感心されたように,柏木さんの創作面につけられたキャプションが,とても上手だと思う,と。そして,よくよくみていくと,そのキャプションがどこからでてくるのかが気になってくる。そして,そのうちにこのキャプションが「声」となって聞こえてくる。しかも,その声が,どこからでてくるのか,それが一カ所ではなく,あちこちから聞こえてくる。つまり,面自身の声であったり,そうではなくて面をみている人の声であったり,作家の声であったり,とさまざまである。しかし,その声にじっと耳をすませていたら,はっと気づくことがあった。その声は能楽の舞台の奥の方からでている,ということに。
だから,柏木さんの制作している創作面もまた,まさに,能面なのだ,とわたしは確信した。つまり,能楽の舞台の奥から聞こえてくる声に促されるようにして制作した創作面なのだ。だから,これこそが能面なのだ。
こうして,伝統面という,一種の呪縛から解き放たれた,あるいは,伝統面を「脱構築」するような営みとしての柏木さんのお仕事は,まさに21世紀の未来に向けた新しい伝統文化の創造の出発点に立つものだと言ってもいいだろう。
と,以上は,西谷さんのお話を聞いたわたしのレポートである。だから,わたしの創作もずいぶんと紛れ込んでいる。西谷さんには,あちこち曲解だらけであると叱られそうだが,わたしとしては覚悟の上である。しかも,西谷さんのお話のお蔭で,柏木さんの能面をみる眼が,根底からひっくり返され,まったく新たな地平からものごとを考える土台をいただいた,とこころから感謝である。
以上で,わたしのレポートは終わり。
昨日のブログでは,今福龍太さんがこんなお話をしてくださった,ということをinamasa流にアレンジして報告をした。つぎは,西谷修さんのお話である。
しかし,ここではたと困ってしまった。西谷さんのお話を整理して,概要を伝えるということは至難の業であるということがわかったからである。そこで,西谷さんの論法をお借りして,西谷さんのお話をわたしはこんな風に受け止めて,こんな風に考えました,というように書こうと思う。それなら書ける。多少,間違っていたにしろ,わたしはこう受けとった,となればさしもの西谷さんといえども,「ああ,そうですか」と答えるしかないからだ。以下は,この論法の展開である。
まず,お話の冒頭で,西谷さんは「テンションの高さ」というお話をされた。
その枕の部分で,みんなさんの爆笑を誘った。
「柏木さんは,マッシュ・ルームを食べすぎて,ハイ・テンションに入り,幻覚症状のなかであの創作面を打ったのではないか」と。
芸能もスポーツも一流の役者やアスリートは,われわれ常人とはまったく次元の違うハイ・テンションの状態に入り,演技やプレイを展開する。だから,多くの人びとを感動させることができるのだ,と。柏木さんも,いまや,その世界に入り込んでお仕事をしているに違いない。それでなければ,2年間にあれほど多くの創作面が誕生するはずがない。それも,気がついたらできあがっていた,と仰る。これこそが「一流」の証である,と。
つづいて,「能面とはなにか」という問いを立てて,つぎのような刺激的な,ある意味で挑発的なお話をされた。まるで,柏木さんの作品群に煽り立てられるようにして。
まず,能面は人間の顔を写し取ったものであるが,人間の顔をそのまま写し取ったものではない。じつは,人間の顔というものは,考えれば考えるほど不思議な存在なのだ。まず,第一に,自分の顔は自分ではみることができない。では,自分の顔はどこに行ってしまうのか。自分の顔は,この顔をみている人の眼のなかに入り込んでしまって,その人の印象のなかにある。しかも,自分の顔は瞬間,瞬間に変化していくので,みる人によって,どの瞬間をみているか,どの瞬間の顔がみる人の印象として強く残るかは,まったく個別的なものとならざるをえない。したがって,自分の顔は,それをみる人によって個々ばらばらな印象となって拡散していく。
つまり,自分の顔は,もし「みんな」というものが存在するとすれば,みんなのものになっていく。つまり,自分ではみることのできない顔が「みんなのもの」になっていくのである。もっと言ってしまえば,自分の顔は他者に預けられてしまう,あるいは,預けられたものとしてしか存在しない,ということになる。その他者に預けられた顔が自分の顔として認知されていくことになる。だから,自分の顔は100分割にも,1000分割にもなりうる。それが顔というものである。
こういう人間の顔を,能面に写し取るとはどういうことなのか。それは,たとえば,小面でいえば,ある若くて美しい女性の顔を写し取ったものである,と言われている。そこには必ずある「モデル」となった女性がいたはずである。この「モデル」となった女性の顔を,最初は,ある特定の面打師が自分のイメージだけで制作したに違いない。しかし,別の面打師が異議を唱えて,この「モデル」の顔はこうだ,といってその面打師のイメージで制作する,ということが起こったに違いない。そうして,多くの面打師が「小面」と題する面を制作していくうちに,次第に淘汰されていって,やがて「みんなの小面」が集約されて,一定の様式にもとづく定番の「小面」ができあがっていったのだろう。それが,こんにちに伝承されている「小面」である。だから,「小面」のなかには,さまざまな女性の感情が凝縮したかたちで埋め込まれている。世にいう「小面のうらに般若あり」は,こうした背景を伝えているのだろう。
だとしたら,柏木さんが「小面変化」を100分割する試みをはじめたとしても,なんの不思議もない,ごくごく当然の成り行きである,と言ってよいだろう。しかし,これまでの面打師は,こんなことは考えようともしなかったし,思いも及ばなかったことに違いない。ただ,ひたすら伝統面の様式に則って,そのコピーを制作することに情熱をそそいできた。しかし,柏木さんは,同じ道筋を歩みながら,伝統面のなかに安住することに満足できなくなってしまった。そうして,依頼されて制作した「鑑真」面が,柏木さんの無意識の世界になにかを持ち込むこととなった。それがうずうずとうずきはじめて,とうとう身近にいる人間の顔を,それこそ最初は実験的に制作する,ということをはじめた。そこに,たまたま,太極拳の仲間として一緒にいた,「ヒー君」(inamasa)「オー君」(西谷修さん)「李自力老師」が,つごうのいいモデルとして使われることになった。
西谷さんは,ここで必殺のジョークをとばす。
「われわれは柏木さんの不朽の名作となる恩恵に浴することになった」(大爆笑)と。
柏木さんの「小面百変化」はここからはじまった。
そのことと,面打師という肩書を捨てて,「能面アーティスト」を名乗るのは同時だった。以後,水をえた魚のように,じつに生き生きと泳ぎはじめた。毎晩,夜中の3時,4時まで,制作に熱中し,根も精もつきはてるまで打ち込み,太極拳の稽古にきたときには,からだが動きません,という状態にまで自分のからだを酷使していた。それがいまもつづいている,という。
ここから,柏木さんの能面につけられているキャプションについて,西谷さんは不思議な見解を披瀝する。
今福さんも感心されたように,柏木さんの創作面につけられたキャプションが,とても上手だと思う,と。そして,よくよくみていくと,そのキャプションがどこからでてくるのかが気になってくる。そして,そのうちにこのキャプションが「声」となって聞こえてくる。しかも,その声が,どこからでてくるのか,それが一カ所ではなく,あちこちから聞こえてくる。つまり,面自身の声であったり,そうではなくて面をみている人の声であったり,作家の声であったり,とさまざまである。しかし,その声にじっと耳をすませていたら,はっと気づくことがあった。その声は能楽の舞台の奥の方からでている,ということに。
だから,柏木さんの制作している創作面もまた,まさに,能面なのだ,とわたしは確信した。つまり,能楽の舞台の奥から聞こえてくる声に促されるようにして制作した創作面なのだ。だから,これこそが能面なのだ。
こうして,伝統面という,一種の呪縛から解き放たれた,あるいは,伝統面を「脱構築」するような営みとしての柏木さんのお仕事は,まさに21世紀の未来に向けた新しい伝統文化の創造の出発点に立つものだと言ってもいいだろう。
と,以上は,西谷さんのお話を聞いたわたしのレポートである。だから,わたしの創作もずいぶんと紛れ込んでいる。西谷さんには,あちこち曲解だらけであると叱られそうだが,わたしとしては覚悟の上である。しかも,西谷さんのお話のお蔭で,柏木さんの能面をみる眼が,根底からひっくり返され,まったく新たな地平からものごとを考える土台をいただいた,とこころから感謝である。
以上で,わたしのレポートは終わり。
1 件のコメント:
柏木裕美能面展および鼎談を大変興味深く拝見、拝聴いたしました。ブログに書かれてある「小面のうらに般若あり」といわれる背景のおはなし、なるほどと思いました。
またブログにもありますように、西谷先生がお話になった能面のキャプションの「声」のお話は私も特に印象に残っています。おそらく壁に掲げられた能面たちに見守られながら鼎談を伺ったからかもしれません。能面に付されたキャプションは、様々な出所から発せられる「声」。この「声」が能舞台を形づくり、その「声」の出所が面の表情に意味を与える(とおっしゃっていたように私は理解しました)。そうしたことが、まさしく柏木さんが精魂こめて生み出された面が、場に預けられ、〈分有〉される瞬間なのかなと思いました。ブログを読みながら、ふと、祝祭空間の「スポーツ」する身体もどこか共通する部分があるな・・・という感想をもちました。
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