2013年7月20日土曜日

高橋健夫君の死を悼む。よく頑張った,と遺影に。

 希代のプレイ・ボーイ。才能豊にのびのびと人生を謳歌した君。なにをやっても一流だった君。素晴らしい人生だったではないか。ひとは「早すぎる」と言う。しかし,ひとの3倍もの仕事をこなしてきたのだから,これはこれで仕方がないとわたし。「よく頑張った」,ほんとうに「よく頑張った」と遺影に向かって声をかける(19日(金)午後6時~,通夜式)。

 でも,ホンネを言えば,わたしよりも若い人がさきに逝くのは許せない。いまの時代,少なくとも80歳までは生きていてほしかった。そして,余生の馬鹿話のひとつもともに楽しんでみたかった。その最良の話し相手をうしなった。残念の極みである。

 思い返せば,走馬灯のように,さまざまなことが蘇ってくる。そのうちのひとつ,ふたつを,全国に散らばっている高橋健夫ファンに伝えておきたい。

 君は大阪大学を振り出しに,奈良教育大学,筑波大学,日本体育大学で,それぞれ大きな足跡を残した。わたしも,じつは,君の後追いのようなかたちで,大阪大学から奈良教育大学へと移った。そして,奈良教育大学では約10年間,同僚として,若き良き時間をともに過ごした。この時代は,いま振り返ってみても,まことに密度の濃い時間だったとしみじみおもう。お互いにとてもいい意味で牽制し合い,切磋琢磨していた。

 そんな時代のひとこまを。午後5時を過ぎると,テニスをやろう,と君はわたしを誘った。わたしにテニスを教えてくれたのも君だった。終って研究室にもどると,こんどは大先輩のN教授から「ちょっとだけビールを飲みにきなさい」と電話。もちろん,高橋君も一緒。そこにひとり,ふたりと学生たちも加わる。N教授のお話をしばらくは拝聴しているのだが,途中から九州弁がつよくなり,なにを言っているのかわからなくなる。退屈なので,高橋君とわたしはふたりで,当時の体育界の著名な偉い先生をひとりずつ俎上にあげて,徹底的に批判をはじめていた。しばらくその話を聞いていたN教授が,突然大きな声で「お前らはなにを偉そうなことを言っているのか。まるで天下国家をとったような話をしおって・・・。生意気だッ!」と怒鳴る。わたしもビールの勢いを借りて「生意気でなかったら生きてはいけません。天下国家をとるくらいの気概をもつことは悪いことではありません」とやり返す。さすがのN教授も開いた口が塞がらないという顔。そのあと,わたしと高橋君はふたりで顔を見合わせて「いつか,かならず天下国家をとるつもりだもんね」と固い約束。

 それ以前も以後も,お互いに,おれがやってやるという野心を胸の奥深くに秘めて,密かに猛烈な勉強をしていた。それは,お互いのほんの短い会話ですぐにわかった。たとえば,テニスをやっている最中でも,チェンジ・コートでスレ違いざまに「やっぱり,ヘーゲルを読まなきゃ駄目ですよね」と言ったりする。わたしの方は,ライジング・ボールをどこまで前にでて打つことができるか,と必死になって考えているときに。じつは,その当時,内緒でわたしはヘーゲルの『精神現象学』と格闘していた。そのことが,だれか学生から伝わったらしい。びっくりして,かれのの眼を見据えてしまう。そうなると,わたしは,もはや,テニスどころではなくなってしまう。でも,かれはテニスはテニス,ヘーゲルはヘーゲルと,瞬時に頭を切り替える才能をもっていた。わたしは,分裂症的才能と名づけていた。つまり,頭の切り替えがじつに早いのである。わたしは,ひとつのことをのんびりといつまでもいつまでも考えつづける粘着質的性質。だから,このふたりはぶつかることがない。

 わたしが50歳になろうとするとき,待ちに待った在外研究員の順番がまわってきて,ウィーン大学に遊学する。高橋君が45歳だったと記憶する。そのときに,ウィーンの自宅に高橋君から電話が入る。なにごとが起きたのかとびっくりする。話を聞いてみると,筑波大学からお誘いがきているが・・・,という。わたしは即座に「君の夢が叶うことなのだから,行きなさい。その代わり,天下国家に向かって号令をする人間になる,と約束してくれ」「約束はともかくとして,頑張ります」とかれ。帰国後,漏れ伝わってきた話によれば(虚実は不明),「稲垣がいない間に高橋を筑波に引き抜け」という密談があったとか,なかったとか。それを聞いて,なんと器の小さな人間とわたしが見られていたことか,とそのことを恥じた。よし,高橋君がいよいよ天下に向かって号令を発することになった。ならば,わたしは研究者としてその名を残す人間になろう,と決意。

 以前にもまして勉強に熱が入った。フランス現代思想の勉強に急激に傾斜していったのが,ちょうどこのころだった。研究者としてのスタンスを明確にし,高橋君がめざす道とは完全に袂を分かつことになった。その後の君は素晴らしい活躍ぶりをみせてくれた。『体育科教育』には毎号のように原稿を投じ,現場の体育教師に向かって進むべき道筋を提示しつづけるようになった。奈良から眺めていて爽快だった。よし,これでいい,と。

 しかし,義理堅い高橋君は,わたしのためにも『体育科教育』に原稿を書くチャンスを何回もつくってくれた。まあ,わたしが希代のプレイ・ボーイと高橋君のことを呼ぶ,その気配り,心遣いの細やかさが,こんなところにも発揮されていたのである。以後,直接,議論をすることはなかったが,折にふれ電話での相談はあった。それとなくわたしの仕事も遠くから見守っていてくれたのである。これがタケチャンマンの本性なのだ。

 わたしが60歳を迎えるときに,日本体育大学から,大学院博士課程を増設するので,来てほしいというお誘いがあった。そのときの条件は,大学院の授業だけやればいい,というものだった。わたしの夢の実現である。ならば,と勇んで日体大に移る。一年の準備期間をおいて博士課程がスタート。日体大での10年間は,こんにちのわたしの研究者としてのスタンスを確立する上で,かけがえのない濃密な時間であった。いい意味でも,悪い意味でも。

 ご縁というものは不思議なものである。わたしが定年で日体大を辞める一年前に,高橋君が大学院のスタッフとして着任。断っておくが,わたしが声をかけたわけではない。まったく別の力学がはたらいての人事だった。だから,たった一年だけ,日体大の同僚として過ごすことになった。でも,かれの忙しさを目の当たりにして,これはたいへんだと直感した。いかに頭の切り替えが早いとはいえ,それなりの責任のある地位で(たとえば,文部科学省の仕事),一定の成果を残していかなくてはならない。これではからだがいくつあってももたない。だから,わたしは仕事の量を少し減らした方がいい,と助言したこともある。でも,お人好しのかれは頼まれると断ることができない。それ以外にも,困った人がいれば全力で助けようとする。立派なものだ,と感心していた。あとは,からだがどこまでもつか,ただその一点のみ。

 だから,「よく頑張った」のひとことを遺影に向けて語りかけるのが,わたしとしては精一杯のことだった。あとは,浄土の世界でのびのびと羽を休めてください,と。でも,いらっちの君のことだ。一時もじっとしていることなく,あちこち駆け回っていることだろう。でも,それも仕方のないこと。それが面白くて仕方がないのだから。

 君がわたしに言ったことばを思い出す。「ぼくは商人の子だから,カメレオン的適応をして,だれにも好かれるように応対するように生まれついている。先生は,禅寺の坊主の子だから,来るものは拒まず,去るものは追わず,と淡々としていればいい。そして,言うべきことだけを言う,そういう生まれつきですね。」これはまことに言いえて妙。そうか,そんな風に考えていたのか,とそれを聞いたときはそうおもった。いま考えてみると,そこにはもっと深い意味が隠されているのだが・・・・。でも,基本的にはとてもうまい表現だとおもう。

 このブログがエンドレスになりはじめている。
 このあたりでとりあえず,終わりにしておく。
 また,折に触れて思い出すこともあるだろう。そのときに,追加をしていきたいとおもう。

 高橋健夫君,浄土の世界で安らかにお過ごしください。いずれ,わたしも参ります。そのときには現世よりももっと楽しいことをしましょう。それまで待っていてください。

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