しばらく前の太極拳のあとの昼食のときに,Nさんが,どんな文脈だったかは定かではないのてすが,パスカルの<気晴らし>の話をされました。あまり精確ではありませんが,おおよそ「人間はどこかで気晴らしをしないと生きてはいけない生き物なんですよ」と,かなりシニカルな言い方をされたように思います。その上で「だから,人間は救われもするし,安易に<気晴らし>にふけって隘路に落ちこむ危険もはらんでいるんですよ」と。その話をお聞きしたときには,「そうなんですよね」と納得していたはずなのに,それ以後,わたしの頭のなかでひっかかるものがあって,それとなく考えていました。
といいますのも,もうずいぶん前の話になりますが,わたしもパスカルの『パンセ』をかなり真剣に読んで,そこに一貫してながれているパスカルの<気晴らし>と<賭け>のことを考えたことがあるからです。そして,その当時,ある雑誌に連載していた「文学にみるスポーツ」でとりあげ,何回かに分けて原稿を書いたことがあります。そのときの原稿に,さらに手を加えたもの(ほとんど全部を書き直したもの)を,拙著『評論文学のなかにスポーツ文化を読む』(叢文社,2003年)に収めました。かなり長い論考となっていますので,参照していただければ幸いです。
このときも,正直に告白しておけば,自分のなかで完全には消化できていなくて,パスカルの真意をはかりかねていました。なぜなら,パスカルのいう<気晴らし>の概念は,ごくふつうの日本語として巷間に用いられているそれとは明らかに異なるからです。もちろん,<気晴らし>ということばの大意においては違いはありません。しかし,このことばをそのまま是として容認するか,そこにこそ人間を理解する上での大きな哲学的な問題が存在すると考えるか,という大きな違いがその背景にはあります。
もう少し踏み込んでおけば,アメリカの占領政策の一貫として「レクリェーション」という考え方が敗戦後の日本に導入されました。つまり,労働者が「リ・クリエイト」(recreate)するための余暇活動として,最初は企業に持ち込まれました。それは,厳しい労働から解放された時空間のなかで<気晴らし>をし,ふたたび労働に従事するための文化装置として歓迎された,という経緯があります。つまり,<気晴らし>は,レクリェーションということばとなって日本の社会のなかに浸透していくことになりたました。わたしは,その当時から,どこか違うのではないか,どうもすっきりしない,という疑問をもちつづけていました。
その疑問が,Nさんの話をきっかけに,ふたたびわたしのなかで頭をもたげてきていました。ちょうどそんなとき,藤田正勝さんの『哲学のヒント』(岩波新書)に出会いました。最近,でたばかりの,いわゆる哲学の入門書です。が,この本はとてもよくできていて,いまのわたしにはちょうどいいテクストになっていました。ですから,なるほど,なるほど,と思いながら読んでいたところに,ひょいとパスカルの<気晴らし>の問題が取り上げられていました。とてもわかりやすくて,すんなり納得です。ですから,すっきりとわたしのなかの疑問が瓦解しました。
藤田正勝さんは,西田幾多郎の研究者として,わたしにはある程度なじみがありました。この『哲学のヒント』のなかでも,しばしば,西田幾多郎の考え方を引き合いに出して(とくに,純粋経験と行為的直観の話),話が展開していきますので,それもわたしにはとても助かりました。
さて,パスカルの<気晴らし>。
人間は,死と不幸と無知を癒すことができなかったので,幸福になるために,それらのことについて考えないことにした。
と,パスカルは『パンセ』のなかで述べています。
死のことを考えることは怖いし,不幸のことは考えたくないし,無知であることなど知りたくもない,それらから遠ざかって幸福になるためには,それらについて「考えない」ことだ,というわけです。ですから,これらの問題を忌避するために,手っとり早い方法は,気を紛らすこと,すなわち,<気晴らし>(divertissement)をすればいいというのです。
藤田さんによれば,パスカルはこの<気晴らし>ということばをとても広い意味で用いた,といいます。そして,つぎのように述べています。
パスカルにおいてこの「気晴らし」という言葉は,非常に広い意味で使われています。仕事のあとの遊びや賭け事のような,文字どおりの気晴らしから,政治や戦争のようなことまでも,すべてひっくるめてパスカルは「気晴らし」という言葉で表現しました。人間が「気晴らし」に身を投じるのは,一人何もしないでいれば,必然的に自分自身に向きあい,自己を直視しなければならないからです。いまも言いましたように,それは非常に恐ろしいことです。
「気晴らし」は確かに一時的には「幸福」をもたらしてくれます。しかし「気晴らし」は,決して本当の意味での解決ではないとパスカルは言います。むしろそれは「不幸」だ,というように述べています。
として,こんどはパスカルの文章を引いています。
われわれの惨めなことを慰めてくれるただ一つのものは,気を紛らすことである。しかしこれこそ,われわれの惨めさの最大なものである。なぜなら,われわれが自分自身について考えるのを妨げ,わほれわれを知らず知らずのうちに滅びに至らせるものは,まさにそれだからである。
そして,藤田さんは,つぎのように締めくくります。
何も確実なものを手にすることなく死に至ることほど大きな悲惨はないと言うのです。パスカルは『パンセ』のなかでつねにこの問題と向きあっていたのではないでしょうか。
ここまで読んだときに,Nさんが仰ったことの真意が,すとんと伝わってきました。こういうことなのだ,と。Nさんの仰る「思考停止」は,一種の<気晴らし>ではないか,と。いやなことには眼を瞑り,一時的な享楽に耽る。つまり,「思考停止」とはたんなる「自己逃避」にすぎないではないか,と。そのために<気晴らし>はおおいに有効である,と。しかし,それはほんとうの意味での解決にはいたらない,一時的なみせかけの「幸福」にすぎないから,最終的には「不幸」になる,と。
いま,わたしたちをとり囲む環境世界は,うすっぺらな「幸福」を売る文化装置に満ちあふれています。ですから,なんとなく楽しいと感じ,「幸福」だと勘違いする人が,圧倒的多数を占めています。そのための装置として,茶の間にまで侵入して,大いなる貢献をしているのがほかならぬテレビです。まともにものごとを考える番組はほとんどありません。みんな一時しのぎの娯楽番組ばかりです。こうして,国民の圧倒的多数の「思考」を「停止」させるために大活躍というわけです。
このことにも気づかないで,「テレビがこう言っていた」を金科玉条のように信じている人がなんと多くなってきていることか。最近では,お笑い芸人がネタで言っていることまでも信じてしまう人がでてくる始末。しかも,かなりのインテリです。もちろん,「思考停止」したインテリです。マックス・ウェーバーが予言したとおり,「知的精神をもたぬ専門家」が,ここにきて続出です。
みんな現実を逃避して,<気晴らし>にうつつを抜かし,つかのまの「幸福」に耽っているようです。その現れのひとつが,アベノミックス支持の70%です。恐ろしいことが脈々と進行していきます。恐ろしい世の中になってきました。
まずは,自由民主党憲法改正草案を手にとって,じっくり読むことからはじめるしかありません。そして,少しでも多くの人とこの改正案(実際は改悪案ですが)について意見を交わす必要があります。できることなら,この政治ゲームをこそ<気晴らし>にしてみたいものです。
といいますのも,もうずいぶん前の話になりますが,わたしもパスカルの『パンセ』をかなり真剣に読んで,そこに一貫してながれているパスカルの<気晴らし>と<賭け>のことを考えたことがあるからです。そして,その当時,ある雑誌に連載していた「文学にみるスポーツ」でとりあげ,何回かに分けて原稿を書いたことがあります。そのときの原稿に,さらに手を加えたもの(ほとんど全部を書き直したもの)を,拙著『評論文学のなかにスポーツ文化を読む』(叢文社,2003年)に収めました。かなり長い論考となっていますので,参照していただければ幸いです。
このときも,正直に告白しておけば,自分のなかで完全には消化できていなくて,パスカルの真意をはかりかねていました。なぜなら,パスカルのいう<気晴らし>の概念は,ごくふつうの日本語として巷間に用いられているそれとは明らかに異なるからです。もちろん,<気晴らし>ということばの大意においては違いはありません。しかし,このことばをそのまま是として容認するか,そこにこそ人間を理解する上での大きな哲学的な問題が存在すると考えるか,という大きな違いがその背景にはあります。
もう少し踏み込んでおけば,アメリカの占領政策の一貫として「レクリェーション」という考え方が敗戦後の日本に導入されました。つまり,労働者が「リ・クリエイト」(recreate)するための余暇活動として,最初は企業に持ち込まれました。それは,厳しい労働から解放された時空間のなかで<気晴らし>をし,ふたたび労働に従事するための文化装置として歓迎された,という経緯があります。つまり,<気晴らし>は,レクリェーションということばとなって日本の社会のなかに浸透していくことになりたました。わたしは,その当時から,どこか違うのではないか,どうもすっきりしない,という疑問をもちつづけていました。
その疑問が,Nさんの話をきっかけに,ふたたびわたしのなかで頭をもたげてきていました。ちょうどそんなとき,藤田正勝さんの『哲学のヒント』(岩波新書)に出会いました。最近,でたばかりの,いわゆる哲学の入門書です。が,この本はとてもよくできていて,いまのわたしにはちょうどいいテクストになっていました。ですから,なるほど,なるほど,と思いながら読んでいたところに,ひょいとパスカルの<気晴らし>の問題が取り上げられていました。とてもわかりやすくて,すんなり納得です。ですから,すっきりとわたしのなかの疑問が瓦解しました。
藤田正勝さんは,西田幾多郎の研究者として,わたしにはある程度なじみがありました。この『哲学のヒント』のなかでも,しばしば,西田幾多郎の考え方を引き合いに出して(とくに,純粋経験と行為的直観の話),話が展開していきますので,それもわたしにはとても助かりました。
さて,パスカルの<気晴らし>。
人間は,死と不幸と無知を癒すことができなかったので,幸福になるために,それらのことについて考えないことにした。
と,パスカルは『パンセ』のなかで述べています。
死のことを考えることは怖いし,不幸のことは考えたくないし,無知であることなど知りたくもない,それらから遠ざかって幸福になるためには,それらについて「考えない」ことだ,というわけです。ですから,これらの問題を忌避するために,手っとり早い方法は,気を紛らすこと,すなわち,<気晴らし>(divertissement)をすればいいというのです。
藤田さんによれば,パスカルはこの<気晴らし>ということばをとても広い意味で用いた,といいます。そして,つぎのように述べています。
パスカルにおいてこの「気晴らし」という言葉は,非常に広い意味で使われています。仕事のあとの遊びや賭け事のような,文字どおりの気晴らしから,政治や戦争のようなことまでも,すべてひっくるめてパスカルは「気晴らし」という言葉で表現しました。人間が「気晴らし」に身を投じるのは,一人何もしないでいれば,必然的に自分自身に向きあい,自己を直視しなければならないからです。いまも言いましたように,それは非常に恐ろしいことです。
「気晴らし」は確かに一時的には「幸福」をもたらしてくれます。しかし「気晴らし」は,決して本当の意味での解決ではないとパスカルは言います。むしろそれは「不幸」だ,というように述べています。
として,こんどはパスカルの文章を引いています。
われわれの惨めなことを慰めてくれるただ一つのものは,気を紛らすことである。しかしこれこそ,われわれの惨めさの最大なものである。なぜなら,われわれが自分自身について考えるのを妨げ,わほれわれを知らず知らずのうちに滅びに至らせるものは,まさにそれだからである。
そして,藤田さんは,つぎのように締めくくります。
何も確実なものを手にすることなく死に至ることほど大きな悲惨はないと言うのです。パスカルは『パンセ』のなかでつねにこの問題と向きあっていたのではないでしょうか。
ここまで読んだときに,Nさんが仰ったことの真意が,すとんと伝わってきました。こういうことなのだ,と。Nさんの仰る「思考停止」は,一種の<気晴らし>ではないか,と。いやなことには眼を瞑り,一時的な享楽に耽る。つまり,「思考停止」とはたんなる「自己逃避」にすぎないではないか,と。そのために<気晴らし>はおおいに有効である,と。しかし,それはほんとうの意味での解決にはいたらない,一時的なみせかけの「幸福」にすぎないから,最終的には「不幸」になる,と。
いま,わたしたちをとり囲む環境世界は,うすっぺらな「幸福」を売る文化装置に満ちあふれています。ですから,なんとなく楽しいと感じ,「幸福」だと勘違いする人が,圧倒的多数を占めています。そのための装置として,茶の間にまで侵入して,大いなる貢献をしているのがほかならぬテレビです。まともにものごとを考える番組はほとんどありません。みんな一時しのぎの娯楽番組ばかりです。こうして,国民の圧倒的多数の「思考」を「停止」させるために大活躍というわけです。
このことにも気づかないで,「テレビがこう言っていた」を金科玉条のように信じている人がなんと多くなってきていることか。最近では,お笑い芸人がネタで言っていることまでも信じてしまう人がでてくる始末。しかも,かなりのインテリです。もちろん,「思考停止」したインテリです。マックス・ウェーバーが予言したとおり,「知的精神をもたぬ専門家」が,ここにきて続出です。
みんな現実を逃避して,<気晴らし>にうつつを抜かし,つかのまの「幸福」に耽っているようです。その現れのひとつが,アベノミックス支持の70%です。恐ろしいことが脈々と進行していきます。恐ろしい世の中になってきました。
まずは,自由民主党憲法改正草案を手にとって,じっくり読むことからはじめるしかありません。そして,少しでも多くの人とこの改正案(実際は改悪案ですが)について意見を交わす必要があります。できることなら,この政治ゲームをこそ<気晴らし>にしてみたいものです。
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