2011年2月11日金曜日

大相撲とはなにか,という根源的な議論を。その2.

 昨日のブログのつづき。題して「その2.」。
 西村欣也氏は,「記者有論」の前段の終わりのあたりで,ご自身の立場を明白にしていらっしゃる。これはとてもありがたい表明でした。これがあったので,わたしは,あえて議論を仕掛け,わたしの主張も明らかにしたいと考えた次第です。お互いの立場の違いがはっきりしていれば,そこを起点にして議論を展開することができるからです。
 西村さんはつぎのように表明していらっしゃる。
 「・・・私は大相撲の屋台骨はスポーツであると思っている。その上に興行と神事が積み重なった国技だという認識に立ってきた。」
 じつに,コンパクトにみずからの立場を表明していらっしゃる。みごとというほかはありません。しかし,ここにも問題がひとつだけあって,西村さんの仰る「スポーツ」は,わたしのことばで言えば「近代競技スポーツ」ということになります。それに引き換え,大相撲は「伝統スポーツ」ということになります。この「スポーツ」の概念についても,いつか,きちんと議論をしてみたいと考えています。それをしないことには,この議論が建設的な方向に向かわないと考えるからです。この問題は,ひとまず,ここでは禁欲。
 で,西村さんの立場表明を受けて,わたしは昨日のブログにも書きましたが「大相撲は勝敗原理をとりこんだ芸能である」と考えています。しかも,大相撲は「神事」でも「国技」でもない,と考えています。そのような立論の根拠は,主として(文献をあげればきりがないので),新田一郎さんの『相撲の歴史』(講談社学術文庫)です。その他にも,宮本徳蔵さんの『力士漂泊』(奇しくも,大相撲の八百長問題が発覚した日の新聞で訃報をしりました。ご冥福をこころからお祈りいたします),舟橋聖一さんの『相撲記』(これは名著。第2代目の横綱審議委員会委員長)を挙げておきたいと思います。当然のことながら,西村さんもお読みの本ばかりだと思います。にもかかわらず,まったく違う立場になってしまうということ,このことが問題なのだと思います。議論するとすれば,ここに極まるとわたしは考えています。もし,これらの文献を読んでいらっしゃらないとしたら,これはもはや,論外です。この議論を取り下げるしかありません。よもや,そんなことはありますまい。
 そこで,疑問がひとつ。西村さんは,どのようにして「神事が積み重なった国技だという認識」に到達されたのか,その根拠をしりたいのです。ここでいう「神事」とは「神事相撲」と考えてよろしいですね。だから,それは「国技」だ,と。
 ここには,二つの大きな認識の違い,わたしとの認識の違いがあります。
 ひとつは「神事相撲」に関する認識。もうひとつは「国技」に関する認識。この二つです。
 わたしが読んできた文献によるかぎり,「神事相撲」のほとんどは約束事です。どちらが勝つかはあらかじめ決まっています。つまりは,八百長です。あるいは,勝敗を競わない神事相撲もあります。それは「所作」だけです。あるいはまた,神社の祭礼のときに開催される赤ん坊の「泣き相撲」があります。この勝敗の原理は地方によって異なります(泣いた方が勝ちとするか,負けとするか)。こういう神事相撲が「積み重なった国技」,それが大相撲だという認識の仕方が,わたしには理解できません。ここのあたりを,わかりやすく説明していただけるとありがたい。
 あるいは,ひょっとしたら,吉田司家の演出になる横綱免許や行司作法が吉田神道にもとづく,とお考えでしょうか。たしかに,その痕跡をいまもとどめてはいます。行司さんの装束や身振りは,ひとつの伝統様式を維持しています。それが,土俵のもうひとつの華となっていることも事実です。が,これもまた,もとを糺せば,第11代将軍家斉(この人は晩年,相当に好き勝手なことをした将軍として知られる。また,江戸の町人文化爛熟期にあって,相撲にも大いに関心を示したといわれている)が上覧相撲を催すにあたって,吉田神道の吉田司家を登用したことに由来する,といわれている(前掲書)。その横綱免許制度も,1945年以後は,吉田司家から日本相撲協会に移行して,神道とは無縁という立場を日本相撲協会はとっている。
 しかも,この吉田神道と「国技」はまったくなんの関係もありません。「国技」は,よく知られるように,国技館ができてから人びとの口の端にのぼるようになった慣用句にすぎません。ですから,言いたい人は言えばいい。言いたくない人は言わない。ただ,それだけの話。それを,わざわざ大相撲は「国技」である,と言挙げして論陣を張るには,いささか無理があります。もし,言うのであれば,「天皇賜杯」が授与されるから「国技」だ,と仰ればいい。単一競技種目で「天皇賜杯」が授与される競技はありません。つまり,近代競技スポーツには「天皇賜杯」は授与されていないのです。では,なぜ,大相撲に「天皇賜杯」が授与されるのか。それは,日本に固有の様式美を整えた「伝統スポーツ」(=「芸能」)だからです。
 公益法人化への道が開かれているとしたら,この一点を保存することの意義を認めるかいなか,にあるとわたしは考えています。西村さんの仰るような,「全力士の調査」をして,身の潔白が証明されなければ,あるいは,「ウミを出し切らなければ」「認められない」とは考えていません。
 このことについても,また,稿を立てて論じてみたいと思っています。
 とりあえず,今日はここまで。

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