「クレオールとは何か」という大きな文字の見出し語が躍る。そして,パトリック・シャモワゾー講演会in東京大学,とある。そして,かなり大きな写真が掲載されている。そのなかに,シャモワゾーを真ん中にして右側に西谷さん,左側に星埜さんが写っている。なんだか嬉しくなって,しばらく,この写真に見入っていた。
シャモワゾーという人の写真をしげしげと眺めるのはこんどが初めて。ああ,こんな顔をした人なのか,と納得。西谷さんはいつもよりご機嫌か,とても柔和な顔で写っている。その反対側には星埜さんがいつもの表情で写っている。
いつもの表情と書いたが,じつは,星埜さんはいつも同じような顔をしているからだ。無理して大まじめな顔をすることもなく,ごく,自然体で脱力された柔らかな笑顔である。ああ,こういうときも同じ顔だ,という意味で「いつもの表情」と書いた次第である。
というのは,星埜さんとは,一昨年の奄美自由大学(今福龍太主宰)で初めてお目にかかった。初日の入島式(これから奄美大島の島巡りをさせてもらいます,という島の神様に許可をいただく式。島には聖なる場所がここかしこにあるので,そこに行って主宰者のご挨拶があり,島巡りの予定表を書いたリーフレットと笛(いずれも今福さんのゼミ生さんたちの手製)を分けてもらって,いよいよ行動開始)のときに,わたしは初めての参加だったので,まずは,わたしの方から星埜さんに声をかけ,これこれの者ですと自己紹介をした。が,星埜さんは,いつものにこにこした顔をして「ああ,そうですか。星埜です。よろしく」と言ったきりなにも仰らない。あれっ,と思って少し考えた。ああ,そうか,星埜さんのことは知らない人がいないとお考えかも・・・と思って,勇気を奮い起こして「失礼ですが,どういうお仕事をなさっていらっしゃるのですか」と問う。すると「大学でフランス語を教えています」とだけ。わたしは知らないから,ああ,そうか,フランス語の先生なのだ,とだけ記憶にとどめた。あとは,まったく不明。そして,奄美自由大学でご一緒した三日間,いつも,どこにいても,にこにことした笑顔で,飄々と歩いていらっしゃる。不思議な存在感のある人だなぁ,とは思ったが,それ以上のことはわからない。
それっきりになっていた星埜さんが,突然,『週刊読書人』の一面トップの写真に現れたという次第。しかも,西谷さんと一緒だ。ええっ,と思って,急いで経歴を探した。そうしたら,東京大学教授とある。ふたたび,ええっ,である。人は見かけによらないもの。奄美大島で初めてお会いしたときには,どこで,なにをしていらっしゃる方かもわからないので,無精髭をのばしたどこかのおじさんだと思っていた。しかし,この写真をみると,いまも,その無精髭があるので,ああ,あれはおしゃれなんだと納得。そして,「クレオール」というところで西谷さんともつながっていることも納得。そうして,いまさらのように奄美自由大学に来られる人たちというのはたいへんな人たちばかりなのだ,とこれまた納得。わたしのような者がひょこひょこ顔を出していていいのだろうか,と考えてしまう。でも,今福さんから,来年また奄美で会いましょう,と言われると嬉しくなってまたいそいそとでかけてしまう。奄美大島という磁場のようなものがわたしを引きつけてやまない。なんなのだろう,あの島の発する雰囲気は。わたしが戦前の子ども時代に吸っていた空気と同じようなものをここかしこで感ずる。だから,いまでは完全に消え失せてしまった,わたしの子ども時代に味わった郷愁を感じ,懐かしくなるのだろう。そんな場で星埜さんとも出会った。そして,あの,ゆるい,なんともいえない味のあるにこにこした笑顔に。その笑顔を久し振りにこの『週刊読書人』で発見。やはり,懐かしい。いまも同じ笑顔だから。
紙面は全面2ページにわたって,シャモワゾーの講演会が載録されている。このときの司会を星埜さんと塚本昌則さん(東京大学教授・フランス文学)がつとめていらっしゃる。講演会のタイトルは「戦士と反逆者 クレオール小説の美学」。この記事のつかみのところだけ転載しておくと以下のとおり。
昨年11月13日,東京大学(文京区本郷)において,パトリック・シャモワゾーによる講演会「戦士と反逆者 クレオール小説の美学」が開かれた。シャモワゾー氏は,1992年に『テキサコ』(星埜守之訳,平凡社)でゴンクール賞を受賞し,国際的にその名が知られるようになった。また,ラファエル・コンフィアンとの共著『クレオールとは何か』(西谷修訳,平凡社)は世界中で読まれ,「クレオール」という言葉を定着させるきっかけを作った一冊である。この講演の模様を載録させてもらった。進行は星埜守之氏と,『カリブ海偽典』(紀伊国屋書店)の翻訳者である塚本昌則氏が担当した。
わたしは,最初に今福さんの『クレオール主義』という本を読んだときに,なんのことかがよくわからないまま苦しんでいたが,西谷さんの『クレオールとは何か』がでて,その巻末に書かれた西谷さんの「解説」を読んではじめて「クレオール」ということの重大さを知った。そして,クレオール語ということばもそうだが,スポーツもまた民族の出会い・衝突によって新しいスポーツ文化を生み出す,その意味ではことばもスポーツも同じではないか,とあれこれ考えてきた。
星埜さんがそういう方だったということがわかった以上は,『テキサコ』を読んでおいて,こんどお会いできるかも知れない奄美自由大学に備えておこう。星埜さんは,とくに,だれとも会話をされるわけでもなく,悠々とひとりで奄美の雰囲気を楽しんでいらっしゃる方だ。せめて,夜の宴会の折には『テキサコ』を話題にできるようにしておこう。そうすれば,奄美自由大学がもっともっと面白くなりそうだ。そして,同時に,わたしのやってきたスポーツ史やスポーツ文化論を考える上でもシャモワゾーの書いたものはとても重要なヒントを与えてくれるはずだ。その意味でも必読の書だ,とこの講演会載録を読んでますます強く感じた。
わけても,スポーツ文化がヨーロッパ近代の呪縛から解き放たれるためにも。
シャモワゾーという人の写真をしげしげと眺めるのはこんどが初めて。ああ,こんな顔をした人なのか,と納得。西谷さんはいつもよりご機嫌か,とても柔和な顔で写っている。その反対側には星埜さんがいつもの表情で写っている。
いつもの表情と書いたが,じつは,星埜さんはいつも同じような顔をしているからだ。無理して大まじめな顔をすることもなく,ごく,自然体で脱力された柔らかな笑顔である。ああ,こういうときも同じ顔だ,という意味で「いつもの表情」と書いた次第である。
というのは,星埜さんとは,一昨年の奄美自由大学(今福龍太主宰)で初めてお目にかかった。初日の入島式(これから奄美大島の島巡りをさせてもらいます,という島の神様に許可をいただく式。島には聖なる場所がここかしこにあるので,そこに行って主宰者のご挨拶があり,島巡りの予定表を書いたリーフレットと笛(いずれも今福さんのゼミ生さんたちの手製)を分けてもらって,いよいよ行動開始)のときに,わたしは初めての参加だったので,まずは,わたしの方から星埜さんに声をかけ,これこれの者ですと自己紹介をした。が,星埜さんは,いつものにこにこした顔をして「ああ,そうですか。星埜です。よろしく」と言ったきりなにも仰らない。あれっ,と思って少し考えた。ああ,そうか,星埜さんのことは知らない人がいないとお考えかも・・・と思って,勇気を奮い起こして「失礼ですが,どういうお仕事をなさっていらっしゃるのですか」と問う。すると「大学でフランス語を教えています」とだけ。わたしは知らないから,ああ,そうか,フランス語の先生なのだ,とだけ記憶にとどめた。あとは,まったく不明。そして,奄美自由大学でご一緒した三日間,いつも,どこにいても,にこにことした笑顔で,飄々と歩いていらっしゃる。不思議な存在感のある人だなぁ,とは思ったが,それ以上のことはわからない。
それっきりになっていた星埜さんが,突然,『週刊読書人』の一面トップの写真に現れたという次第。しかも,西谷さんと一緒だ。ええっ,と思って,急いで経歴を探した。そうしたら,東京大学教授とある。ふたたび,ええっ,である。人は見かけによらないもの。奄美大島で初めてお会いしたときには,どこで,なにをしていらっしゃる方かもわからないので,無精髭をのばしたどこかのおじさんだと思っていた。しかし,この写真をみると,いまも,その無精髭があるので,ああ,あれはおしゃれなんだと納得。そして,「クレオール」というところで西谷さんともつながっていることも納得。そうして,いまさらのように奄美自由大学に来られる人たちというのはたいへんな人たちばかりなのだ,とこれまた納得。わたしのような者がひょこひょこ顔を出していていいのだろうか,と考えてしまう。でも,今福さんから,来年また奄美で会いましょう,と言われると嬉しくなってまたいそいそとでかけてしまう。奄美大島という磁場のようなものがわたしを引きつけてやまない。なんなのだろう,あの島の発する雰囲気は。わたしが戦前の子ども時代に吸っていた空気と同じようなものをここかしこで感ずる。だから,いまでは完全に消え失せてしまった,わたしの子ども時代に味わった郷愁を感じ,懐かしくなるのだろう。そんな場で星埜さんとも出会った。そして,あの,ゆるい,なんともいえない味のあるにこにこした笑顔に。その笑顔を久し振りにこの『週刊読書人』で発見。やはり,懐かしい。いまも同じ笑顔だから。
紙面は全面2ページにわたって,シャモワゾーの講演会が載録されている。このときの司会を星埜さんと塚本昌則さん(東京大学教授・フランス文学)がつとめていらっしゃる。講演会のタイトルは「戦士と反逆者 クレオール小説の美学」。この記事のつかみのところだけ転載しておくと以下のとおり。
昨年11月13日,東京大学(文京区本郷)において,パトリック・シャモワゾーによる講演会「戦士と反逆者 クレオール小説の美学」が開かれた。シャモワゾー氏は,1992年に『テキサコ』(星埜守之訳,平凡社)でゴンクール賞を受賞し,国際的にその名が知られるようになった。また,ラファエル・コンフィアンとの共著『クレオールとは何か』(西谷修訳,平凡社)は世界中で読まれ,「クレオール」という言葉を定着させるきっかけを作った一冊である。この講演の模様を載録させてもらった。進行は星埜守之氏と,『カリブ海偽典』(紀伊国屋書店)の翻訳者である塚本昌則氏が担当した。
わたしは,最初に今福さんの『クレオール主義』という本を読んだときに,なんのことかがよくわからないまま苦しんでいたが,西谷さんの『クレオールとは何か』がでて,その巻末に書かれた西谷さんの「解説」を読んではじめて「クレオール」ということの重大さを知った。そして,クレオール語ということばもそうだが,スポーツもまた民族の出会い・衝突によって新しいスポーツ文化を生み出す,その意味ではことばもスポーツも同じではないか,とあれこれ考えてきた。
星埜さんがそういう方だったということがわかった以上は,『テキサコ』を読んでおいて,こんどお会いできるかも知れない奄美自由大学に備えておこう。星埜さんは,とくに,だれとも会話をされるわけでもなく,悠々とひとりで奄美の雰囲気を楽しんでいらっしゃる方だ。せめて,夜の宴会の折には『テキサコ』を話題にできるようにしておこう。そうすれば,奄美自由大学がもっともっと面白くなりそうだ。そして,同時に,わたしのやってきたスポーツ史やスポーツ文化論を考える上でもシャモワゾーの書いたものはとても重要なヒントを与えてくれるはずだ。その意味でも必読の書だ,とこの講演会載録を読んでますます強く感じた。
わけても,スポーツ文化がヨーロッパ近代の呪縛から解き放たれるためにも。
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