このところ,熱心に相撲の本を読んでいる。手元にある本はもとより,新たに資料となりそうなものまでかき集めて,問題の「国技」「神事」の根拠となりそうな事実関係を確認している。しかし,どこまでいっても,その根拠は見当たらない。
あるのは,明治42年(1909年)に両国に国技館ができてから,大相撲と「国技」が結びつき,巷に膾炙されるようになった,ということだけである。
そういう風潮を受けて,日本相撲協会の寄付行為の第3条(目的)のなかで「この法人は,わが国固有の国技である相撲道を研究し,相撲の技術を錬磨し,その指導普及を図るとともに,これに必要な施設を経営し,もって相撲道の維持発展と国民の心身の向上に寄与することを目的とする」と謳われていること(あとで詳しく触れる)。
その流れのなかで,新弟子たちを集めて行われる相撲研修所の教室に「力士修行心得」なるものが貼りだされていて,「第一条 相撲は日本の国技と称されていることを忘れないこと」と書いてある,という。
まことに正直といえば,あまりに正直。「相撲は日本の国技と称されていることを忘れるな」というのである。こんなところに本音が露呈してしまっている。「国技と称されている」という認識なのである。「国技である」と新弟子たちに教えてはいない。国技と言われているのだから,そのように心得なさい,と新弟子たちは「正しく」教えられているわけだ。
寄付行為の方は,日本相撲協会の前身である大日本相撲協会が財団法人として認可されたのが1925年なので,国技ということばが公式に用いられたのは,それ以後のことである。ここでも,「わが国固有の国技である相撲道を研究し」という具合に,相撲が国技であるとは言っていない。相撲道と逃げている。なぜ,相撲道といわなければならなかったのか。
その背景として考えられることは,柔道である。柔術が嘉納治五郎によって「柔道」に再編され,術が「道」になったことによって,たんなる「やわら」ではなく,人間修養の「道」として知識人の間で高く評価されるようになった,という歴史過程がある。相撲も,たんなる力人(ちからびと)ではなく,人間としての「道」を探求する「相撲道」になって,はじめて「国技」と呼ばれるに値するという隠喩をそこに読み取ることができる。こんなところに,「相撲は国技である」とは言い切れない,ある種の「うしろめたさ」のようなものを感じてしまう。
しかし,このことがいつしか忘れ去られ,「相撲はわが国固有の国技である」に転化していく。なぜなら,柔道にしろ,剣道にしろ,ここでいう「道」とは禅の思想であり,道家思想(道教)がその基本となっているにもかかわらず,相撲道とはいかなるものなのか,ということがきちんと定義できていないからだ。こんなところにも,なんとなく「引け目」や「うしろめたさ」を感じてしまう。だから,都合のいいときだけ「相撲道」ということばが用いられ,それ以外のときにはほとんど無視されてきた。つまり,内実がなにもないのである。だが,なんとなく相撲道というものが「あるもの」として,こんにちまで扱われてきた,ただ,それだけ。
ここで言いたいことは,国技であると言う以上は,それなりの歴史的な根拠や理論的な根拠(思想・哲学)を明らかにし,大方の合意がえられなくてはならないだろう,ということだ。そういうものがなにもなくて,ただ,一方的に「国技だ」と言われても困る。だから,相撲研修所の教室に貼りだされている「力士修行心得」の第一条でいうところの「相撲は日本の国技と称されている」という認識はまことに正直な表現である,というわけである。つまり,これが真実なのだから,それはそれでいい,とわたしは思う。
どうも,大相撲の世界には,「・・・・といわれている」ということが多くあって,それがいつのまにか「・・・・である」という断定となり,それがさも真実であるかのように一人歩きをはじめているのが実情のようである。問題は,それを歴史的事実と勘違いをしてしまう世論と,それを背に受けて論陣を張るジャーナリズムの側にある,とわたしは考えている。
雨天でも興行のできる常設相撲場を建設し,その建物に国技館という名前をつけるときの委員長を務めたのは板垣退助である。かれは最後まで「尚武館」(しょうぶかん)とすべしと主張し,国技館という命名に反対した,という。しかも,数年経ったのちになっても,はやり「国技館」という命名は間違いだったと言っている。なぜなら,相撲を「国技」だと多くの人びとが勘違いするようになったから。この話はあまりにも有名なので,ちょっとした相撲の本ならどこにでも書いてある。そこにだけ焦点を当てた本としては『相撲,国技となる』(風見明)がある。参照されたい。最近,でた本では,高橋秀美の『おすもうさん』(草思社,2010年)が,かなり丁寧に調べて書いている。わたしがもっとも信頼を置いている文献は,新田一郎の『相撲の歴史』(講談社学術文庫)である。この本は何回もくり返し読むだけの価値がある。日本中世史の専門家の書いたものとしての学術的な信頼度(東大法学部教授で日本中世の法制史の専門家)のみならず,なによりも相撲を愛する現役の相撲の指導者(東大相撲部監督)でもある。
いずれの著書も,「国技館ができたから国技と呼ばれるようになった」というのが結論。
しかも,第二次世界大戦中の国粋主義者たちの言論をとおして,「相撲は国技である」ということばが定着していったプロセスもまた見逃してはならないだろう。その中心に「双葉山」の活躍があったことも。一説によれば,双葉山の69連勝は「国策」であった,とも言われている。もし,これが事実だとすれば,国家がらみの「八百長」ということになってしまう。この点については,また,いつか取り上げてみたい。
あるのは,明治42年(1909年)に両国に国技館ができてから,大相撲と「国技」が結びつき,巷に膾炙されるようになった,ということだけである。
そういう風潮を受けて,日本相撲協会の寄付行為の第3条(目的)のなかで「この法人は,わが国固有の国技である相撲道を研究し,相撲の技術を錬磨し,その指導普及を図るとともに,これに必要な施設を経営し,もって相撲道の維持発展と国民の心身の向上に寄与することを目的とする」と謳われていること(あとで詳しく触れる)。
その流れのなかで,新弟子たちを集めて行われる相撲研修所の教室に「力士修行心得」なるものが貼りだされていて,「第一条 相撲は日本の国技と称されていることを忘れないこと」と書いてある,という。
まことに正直といえば,あまりに正直。「相撲は日本の国技と称されていることを忘れるな」というのである。こんなところに本音が露呈してしまっている。「国技と称されている」という認識なのである。「国技である」と新弟子たちに教えてはいない。国技と言われているのだから,そのように心得なさい,と新弟子たちは「正しく」教えられているわけだ。
寄付行為の方は,日本相撲協会の前身である大日本相撲協会が財団法人として認可されたのが1925年なので,国技ということばが公式に用いられたのは,それ以後のことである。ここでも,「わが国固有の国技である相撲道を研究し」という具合に,相撲が国技であるとは言っていない。相撲道と逃げている。なぜ,相撲道といわなければならなかったのか。
その背景として考えられることは,柔道である。柔術が嘉納治五郎によって「柔道」に再編され,術が「道」になったことによって,たんなる「やわら」ではなく,人間修養の「道」として知識人の間で高く評価されるようになった,という歴史過程がある。相撲も,たんなる力人(ちからびと)ではなく,人間としての「道」を探求する「相撲道」になって,はじめて「国技」と呼ばれるに値するという隠喩をそこに読み取ることができる。こんなところに,「相撲は国技である」とは言い切れない,ある種の「うしろめたさ」のようなものを感じてしまう。
しかし,このことがいつしか忘れ去られ,「相撲はわが国固有の国技である」に転化していく。なぜなら,柔道にしろ,剣道にしろ,ここでいう「道」とは禅の思想であり,道家思想(道教)がその基本となっているにもかかわらず,相撲道とはいかなるものなのか,ということがきちんと定義できていないからだ。こんなところにも,なんとなく「引け目」や「うしろめたさ」を感じてしまう。だから,都合のいいときだけ「相撲道」ということばが用いられ,それ以外のときにはほとんど無視されてきた。つまり,内実がなにもないのである。だが,なんとなく相撲道というものが「あるもの」として,こんにちまで扱われてきた,ただ,それだけ。
ここで言いたいことは,国技であると言う以上は,それなりの歴史的な根拠や理論的な根拠(思想・哲学)を明らかにし,大方の合意がえられなくてはならないだろう,ということだ。そういうものがなにもなくて,ただ,一方的に「国技だ」と言われても困る。だから,相撲研修所の教室に貼りだされている「力士修行心得」の第一条でいうところの「相撲は日本の国技と称されている」という認識はまことに正直な表現である,というわけである。つまり,これが真実なのだから,それはそれでいい,とわたしは思う。
どうも,大相撲の世界には,「・・・・といわれている」ということが多くあって,それがいつのまにか「・・・・である」という断定となり,それがさも真実であるかのように一人歩きをはじめているのが実情のようである。問題は,それを歴史的事実と勘違いをしてしまう世論と,それを背に受けて論陣を張るジャーナリズムの側にある,とわたしは考えている。
雨天でも興行のできる常設相撲場を建設し,その建物に国技館という名前をつけるときの委員長を務めたのは板垣退助である。かれは最後まで「尚武館」(しょうぶかん)とすべしと主張し,国技館という命名に反対した,という。しかも,数年経ったのちになっても,はやり「国技館」という命名は間違いだったと言っている。なぜなら,相撲を「国技」だと多くの人びとが勘違いするようになったから。この話はあまりにも有名なので,ちょっとした相撲の本ならどこにでも書いてある。そこにだけ焦点を当てた本としては『相撲,国技となる』(風見明)がある。参照されたい。最近,でた本では,高橋秀美の『おすもうさん』(草思社,2010年)が,かなり丁寧に調べて書いている。わたしがもっとも信頼を置いている文献は,新田一郎の『相撲の歴史』(講談社学術文庫)である。この本は何回もくり返し読むだけの価値がある。日本中世史の専門家の書いたものとしての学術的な信頼度(東大法学部教授で日本中世の法制史の専門家)のみならず,なによりも相撲を愛する現役の相撲の指導者(東大相撲部監督)でもある。
いずれの著書も,「国技館ができたから国技と呼ばれるようになった」というのが結論。
しかも,第二次世界大戦中の国粋主義者たちの言論をとおして,「相撲は国技である」ということばが定着していったプロセスもまた見逃してはならないだろう。その中心に「双葉山」の活躍があったことも。一説によれば,双葉山の69連勝は「国策」であった,とも言われている。もし,これが事実だとすれば,国家がらみの「八百長」ということになってしまう。この点については,また,いつか取り上げてみたい。
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