2013年7月23日火曜日

「スポーツ批評」ノート・その2.バタイユの『宗教の理論』が示唆するもの。

 すでに,これまで何回もこのブログで書いてきたように,「スポーツとはなにか」とわたしが問うときの思考の源泉はジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』にある。もちろん,『宗教の理論』を読み込むためには,バタイユの他の著作はもとより,『バタイユ伝』などという伝記を筆頭に,西谷修などのバタイユ研究者の論考などは不可欠の文献である。

 これらの文献の詳細については,このブログで検索していただければ,ほとんどすべて確認することができるとおもう。また,活字で確認されたい方には,『スポートロジイ』の創刊号と第2号に,ブログに書いた論考のなかから抜粋して「研究ノート」として掲載しているので,そちらを活用していただきたい。

 もうひとこと付け加えておけば,『宗教の理論』と『呪われた部分 有用性の限界』はある意味でセットになっているので,併せて参照していただきたい。

 その上で,『宗教の理論』から導き出される「スポーツ批評」のポイントについて,ここでは触れておきたい。

 まず,第一点は,「スポーツとはなにか」と問うことが「スポーツ批評」の原点にある,とわたしは考えている。しかも,この場合の「スポーツとはなにか」という問いは,その根底に「生身の生きる人間にとって,スポーツとはなにか」という根源的な問いをふくんでいる。その問題意識が,このブログのタイトルにもなっている。すなわち,「スポーツ・遊び・からだ・人間」というキー・ワードの羅列はこのことを強く意識してのものである。つまり,「人間とはなにか」という普遍のテーマから出発し,「スポーツとはなにか」に至り,ふたたび「人間とはなにか」というテーマに回帰してくるものだ,と考えるからである。

 その点で,『宗教の理論』は,まさに,ヒトが人間になる,そのときになにが起きたのかについての深い洞察からはじまる。だから,わたしの思考を展開する上では格好のテクストなのである。バタイユはそのこと(ヒトから人間になること)を<横滑り>という概念でくくる。そして,この<横滑り>によって出現した人間の困難から語りはじめる。その困難とは,人間は,ヒトの時代の「動物性」をひきずりながら人間としての「人間性」を生きなくてはならない,まさに「宙づり」状態を生きることを余儀なくされた困難である。そして,その困難は,いまを生きるわたしたちの困難でもある。

 この困難との葛藤のなかから,人間は人智を超越する存在に気づき,それへの「祈り」をささげるようになる,とする。そして,その「祈り」の形態のひとつが「舞い踊り」であり,「スポーツ的なるもの」(これはわたしの命名)ではないか,とバタイユは示唆している(ようにわたしは読み取る)。別の言い方をすれば,ヒトと人間との境界領域に出現する文化のひとつの形態が,わたしの考える「スポーツ的なるもの」だということになる。もっと踏み込んでおけば,全体重を人間性の世界だけに依拠して生きていくことに困難や行き詰まりを感じた人間は,どこかで動物性の世界へと回帰したい衝動に駆られることになる。そして,その衝動を実現させる場として祝祭という時空間が創出される。言ってしまえば,祝祭とは,抑圧され鬱積した人間の動物性への回帰願望を表出させる場である,ということになろうか。

 このように考えてくると,「スポーツ的なるもの」の<始原>もまたこの祝祭的な時空間のなかに求めることができる。だとすれば,スポーツの<始原>は,人間の動物性への回帰願望を実現するところにあった,と考えることができる。ここが,わたしの「スポーツ批評」の原基となる。

 しかし,<横滑り>を起こした人間は,やがて,文化や文明をわがものとするようになる。それは,同時に動物性からの乖離を意味することになる。近代に入ると,人間の内なる動物性をいかにして抑制し,隠蔽・排除していくかということが大きなテーマとなる。つまり,人間の内なる動物性(呪われた部分)を近代社会の定める「法律」(スポーツでいえばルール)によってコントロールすることになる。近代スポーツ競技の誕生の背景にはこうした根源的な自己矛盾が内蔵されている。この問題と真っ正面から向き合うこと,これがわたしの「スポーツ批評」の当面の課題となる。

 こうして,人間は呪われた部分,すなわち,内なる動物性を封じ込めることをとおして,みずからをも「事物化」させる道をたどることになる。そのきっかけとなったのは,人間にとって都合のいいように(役立つように,つまり,有用性にもとづいて)動物を飼育したり,植物を栽培することによって周囲の自然存在を「事物化」したことにはじまる。こうして,本来,自然存在であったはずの人間もまた,動物や植物と同じように「事物化」していく。その究極の姿のひとつが,ドーピングされるアスリートたちの身体である。つまり,スポーツをするために「飼育」された人間の身体である。

 バタイユは,こうしたことを見据えた上で,「有用性の限界」という指標を提示する。そして,その根源にあるものは経済についての考え方の誤りである,と指摘する。たとえば,資本主義経済ではなく贈与経済に注目する。そのための哲学的な根拠として「消尽」という概念を提示する。自然現象の根源にある機能はすべて「消尽」による,と。この「消尽」を「有用性」の考え方で絡め捕り,文化・文明の管理下におくことには「限界」がある,と主張する。こうしたバタイユの主張はそのまま,こんにちのわたしたちが当面している近代スポーツ競技の管理・運営に内蔵される諸矛盾にも当てはまるのではないか,とわたしは考える。

 と同時に,バタイユのいう「消尽」こそが,「スポーツ的なるもの」の源泉になっている,とわたしは考える。したがって,スポーツ文化を,もう一度,バタイユのいう「消尽」の次元まで遡って,とらえ直すことが喫緊の課題である,と位置づける。すなわち,<現代>の「スポーツ批評」はここまで触手をのばすことが求められているのである。そして,ここが<近代>の「スポーツ批評」と袂を分かつ,最大のポイントである,と考える。

 以上が,とりあえず,バタイユの『宗教の理論』が示唆するものとして指摘しておきたかった主要なポイントである。大方のご批判をいただければ,幸いである。

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