井伏鱒二の名作『黒い雨』の映画化された情景のどこかに,なんとも重苦しい空模様が描かれていたことを,今朝,家をでるときに思い出した。高層マンションの9階の玄関をでると,真っ正面の多摩川の向こうに東京の都心がみえる。その都心が,どんよりと赤茶色に霞んでいる。真上を見上げると,微かに青空。これといった雲も見当たらない。なのに,太陽の光は弱々しく,午前なのに夕刻のような印象。なんともはや,気持が重い。映画「黒い雨」といえば,田中好子が主演して,みごとに女優としての地位を確立した作品だ。その田中好子も名言を残して,あの世に旅立ってしまった。まだ,若いのに可哀相なことだった。そんなイメージも重なって,今朝の空模様が妙に悲しかった。
この黄砂は中国からジェット気流に乗ってやってくると聞いているが,その前に,東京の空にもそれ相応の放射能が舞っているはずなので,それらと一体化して,地上にも降りてくるのだろうと思うとますます気分が重くなる。それこそ「黒い雨」となって降ってくるのでは・・・・。
いつもの鷺沼の一番高い見晴らしのいいポイントから東京方面を眺める。ほとんど人も通らないので,気兼ねなく眺めていることができる。不思議な光景である。天気がよければ(今日も悪くはない。雲はないのだから),スカイ・ツリーを筆頭に,東京タワーも六本木ヒルズも,新宿の高層ビルもみんなくっきりとその雄姿をみせてくれるのに・・・・。どんよりとした赤茶色のなかに,わずかにそれとわかる程度の輪郭を確認するのが精一杯だ。
この景色になぜ,こんなに惹きつけられてしまうのだろうか,とふと思う。
そうだ。「3・11」以後のわたしの気分というのは,こんな状態ではないか,と気づく。どこに行っても,人と逢って話をしても,こころの底から笑うことはできない。なにか重いものを引きずっている。自分ではそんなつもりはさらさらないと思っていたが,こんな景色が,いつもとはまったく違った意味を帯びて迫ってくる。まるで能面をみているようだ。能面は,みる人のこころを写し取る,という。いつもにこやかに笑っている延命冠者(事務所に飾ってある)が,ちかごろ,その笑いに力がない。そう,それを眺めているわたしに笑顔が欠けているからだ。こころが晴れないからだ。
鷺沼の眺望ポイントから坂道をくだってくると,わたしの好きな植木屋さんの屋敷がある。毎日,眺めながらとおっているのに,ほとんどなにもみていなかったことに気づく。桜が完全に葉桜になっている。いつのまに?と不思議だ。そして,もう,ハナミズキが真っ盛りをすぎようとしているではないか。あれれっ,とわが眼を疑う。こころここにあらざればみれどもみえず,という。腑抜け状態がいつのまにか日常化している。
こんな精神状態でいるからなのか,数週間前に第3章と第4章の翻訳の推敲原稿がパソコン上からどこかに飛んで行ってしまった。そして,気を取り直して,同じことをやり直し,やれやれと思ったら,またまた,昨日,まったく同じ第3章と第4章がパソコン上から姿をくらましてしまった。昨夜はショックで眠れなかった。今日も一日,事務所の机に向って,この推敲作業をどのようにして進めようかと思案投首。こちらのトンネルは「3・11」以前からつづいている。早く,このトンネルから抜け出して,明るい世界で,気持を解放させたいところ。それまで,ただ,ひたすら耐えるのみ。
こういうときは気分転換に,まったく別の仕事をしよう。西谷修さんの『不死のワンダーランド』の独訳が完成して,まもなく刊行されるという。そして,なぜか,このわたしに短い「序文」を書いてほしいと訳者のアンドレアス・ニーハウスさんが言っていると,西谷さんから,この間の水曜日に聞いた。早速,ニーハウスさんとメールで連絡をとる。西谷さんのことをコンパクトに紹介してほしいとのこと。なるほど,納得。でも,これがむつかしいのだ。だらだらと書けばいくらでも書ける。が,余分なことを切り捨てて,肝心要のところをピンポイントで指摘するのは至難の業だ。
よし,とこころを決めて,太極拳のひとり稽古をし,汗をびっしょりかき,シャワーを浴びて,すっきりしたところで机に向う。不思議なことに,あっという間に書き上げる。一晩寝かせて,明日,もう一度,推敲すればたぶんOK。西谷さんも言っていたが,この重苦しいご時世に,ようやく雲間に太陽が顔をみせた,と。わたしも,こんな名誉なことはないとばかりに,その雲間に便乗して,お裾分けをいただく。
ちょっと,いい気分になってきたので,明日からまた気を取り直して,一気に推敲作業を進めることにしよう。今日の黄砂も明日には通過していてくれるだろう。それを期待することにして。いまは,前を向いて進むしかないのだ。日本国中,みんな。
この黄砂は中国からジェット気流に乗ってやってくると聞いているが,その前に,東京の空にもそれ相応の放射能が舞っているはずなので,それらと一体化して,地上にも降りてくるのだろうと思うとますます気分が重くなる。それこそ「黒い雨」となって降ってくるのでは・・・・。
いつもの鷺沼の一番高い見晴らしのいいポイントから東京方面を眺める。ほとんど人も通らないので,気兼ねなく眺めていることができる。不思議な光景である。天気がよければ(今日も悪くはない。雲はないのだから),スカイ・ツリーを筆頭に,東京タワーも六本木ヒルズも,新宿の高層ビルもみんなくっきりとその雄姿をみせてくれるのに・・・・。どんよりとした赤茶色のなかに,わずかにそれとわかる程度の輪郭を確認するのが精一杯だ。
この景色になぜ,こんなに惹きつけられてしまうのだろうか,とふと思う。
そうだ。「3・11」以後のわたしの気分というのは,こんな状態ではないか,と気づく。どこに行っても,人と逢って話をしても,こころの底から笑うことはできない。なにか重いものを引きずっている。自分ではそんなつもりはさらさらないと思っていたが,こんな景色が,いつもとはまったく違った意味を帯びて迫ってくる。まるで能面をみているようだ。能面は,みる人のこころを写し取る,という。いつもにこやかに笑っている延命冠者(事務所に飾ってある)が,ちかごろ,その笑いに力がない。そう,それを眺めているわたしに笑顔が欠けているからだ。こころが晴れないからだ。
鷺沼の眺望ポイントから坂道をくだってくると,わたしの好きな植木屋さんの屋敷がある。毎日,眺めながらとおっているのに,ほとんどなにもみていなかったことに気づく。桜が完全に葉桜になっている。いつのまに?と不思議だ。そして,もう,ハナミズキが真っ盛りをすぎようとしているではないか。あれれっ,とわが眼を疑う。こころここにあらざればみれどもみえず,という。腑抜け状態がいつのまにか日常化している。
こんな精神状態でいるからなのか,数週間前に第3章と第4章の翻訳の推敲原稿がパソコン上からどこかに飛んで行ってしまった。そして,気を取り直して,同じことをやり直し,やれやれと思ったら,またまた,昨日,まったく同じ第3章と第4章がパソコン上から姿をくらましてしまった。昨夜はショックで眠れなかった。今日も一日,事務所の机に向って,この推敲作業をどのようにして進めようかと思案投首。こちらのトンネルは「3・11」以前からつづいている。早く,このトンネルから抜け出して,明るい世界で,気持を解放させたいところ。それまで,ただ,ひたすら耐えるのみ。
こういうときは気分転換に,まったく別の仕事をしよう。西谷修さんの『不死のワンダーランド』の独訳が完成して,まもなく刊行されるという。そして,なぜか,このわたしに短い「序文」を書いてほしいと訳者のアンドレアス・ニーハウスさんが言っていると,西谷さんから,この間の水曜日に聞いた。早速,ニーハウスさんとメールで連絡をとる。西谷さんのことをコンパクトに紹介してほしいとのこと。なるほど,納得。でも,これがむつかしいのだ。だらだらと書けばいくらでも書ける。が,余分なことを切り捨てて,肝心要のところをピンポイントで指摘するのは至難の業だ。
よし,とこころを決めて,太極拳のひとり稽古をし,汗をびっしょりかき,シャワーを浴びて,すっきりしたところで机に向う。不思議なことに,あっという間に書き上げる。一晩寝かせて,明日,もう一度,推敲すればたぶんOK。西谷さんも言っていたが,この重苦しいご時世に,ようやく雲間に太陽が顔をみせた,と。わたしも,こんな名誉なことはないとばかりに,その雲間に便乗して,お裾分けをいただく。
ちょっと,いい気分になってきたので,明日からまた気を取り直して,一気に推敲作業を進めることにしよう。今日の黄砂も明日には通過していてくれるだろう。それを期待することにして。いまは,前を向いて進むしかないのだ。日本国中,みんな。
1 件のコメント:
黄砂が降る日はいつも憂鬱です。景色は黄色っぽいし、洗濯物が干せないし…。
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