2013年2月24日日曜日

11世紀・棺をかつぐ力士たち・中国遼寧省出土。

 月刊誌『SF(Sports Facilities)』(旧『月刊体育施設』)に隔月で連載しているシリーズの最新号を紹介します。題して「絵画にみるスポーツ施設の原風景」。今回は第24回目。出典は,図録『特別展 日中国交正常化40周年 中国王朝の至宝』(東京国立博物館,2012年)。

 これまで雑誌などに掲載された原稿をこのブログで紹介することはほとんどなかったのですが,今回は,いささか意図があって,とりあげておこうという次第です。断るまでもなく,「日中国交正常化40周年」を記念したイベントがあれこれ企画されていたのですが,それが一挙に消えてしまいました。たったひとつ,この企画だけはすでに「至宝」が日本に運び込まれていて,日本各地の博物館・美術館を巡回することが決まっていました。そんなわけで奇跡的にこの企画だけは実施されることになった,という次第です。

 この展覧会は,日本各地を巡回した最後,4月7日まで神戸市立博物館でみることができます。興味のある方はぜひご覧になってみてください。展示の素晴らしさはもとより,考古遺物が出土した中国の地方都市の現在の街の全景や,人びとの暮らしぶりが,各コーナーごとに上映されていて,これがわたしには強烈な印象となって残りました。なぜなら,中国の地方都市とはいえ,どこもかしこも日本の大都市とまったく遜色ありません。近代的な高層ビルが立ち並び,清潔な近代都市の街並みを,人びとは悠々と歩いています。中国はもはや立派な近代国家であって,わたしたちがイメージしている貧困にあえぐ僻地の農村はほんの一部でしかないということです。それを知っただけでも,この奇跡的に開催された展覧会の意味は十分にあったと思います。「日中国交正常化40周年」を寿ぐべき企画として,もっともっと多くのイベントが準備されていたのに残念でなりません。それらがすべて開催されていたら,わたしたち日本人の中国観も大いに変化したでしょうし,日中の関係ももっともっと親密になれたのに・・・・と。

 一昨年(2011年)の9月に,昆明から雲南省の山奥の古い街並みめぐりをしたときにも,その経済的発展に驚いたものです。まずは,あの山の中にある昆明が恐るべき大都会であることに度胆を抜かれました。翌日からの長時間かけてバスで山を越え,田園風景を走り,いわゆる観光旅行とは異なる,少数民族の人たちが多く住む土地を訪ねるという,とても地味な旅をしました。そこで眼にしたものは,中国はどこもかしこも建設ラッシュで,道路工事や鉄道建設が雲南省の山岳地帯で行われていた,という事実です。人びとはとても優しいことにも驚きました。最後に尋ねた北京は東京とどこも違いません。むしろ,道路の幅などは広く,よく整備されていて,車の数も多いのではないかとさえ思いました。

 わたしたち日本人は,中国に関する精確な情報を,ほとんど手にすることができません。なぜなら,日本のメディアが中国に関する偏見にみちた情報ばかりを流すからです。そのために,わたしたちもいつのまにか偏見だらけの中国観をもつはめになってしまうわけです。

 中国の良識ある人びとは,いまでも,きわめて冷静に日本をとらえています。そして,その子どもたちが日本に留学することになんのためらいもありません。その具体的な事例をわたし自身もいくつか知っています。市民レベルでは,いまも,お互いに信頼関係は崩れてはいません。それは「日中国交正常化40周年」という実績によるものです。その信頼関係を一挙に突き崩すような愚挙が,「棚上げ」になっていた尖閣諸島を,わざわざその約束を反故にして,突然の,しかも一方的な国有化宣言です。あきれはててものも言えません。そして,今日も,中国の船が領海を侵犯して入ってきた,とニュースが声高に報じています。日本が「だまし討ち」にしたことは,まるでなにもなかったかのように。それどころか,そんな約束はなかった,とまで言い切っています。ならば,「日中国交正常化40年」はいかにして可能だったのか,考えてみればすぐにわかることです。それすらも隠蔽して押し切ろうというのが,いまの日本の政府のやり方です。

 そんな気持ちが強くあるものですから,日中の文化交流の一端が,この険悪な情況のなかにあってなお,みごとに実行されていることは特筆に値すると考えています。本来ならば,メディアも,もっともっと大きくこの「中国王朝の至宝」展を報道するはずです。それすらも,日本のメディアは無視して,平然としています。

 そういう事態に対するアゲインストとして,わたしなりのやり方で,この連載を活用させてもらうことにしたという次第です。あっ,こんなことを書いてしまうと,この連載もストップされてしまうかもしれません。まさか,そんなことはないと信じていますが・・・・。

 さて,連載のテーマは「11世紀・棺を担ぐ力士・中国遼寧省出土」です。そして,この写真をかかげ,その下にかんたんな説明文を載せています。そのまま,転載しておきましょう。


 力士が棺を担ぐというイメージは,いまのわたしたちにはほとんどありません。しかし,時代を遡っていくと,なぜか,力士は葬送儀礼と深くかかわっていたということがわかってきます。これは洋の東西を問わず共通しています。力士は,ただ,相撲をとるだけではなく,相撲をとることによって鎮魂の役割もはたしていた,というのが実態だったようです。
 日本の古代では,野見宿禰がそうであったように,力士であると同時に葬送儀礼を取り仕切る専門職でもあったようです。天皇が亡くなると,お付きの者たちの多くが人身供犠として生き埋めにされるのが習わしになっていましたが,野見宿禰はそれに代えて埴輪を提唱しました。その埴輪のなかには力士埴輪もふくまれています。
 今回の図像は,中国遼寧省朝陽市から1992年に出土した10~11世紀の力士〇棺です。石製で,棺の大きさは縦55.5cm,幅16.5cmです。とても小さなものですので,火葬後の骨を納めたと考えられています。
 力士は上半身裸,下半身は短いパンツを穿き,長靴を履いて両手は腰帯(まわし)を掴んでいるように見えます。しかも,目を瞑って,深い瞑想のなかに入りこんでいるようにもみえます。
 詳しいことはわかっていませんが,力士は棺をかついで葬送の行列に加わり,その墳墓に棺を納めたあとに,相撲をとって鎮魂の儀礼を行ったようです。また,死後の法事の折にも相撲をとったのかもしれません。それらはすべて死者の鎮魂を目的としたものであったに違いありません。となれば,場所はいずれも墳墓や墓所の前の広場だった,ということになります。いわゆる奉納相撲です。
 この力士〇棺は,一種の骨壺ですので,力士もまた死者の骨と一緒に死後も連れ添い,死者の霊魂を守ったということを意味しています。となると,仏教的な慣習行動がこの地方にも広く普及していたということも意味します。

以上。

※この棺のなかに一刻も早く入ってもらいたい人がなんにんもいます。困ったものです。





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