2月10日(日)・11日(月),二日つづけて山口香さんのインタヴュー記事を『毎日新聞』が報じています。7日の『朝日』,9日の『読売』につづく『毎日』のインタヴュー記事です。これで三役揃い踏み,といった感じです。
これらの報道をとおして,はからずも新聞社の姿勢というか,取材した記者の実力というか,そういうものが露呈したという点でとても面白い記事でした。ひとことだけ,わたしの感想を書いておけば,最初だったということもあってか,『朝日』の記事がもっとも鮮烈で強烈なインパクトがありました。ついで,『毎日』。ここは無難に,しかし,かなり踏み込んで山口さんの主張を受け止めている姿勢がつたわってきました。『読売』は,残念なことに,もうすでに記憶がない程度の内容でした。断っておきますが,これはあくまでもわたしの個人的な感想にすぎません。
『朝日』の記事に関するわたしの感想は8日のブログに書いたとおりです。かつての「女三四郎」の面目躍如といった切れ味抜群の発言内容に,こころから賛同し,全面的に支持したいというわたしの意志表明をしたものでした。で,今日(11日)は,『毎日』のなかに取り上げられていた山口さんの発言内容に注目してみたいと思います。なかでも,つぎの発言に,わたしの考えていることと大いに共鳴・共振するものがありましたので,それを取り上げてみたいと思います。まずは,その部分の引用から。
欧州ではスポーツで何を学んでいるかといえば,自律です。やらされるとか,指導者が見ている,見ていないとかではなく,ルールは自分の中にあります。ゴルフがいい例で,スコアはセルフジャッジ。ラグビーやテニスも近くに監督はいません。自律と自立を併せ持つ人づくりにスポーツが有用とされており,それこそ成熟したスポーツと言えます。
この中での,とりわけ,「自律と自立を併せ持つ人づくりにスポーツが有用とされており,それこそ成熟したスポーツと言えます」のくだりが,わたしのこころにいたく響いてきました。
理由はかんたんです。2月4日のブログ「スポーツ界は挙げて『スポーツ的自立人間』の育成をめざそう」に書いたとおりです。このときのブログに少しだけ補足をさせていただきますと,以下のとおりです。
いまから35年ほど前に「スポーツ的自立人間」という考え方に行きついたとき,わたしは,最初のうちは「スポーツ的自律人間」ということばを用いていました。まずは,「みずからを律することのできる人間」をめざすべきだ,と考えての造語でした。しかし,なかなか周囲に浸透していきません。その理由は,「スポーツ的自律人間」と言ったときの具体的なイメージがつかみにくい,というところにありました。そこで,では「スポーツ的自立人間」ではどうかと提案してみましたところ,この方がわかりやすいということになり,以後,こちらを用いることにしました。
しかし,精確にいえば,「自立」するためには,みずからを律するこころの力,すなわち「自律心」が不可欠の前提条件になります。ですから,わたしが「スポーツ的自立人間」と言うときには,「自律心」をもった「自立人間」という意味を籠めていました。
このあたりのことを,山口さんはしっかりと認識していらっしゃって,「自律と自立を併せ持つ人間」という表現をされています。ですから,わたしはすっかり嬉しくなって,「この人はわかっている人だ」とこころのうちで快哉を叫びました。さすがは,「女三四郎」の異名をとるだけのことはある,と。ふつうのアスリートたちとはレベルが違う,と。みえている世界が違う,と。
そうなんです。すぐれたトップ・アスリートは,やはり,ふつうのレベルをはるかに超えた世界に突き抜けています。その世界こそが,「自律と自立を併せ持つ人間」の世界です。スポーツの目的はここに到達することにある,と山口さんは断言しています(『朝日新聞』のインタヴューのなかで)。
もちろん,トップ・アスリートでなくても,「自律と自立を併せ持つ人間」に到達しているアスリートもたくさんいます。この世界をスポーツをとおして経験し,体得した人間は,どの世界にいっても通用する,という次第です。
これと同じことをドイツの哲学者ハンス・レンクも言っています。かれはみずからの著作の多くのところでこのことを強調しています。かれ自身もオリンピック・ローマ大会の折にボートの選手として金メダルを獲得するトップ・アスリートのひとりでした。のちに,哲学の道に進み,大成しました。
山口さんのいう「自律と自立を併せ持つ人間」を,そして,わたしのことばで言えば「スポーツ的自立人間」を,こういう人間の育成を目的とするスポーツ文化の確立に,いまこそ,舵を切るときではないか,と声を大にして言っておきたいと思います。
わたしが5年前に設立した「21世紀スポーツ文化研究所」は,この「スポーツ的自立人間」の育成をめざす,新しい,「21世紀のスポーツ文化」の確立をめざしたいと考えています。ご支援のほどをよろしくお願いいたします。
これらの報道をとおして,はからずも新聞社の姿勢というか,取材した記者の実力というか,そういうものが露呈したという点でとても面白い記事でした。ひとことだけ,わたしの感想を書いておけば,最初だったということもあってか,『朝日』の記事がもっとも鮮烈で強烈なインパクトがありました。ついで,『毎日』。ここは無難に,しかし,かなり踏み込んで山口さんの主張を受け止めている姿勢がつたわってきました。『読売』は,残念なことに,もうすでに記憶がない程度の内容でした。断っておきますが,これはあくまでもわたしの個人的な感想にすぎません。
『朝日』の記事に関するわたしの感想は8日のブログに書いたとおりです。かつての「女三四郎」の面目躍如といった切れ味抜群の発言内容に,こころから賛同し,全面的に支持したいというわたしの意志表明をしたものでした。で,今日(11日)は,『毎日』のなかに取り上げられていた山口さんの発言内容に注目してみたいと思います。なかでも,つぎの発言に,わたしの考えていることと大いに共鳴・共振するものがありましたので,それを取り上げてみたいと思います。まずは,その部分の引用から。
欧州ではスポーツで何を学んでいるかといえば,自律です。やらされるとか,指導者が見ている,見ていないとかではなく,ルールは自分の中にあります。ゴルフがいい例で,スコアはセルフジャッジ。ラグビーやテニスも近くに監督はいません。自律と自立を併せ持つ人づくりにスポーツが有用とされており,それこそ成熟したスポーツと言えます。
この中での,とりわけ,「自律と自立を併せ持つ人づくりにスポーツが有用とされており,それこそ成熟したスポーツと言えます」のくだりが,わたしのこころにいたく響いてきました。
理由はかんたんです。2月4日のブログ「スポーツ界は挙げて『スポーツ的自立人間』の育成をめざそう」に書いたとおりです。このときのブログに少しだけ補足をさせていただきますと,以下のとおりです。
いまから35年ほど前に「スポーツ的自立人間」という考え方に行きついたとき,わたしは,最初のうちは「スポーツ的自律人間」ということばを用いていました。まずは,「みずからを律することのできる人間」をめざすべきだ,と考えての造語でした。しかし,なかなか周囲に浸透していきません。その理由は,「スポーツ的自律人間」と言ったときの具体的なイメージがつかみにくい,というところにありました。そこで,では「スポーツ的自立人間」ではどうかと提案してみましたところ,この方がわかりやすいということになり,以後,こちらを用いることにしました。
しかし,精確にいえば,「自立」するためには,みずからを律するこころの力,すなわち「自律心」が不可欠の前提条件になります。ですから,わたしが「スポーツ的自立人間」と言うときには,「自律心」をもった「自立人間」という意味を籠めていました。
このあたりのことを,山口さんはしっかりと認識していらっしゃって,「自律と自立を併せ持つ人間」という表現をされています。ですから,わたしはすっかり嬉しくなって,「この人はわかっている人だ」とこころのうちで快哉を叫びました。さすがは,「女三四郎」の異名をとるだけのことはある,と。ふつうのアスリートたちとはレベルが違う,と。みえている世界が違う,と。
そうなんです。すぐれたトップ・アスリートは,やはり,ふつうのレベルをはるかに超えた世界に突き抜けています。その世界こそが,「自律と自立を併せ持つ人間」の世界です。スポーツの目的はここに到達することにある,と山口さんは断言しています(『朝日新聞』のインタヴューのなかで)。
もちろん,トップ・アスリートでなくても,「自律と自立を併せ持つ人間」に到達しているアスリートもたくさんいます。この世界をスポーツをとおして経験し,体得した人間は,どの世界にいっても通用する,という次第です。
これと同じことをドイツの哲学者ハンス・レンクも言っています。かれはみずからの著作の多くのところでこのことを強調しています。かれ自身もオリンピック・ローマ大会の折にボートの選手として金メダルを獲得するトップ・アスリートのひとりでした。のちに,哲学の道に進み,大成しました。
山口さんのいう「自律と自立を併せ持つ人間」を,そして,わたしのことばで言えば「スポーツ的自立人間」を,こういう人間の育成を目的とするスポーツ文化の確立に,いまこそ,舵を切るときではないか,と声を大にして言っておきたいと思います。
わたしが5年前に設立した「21世紀スポーツ文化研究所」は,この「スポーツ的自立人間」の育成をめざす,新しい,「21世紀のスポーツ文化」の確立をめざしたいと考えています。ご支援のほどをよろしくお願いいたします。
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