ふだんは大阪を拠点にして活動している Ain Figremin が東京でライブをするというので出かけてみた。21日(木)は高円寺で,22日(金)は府中でやるという。21日はすでに予定が入っていたので,22日に出かけた。
もちろん,お目当てはリードヴォーカルの三井雄介だ。詳しいことははぶくが,個人的なある事情があって,かれの子どものころから,その成長過程をなぞることができるほどに雄介のことはよく知っている。だから,年々,成長していくその姿はいつも気がかりになっている,と同時に楽しみにもしている。
今回,わたしが聞くのは,バンドのメンバーが変わってからの初めてのライブである。昨年の暮れにはこの新しいメンバーによるCDが制作されている。そして,その1枚がわたしのところにも届いていたので,すでに何回か聞いている。だから、以前とはだいぶ違う雰囲気になっているなぁ,と感じとってはいた。が,やはり,ライブはもっとその違いを鮮明にしてくれた。
まずは,Ain Figremin というバンドが驚くほどにレベル・アップし,進化しているではないか。迫力がまるで違う。切れ味が鋭い。雄介のギター・テクニックも歌唱力も抜群によくなっている。しっかりとした目線がいい。たしかななにかをしっかりと見据えている目線だ。だから,引き寄せられる。魅力的だ。それからベースが面白かった。なにせ,裸足でステージに立ち,所狭しとばかりにギターをかかえて演奏しながらこんなパフォーマンスができるかという極限に迫る。本人は必死で,からだごと音をギターに埋め込んでいく。ときには祈っているようにもみえる。ドラムの顔がこれまた印象的だった。ときに泣いているような顔になり,ときには般若の顔になる。しかし,そのほとんどは髪の毛に隠れてみえない。能面アーティストの柏木さんの作品(創作面)に「心眼」という傑作面があり,それを思い浮かべていた。かれもまたドラムと一体化している。雄介の眼が余韻を残す。目力(めぢから)がついたというか,眼力がついたというか,眼がらんらんと輝くようになってきた。もはや,この世のものとは思えない雰囲気がでてきた。そのうち幽体離脱をするのではないか,といささか心配であると同時に楽しみでもある。
なぜなら,ロックというのは,なにものにも束縛されることのない,そういう幽体離脱寸前の境界領域で遊んでいる音楽ではないか,とわたしは受けとめている。つまり,この世とあの世を自由に往来する音楽ではないか,と。そういうところから音が溢れ出てきて,ことばがそれに乗って天を駆けめぐる。天と地の交信・共鳴・共振。天なる存在に向かって裸足で大地からのエネルギーを吸い上げ天に送り込む(ベース)。すると,こんどは天から大地に雷鳴のごときドラムが響く。ボーカルが必死になって天と地の間に音とことばを繋ぎ止めるかのように,全身全霊を傾ける。このとき,聞く者たちとステージはひとつになる。
以前,渋谷のライブで聞いたときよりも,はるかに骨太の,逞しいバンドに変身している。雄介も大人になってきたなぁ,としみじみおもう。この間までのひ弱さが消えた。もう,びくともしない,自分で納得のいく立ち位置が決まったという印象だ。さあ,いよいよこれからだ。
この3人は,おそらく,まったく異なる個性の持ち主で,その音楽性も異なるのではないか,と聞きながらちらりとおもった。それでいて,不思議に噛み合っている。お互いがそれぞれの音楽性をリスペクトしつつ主張し合う,その上で,がっぷり四つに組み合っている。お互いに一歩も譲らないで個性をぶっつけ合うことによって,1+1+1=3,などという単純な和算の範囲を大きく超えでていく可能性を秘めている。3が,6にも9にもなりうる,そういう「大化け」の可能性を感ずる。
これから面白くなりそうなバンドだ。
Ain Figremin. 国籍不明の言語。もとをたどればドイツ語もどき。Ein とかけば立派なドイツ語になることを知っている雄介は,わざわざそれをはぐらかす。Figremin もどこかドイツ語にありそうでないことば。雄介のことだから,このことばにあるメッセージを籠めているはず。ありそうでない,なさそうだがあるような気もする,が,やはりない,怪しげなことばの創作。min で終わるところからの連想では「くすり」のイメージか。では,Figre はなにか。あるいは,Fig と re と分離するのか。ならば,こうも考えられる・・・・という具合にことば遊びも際限なくつづく。
Ain.ひとつでもなくふたつでもない。ひとつから不特定多数まですべてをつつみこもうとでもしているのか。まさに,不定冠詞の王。かたちあるものはやがてくすりによってきえゆくのみか。きえゆくさきにこそりそうのおうこくがまちかまえている,か。
自他の境界領域を超えでていくことは容易ではない。しかし,かつては自他の境界のない動物性(あるいは,内在性)を生きていたわれわれ人間は,どこかに動物性への回帰願望を抱え込んでいる。それはもはや人間である以上,どこまでいっても避けがたいことなのだ。不可避なのだ。だから,ひとたび,動物性(あるいは,内在性)に目覚めた人間は,動物性への回帰願望に揺さぶられながら,宙づりの「生」を生きることになる。それしかないのだ。
こんな話を雄介をまじえて,このバンドのメンバーたちと,うまい酒でも酌み交わしながら語り合いたいものだ。その日もそんなに遠くはあるまい。楽しみにしよう。
もちろん,お目当てはリードヴォーカルの三井雄介だ。詳しいことははぶくが,個人的なある事情があって,かれの子どものころから,その成長過程をなぞることができるほどに雄介のことはよく知っている。だから,年々,成長していくその姿はいつも気がかりになっている,と同時に楽しみにもしている。
今回,わたしが聞くのは,バンドのメンバーが変わってからの初めてのライブである。昨年の暮れにはこの新しいメンバーによるCDが制作されている。そして,その1枚がわたしのところにも届いていたので,すでに何回か聞いている。だから、以前とはだいぶ違う雰囲気になっているなぁ,と感じとってはいた。が,やはり,ライブはもっとその違いを鮮明にしてくれた。
まずは,Ain Figremin というバンドが驚くほどにレベル・アップし,進化しているではないか。迫力がまるで違う。切れ味が鋭い。雄介のギター・テクニックも歌唱力も抜群によくなっている。しっかりとした目線がいい。たしかななにかをしっかりと見据えている目線だ。だから,引き寄せられる。魅力的だ。それからベースが面白かった。なにせ,裸足でステージに立ち,所狭しとばかりにギターをかかえて演奏しながらこんなパフォーマンスができるかという極限に迫る。本人は必死で,からだごと音をギターに埋め込んでいく。ときには祈っているようにもみえる。ドラムの顔がこれまた印象的だった。ときに泣いているような顔になり,ときには般若の顔になる。しかし,そのほとんどは髪の毛に隠れてみえない。能面アーティストの柏木さんの作品(創作面)に「心眼」という傑作面があり,それを思い浮かべていた。かれもまたドラムと一体化している。雄介の眼が余韻を残す。目力(めぢから)がついたというか,眼力がついたというか,眼がらんらんと輝くようになってきた。もはや,この世のものとは思えない雰囲気がでてきた。そのうち幽体離脱をするのではないか,といささか心配であると同時に楽しみでもある。
なぜなら,ロックというのは,なにものにも束縛されることのない,そういう幽体離脱寸前の境界領域で遊んでいる音楽ではないか,とわたしは受けとめている。つまり,この世とあの世を自由に往来する音楽ではないか,と。そういうところから音が溢れ出てきて,ことばがそれに乗って天を駆けめぐる。天と地の交信・共鳴・共振。天なる存在に向かって裸足で大地からのエネルギーを吸い上げ天に送り込む(ベース)。すると,こんどは天から大地に雷鳴のごときドラムが響く。ボーカルが必死になって天と地の間に音とことばを繋ぎ止めるかのように,全身全霊を傾ける。このとき,聞く者たちとステージはひとつになる。
以前,渋谷のライブで聞いたときよりも,はるかに骨太の,逞しいバンドに変身している。雄介も大人になってきたなぁ,としみじみおもう。この間までのひ弱さが消えた。もう,びくともしない,自分で納得のいく立ち位置が決まったという印象だ。さあ,いよいよこれからだ。
この3人は,おそらく,まったく異なる個性の持ち主で,その音楽性も異なるのではないか,と聞きながらちらりとおもった。それでいて,不思議に噛み合っている。お互いがそれぞれの音楽性をリスペクトしつつ主張し合う,その上で,がっぷり四つに組み合っている。お互いに一歩も譲らないで個性をぶっつけ合うことによって,1+1+1=3,などという単純な和算の範囲を大きく超えでていく可能性を秘めている。3が,6にも9にもなりうる,そういう「大化け」の可能性を感ずる。
これから面白くなりそうなバンドだ。
Ain Figremin. 国籍不明の言語。もとをたどればドイツ語もどき。Ein とかけば立派なドイツ語になることを知っている雄介は,わざわざそれをはぐらかす。Figremin もどこかドイツ語にありそうでないことば。雄介のことだから,このことばにあるメッセージを籠めているはず。ありそうでない,なさそうだがあるような気もする,が,やはりない,怪しげなことばの創作。min で終わるところからの連想では「くすり」のイメージか。では,Figre はなにか。あるいは,Fig と re と分離するのか。ならば,こうも考えられる・・・・という具合にことば遊びも際限なくつづく。
Ain.ひとつでもなくふたつでもない。ひとつから不特定多数まですべてをつつみこもうとでもしているのか。まさに,不定冠詞の王。かたちあるものはやがてくすりによってきえゆくのみか。きえゆくさきにこそりそうのおうこくがまちかまえている,か。
自他の境界領域を超えでていくことは容易ではない。しかし,かつては自他の境界のない動物性(あるいは,内在性)を生きていたわれわれ人間は,どこかに動物性への回帰願望を抱え込んでいる。それはもはや人間である以上,どこまでいっても避けがたいことなのだ。不可避なのだ。だから,ひとたび,動物性(あるいは,内在性)に目覚めた人間は,動物性への回帰願望に揺さぶられながら,宙づりの「生」を生きることになる。それしかないのだ。
こんな話を雄介をまじえて,このバンドのメンバーたちと,うまい酒でも酌み交わしながら語り合いたいものだ。その日もそんなに遠くはあるまい。楽しみにしよう。
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