2011年2月22日火曜日

八百長ごときで場所を休んではいけない(野坂昭如・永六輔)。

 急ぎの原稿依頼があって,大相撲の八百長問題について,大急ぎで新しい資料を集め,考え,『相撲の歴史』(新田一郎著,講談社学術文庫)まで読み返しながら,昨夜遅く書き上げ,雑誌社に送信したばかりである。
 そんな日の翌日の今日(22日),毎週一回は顔を合わせている太極拳の兄弟弟子のNさんから(明日の23日は稽古日で顔を合わせる),封書,それも毛筆で宛て名の書かれた封書がとどいた。いったいなにごとか,と一瞬驚きつつ封を開ける。でてきたものは,新聞の切り抜きであった。しかも,大相撲の。Nさんは,わたしが大相撲問題の原稿依頼があったことを知っていて,そのために役立てば・・・という気持ちをこめて切り抜きを送ってくれたのだ。あの超多忙なNさんが,こんな心優しい気配りをしてくださるとは・・・・。感動で涙する。
 封筒からでてきた切り抜きは,「場所を休んではいけない」(野坂昭如)と,「今からでも大阪場所復活を」(永六輔)という署名入りの記事(いずれも『毎日新聞』2月19日付)であった。なるほど,この世代の,しかも「芸能」のなんたるかを熟知している人たちは,大相撲を芸能としてとらえている。そして,八百長を容認はしないけれども,場所を休んではいけない,という立場をとっている。わたしとほぼ同じ考え方をしていることがわかり,安心。こういう人たちの声が,ようやく,ここにきて聞こえるようになってきた。これまでは,まったく聞こえてこなかった。
 わたしの周囲の人たちの意見は,場所を休むことはない,というものが圧倒的に多かった。しかし,八百長が発覚した以上,この問題に決着をつけないかぎり,場所を開いたとしてもお客さんはだれもこない,という主張が新聞・テレビを支配していた。はたしてそうだろうか,とわたしの周囲の人たちはいう。わたしも,相当のダメージはあるものの赤字になることはないだろう,といまも考えている。なぜなら,大相撲を健全化させるためにわたしのようなファンにできることは,場所に行って,八百長相撲が起きないように,きびしい眼を光らせるしかないからだ。そして,土俵に向って声援を送ることが,もっとも手っとり早い方法だと考えているからだ。力士たちもまた,身の潔白を証明するためにも土俵に全力をそそぐだろう。そういう流れをつくっていくことも,八百長を排除していくための,もっとも身近な方法ではないか,とわたしは考える。だから,日々の雑用に追われて,ついついテレビ観戦で済ませていたほんとうの相撲好きは,こういうときこそ場所に足を運ぶと思う。かく申すわたしは,このあたりにいる相撲ファンのひとりだ。

 それにしても,この八百長問題というのは複雑な要素が二重三重に折り重なっていて,これを解きほぐすことは容易ではない。八百長はあってはならない。このことは自明だ。かりに大相撲が芸能であるとしても,勝ち負けという勝敗原理を取り込んだ芸能である以上,そこで八百長が演じられることはなんとしても排除されなければならない。そうしないと,見せ物として成立しなくなる。このことも自明である。しかし,である。にもかかわらず,大相撲という芸能には八百長が紛れ込む要素があまりに多い。あるいは,八百長であるとも,八百長ではないともいえる,いわゆるグレー・ゾーンというか,境界領域に,大相撲という芸能の醍醐味が隠されてもいる。だから,大相撲に通暁しているベテランのファンは,その複雑であいまいな部分をも堪能しているのである。
 さらに触れておけば,よく鍛練された力士の身体は,力士自身がよく言うように「からだが勝手に動く」のである。つまり,意のままにはならない,意志のコントロールを超えた,力士の想像もつかないような超越的で自動化した身体が表出することも,ときには起こるのである。そこは,もはや,神の降臨する世界でもある。サッカーのスーパー・プレイのように(ピッチに神が降臨した,というように)。そんな力士と取り組む相撲は,まるで八百長をやっているようにみえる,という。しかし,それをきちんと見届けることのできる,そんな眼力をもつファンはそんなには多くないともいう。

 いつのまにか,まったく別の話をはじめてしまった。
 途中の展開を省略して,結論だけ述べておこう。
 昨年の野球賭博問題の名古屋場所こそ休場にすべきであったのに対して,今回の八百長問題では休場にすべきではない,というのがわたしの考え。
 取り急ぎ,ここまで。





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