IZU PHOTO MUSEUMで「比嘉康雄展」が開催されることになっていて,その期間中の4月10日(日)には,阿満利麿さんの講演があるというので,楽しみにしていた。が,なぜか,この企画は中止になったという。
不可解というか,複雑な気持ちである。
こういうご時世だから,いろいろなお祭り的な行事は自粛しようというのは,わからぬわけではない。しかし,なにからなにまで喪に服したように,自重し,自粛すればいい,というものでもなかろう,とわたしは考える。とりわけ,文化事業は自粛しないでほしい,と思う。ただでさえ,気持ちが落ち込んでしまって,これまでやってきたこともまともには手につかない状態になっているのだから,せめて,気持ちの上でも「前向き」になれるように,みずからを奮い立たせることが,この際,重要ではないか,とわたしは考える。
今回の比嘉康雄回顧展は,比嘉さんのライフ・ワークのなかでもとっておきの沖縄・久高島に伝承されていたイザイホーという祭祀(いまは継承者がいなくなってしまって,廃れてしまった。残念。)に焦点を当て,このことについて阿満さんのお話がある,というので心待ちにしていた。伊豆まででかけるのはいささか距離があるが,それでも比嘉さんの写真と阿満さんのお話がセットになっているこの企画は見逃せない,と早くから予定を立てていた。だから,友人たちにも声をかけ,みんなででかけようと話し合っていたところだ。しかし,なぜか,中止になったという(西谷修さんからの情報による)。
理由がなにであるかはともかくとして,このご時世だからこそ,この企画は実行(強行)してほしかった。なぜなら,イザイホーのような前近代的な,バナキュラーな,伝統的な祭祀を消滅させた最大の原因である現代科学技術文明のなれのはてのひとつが,今回の原発事故なのだから。なにゆえに,今回のような原発事故にわたしたちは遭遇しなければならなかったのか,いや,それ以前になぜわたしたちは原発の建設を容認してしまったのか,その根源の問題を考えるための絶好のチャンスを提供してくれるもの,そのひとつがこの「比嘉康雄回顧展」であり,阿満さんの講演だったのだ。少なくとも,わたしはそのように「3・11」以後,位置づけていた。
もちろん,この企画を最初に聞いたのは,「3・11」以前の話である。その時点ですら,いま,この時代だからこそ,この企画はきわめて重要な意味がある,とわたしは受け止めていた。それは,イザイホーの問題を考えることは,21世紀のスポーツ文化を考える上で,どうしても通過しなければならない,不可欠のハードルのひとつだとわたしは考えていたからだ。なぜなら,スポーツの起源は,そのほとんどが祭祀儀礼にある,と考えているからだ。
わたしたちは,神々への祈りのこころをいともかんたんに投げ棄ててしまい,現代科学技術文明がもたらす「ぬるま湯」的な恩恵に身も心も売り渡してしまい,それを当たり前のこととして生きてきた。そのひずみが,いま,現代社会のありとあらゆるところににょきっ,にょきっと顔を出しつつある。それはまるでジャック・デリダの提起した「亡霊」のようだ。そのひとつが,残念ながら,今回の原発問題なのである。
だから,わたしは,ますます阿満さんがどのようなお話をされるのか,このご時世だからこそ,大いに期待を寄せていた。が,それが「中止」になったという。まことに残念でならない。わたしは,少なくとも「3・11」以後の新生日本の復興に向けて,あるいは,新しい「世界史」のはじまりに向けて,そのための基本的な理念を構築するヒントを,比嘉康雄さんの写真と阿満さんのお話からさぐってみたいと考えていたのである。
こういう企画を中止しなければならない理由は,考えられないことではない。しかし,ここは踏ん張って,開催してもらいたかった。それもまた,震災復興に向けての重要な活動のひとつだと考えるからだ。しかも,今回の復興は,単なる復興ではない。原発問題をいかにして超克していくか,というきわめて重大な理念の転換が求められているのだ。つまり,原発推進という現代科学技術文明依存型の思考からの,意を決した離脱と移動が,いま,求められていると考えるからだ。そのために,日本人として,いや,この地球上に生きるひとりの人間として,「3・11」以後の世界を生きのびていくためには,どのような価値観を新たに構築すべきかが,いま,問われているのだから。そして,このことと21世紀のスポーツ文化を考えることとは直結しているのだ。だから,逆にいえば,現代科学技術文明の素晴らしさと脆弱さの両面をしっかりと確認をした上で,これまでとはまったく違った,生身の人間として生きることを最優先させる「理性」の働かせ方(西谷修)を模索していくには,絶好のチャンスでもあるのだ。ピンチこそがチャンス。辛く,悲しい経験をとおしてこそ,ほんとうに「人間である」とはどういうことであるのか,と真剣に考える。これまでのような「ゆで蛙」状態のなかからは,けして,新たな時代を切り開く思考は生まれてはこない。
だからこそ,比嘉康雄さんのイザイホーの写真をしかと鑑賞した上で,阿満利麿さんの宗教観の蘊蓄に耳を傾けてみたかった。そして,「3・11」以後を生きるひとりの人間としての,思考の道筋をさぐってみたかった。残念でならない。
幸か不幸か,今回の原発事故がなんとか鎮静化に向けて舵を切ることができたとしても,およそ10年もの歳月を要するという。この歳月と同じ時間をかけてでも,「3・11」以後の世界史を展望することのできるコンセプトを構築していかなくてはならない。その意味でも,わたしたちは,いま,きわめて重要なところに立たされているのだ。ただ,復興すればいい,という問題ではないのだ。
だからこそ,文化事業を自粛するようなことがあってはならない,と強く切望したい。むしろ,赤字覚悟で開催していくこと,これもまた立派な復興支援のひとつではないか,とわたしは考えるのだが・・・。
ついでに,もう一言。いまこそ「芸能」の力が求められている,と。
※お詫びと訂正
上記のブログの内容に間違いがありましたので,お詫びします。そして,以下のように訂正をさせていただきます。
比嘉康雄展は,予定どおり,5月31日まで行われているとのこと。阿満利麿さんの講演が中止になったということ。そして,阿満さんの講演については,現在,調整中とのこと。うまくいけば,どこかで実現するのではないか,とわたしは期待している。以上,お詫びと訂正まで。(某出版社の親しくしている編集者から教えていただきました。ありがとうございました。)
不可解というか,複雑な気持ちである。
こういうご時世だから,いろいろなお祭り的な行事は自粛しようというのは,わからぬわけではない。しかし,なにからなにまで喪に服したように,自重し,自粛すればいい,というものでもなかろう,とわたしは考える。とりわけ,文化事業は自粛しないでほしい,と思う。ただでさえ,気持ちが落ち込んでしまって,これまでやってきたこともまともには手につかない状態になっているのだから,せめて,気持ちの上でも「前向き」になれるように,みずからを奮い立たせることが,この際,重要ではないか,とわたしは考える。
今回の比嘉康雄回顧展は,比嘉さんのライフ・ワークのなかでもとっておきの沖縄・久高島に伝承されていたイザイホーという祭祀(いまは継承者がいなくなってしまって,廃れてしまった。残念。)に焦点を当て,このことについて阿満さんのお話がある,というので心待ちにしていた。伊豆まででかけるのはいささか距離があるが,それでも比嘉さんの写真と阿満さんのお話がセットになっているこの企画は見逃せない,と早くから予定を立てていた。だから,友人たちにも声をかけ,みんなででかけようと話し合っていたところだ。しかし,なぜか,中止になったという(西谷修さんからの情報による)。
理由がなにであるかはともかくとして,このご時世だからこそ,この企画は実行(強行)してほしかった。なぜなら,イザイホーのような前近代的な,バナキュラーな,伝統的な祭祀を消滅させた最大の原因である現代科学技術文明のなれのはてのひとつが,今回の原発事故なのだから。なにゆえに,今回のような原発事故にわたしたちは遭遇しなければならなかったのか,いや,それ以前になぜわたしたちは原発の建設を容認してしまったのか,その根源の問題を考えるための絶好のチャンスを提供してくれるもの,そのひとつがこの「比嘉康雄回顧展」であり,阿満さんの講演だったのだ。少なくとも,わたしはそのように「3・11」以後,位置づけていた。
もちろん,この企画を最初に聞いたのは,「3・11」以前の話である。その時点ですら,いま,この時代だからこそ,この企画はきわめて重要な意味がある,とわたしは受け止めていた。それは,イザイホーの問題を考えることは,21世紀のスポーツ文化を考える上で,どうしても通過しなければならない,不可欠のハードルのひとつだとわたしは考えていたからだ。なぜなら,スポーツの起源は,そのほとんどが祭祀儀礼にある,と考えているからだ。
わたしたちは,神々への祈りのこころをいともかんたんに投げ棄ててしまい,現代科学技術文明がもたらす「ぬるま湯」的な恩恵に身も心も売り渡してしまい,それを当たり前のこととして生きてきた。そのひずみが,いま,現代社会のありとあらゆるところににょきっ,にょきっと顔を出しつつある。それはまるでジャック・デリダの提起した「亡霊」のようだ。そのひとつが,残念ながら,今回の原発問題なのである。
だから,わたしは,ますます阿満さんがどのようなお話をされるのか,このご時世だからこそ,大いに期待を寄せていた。が,それが「中止」になったという。まことに残念でならない。わたしは,少なくとも「3・11」以後の新生日本の復興に向けて,あるいは,新しい「世界史」のはじまりに向けて,そのための基本的な理念を構築するヒントを,比嘉康雄さんの写真と阿満さんのお話からさぐってみたいと考えていたのである。
こういう企画を中止しなければならない理由は,考えられないことではない。しかし,ここは踏ん張って,開催してもらいたかった。それもまた,震災復興に向けての重要な活動のひとつだと考えるからだ。しかも,今回の復興は,単なる復興ではない。原発問題をいかにして超克していくか,というきわめて重大な理念の転換が求められているのだ。つまり,原発推進という現代科学技術文明依存型の思考からの,意を決した離脱と移動が,いま,求められていると考えるからだ。そのために,日本人として,いや,この地球上に生きるひとりの人間として,「3・11」以後の世界を生きのびていくためには,どのような価値観を新たに構築すべきかが,いま,問われているのだから。そして,このことと21世紀のスポーツ文化を考えることとは直結しているのだ。だから,逆にいえば,現代科学技術文明の素晴らしさと脆弱さの両面をしっかりと確認をした上で,これまでとはまったく違った,生身の人間として生きることを最優先させる「理性」の働かせ方(西谷修)を模索していくには,絶好のチャンスでもあるのだ。ピンチこそがチャンス。辛く,悲しい経験をとおしてこそ,ほんとうに「人間である」とはどういうことであるのか,と真剣に考える。これまでのような「ゆで蛙」状態のなかからは,けして,新たな時代を切り開く思考は生まれてはこない。
だからこそ,比嘉康雄さんのイザイホーの写真をしかと鑑賞した上で,阿満利麿さんの宗教観の蘊蓄に耳を傾けてみたかった。そして,「3・11」以後を生きるひとりの人間としての,思考の道筋をさぐってみたかった。残念でならない。
幸か不幸か,今回の原発事故がなんとか鎮静化に向けて舵を切ることができたとしても,およそ10年もの歳月を要するという。この歳月と同じ時間をかけてでも,「3・11」以後の世界史を展望することのできるコンセプトを構築していかなくてはならない。その意味でも,わたしたちは,いま,きわめて重要なところに立たされているのだ。ただ,復興すればいい,という問題ではないのだ。
だからこそ,文化事業を自粛するようなことがあってはならない,と強く切望したい。むしろ,赤字覚悟で開催していくこと,これもまた立派な復興支援のひとつではないか,とわたしは考えるのだが・・・。
ついでに,もう一言。いまこそ「芸能」の力が求められている,と。
※お詫びと訂正
上記のブログの内容に間違いがありましたので,お詫びします。そして,以下のように訂正をさせていただきます。
比嘉康雄展は,予定どおり,5月31日まで行われているとのこと。阿満利麿さんの講演が中止になったということ。そして,阿満さんの講演については,現在,調整中とのこと。うまくいけば,どこかで実現するのではないか,とわたしは期待している。以上,お詫びと訂正まで。(某出版社の親しくしている編集者から教えていただきました。ありがとうございました。)
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