オリンピックの実施競技は時代とともに変化する。1896年以来の近代オリンピックもすでに113年を経過している。だから,実施競技もめまぐるしく変化してきている。その間に議論されてきたことの中核は,競技人口(世界的な普及度)が主たる目安になっていた。それがいつのまにか論理のすり替えが行われ,商業主義に乗っ取られてしまっているかにみえる。
IOCの理事会が検討すべきは実施競技の精選である。すでに,時代にそぐわなくなってしまったと思われる実施競技がまだまだたくさん残っている。そこに蛮勇をふるってメスを入れることだろう。その対象が,さしあたってレスリングであったというのなら,それはそれでおみごと。ならば,レスリングを除外した理由をIOC会長は世界に向けて公開すべきだろう。しかし,それができない。やはり,公開できない理由があるのだ。だから,話はややこしい。
レスリングを除外するなら,その前に,近代五種,馬術,射撃,などを除外対象として検討すべきではないか。とりわけ,近代五種については,相当に深く踏み込んで議論すべきではないのか。もはや,ほとんど無用の長物になりはてているのではないかとわたしは考えている。
そもそも近代五種は1912年(オリンピック・ストックホルム大会)に新しく加えられた競技である。それも,古代ギリシアの五種競技に代わる近代の五種競技を考案してほしいというクーベルタンの意向を受けて,スウェーデン軍隊が将校の斥候を想定してつくったものである。
競技内容は,ひとりの競技者が,射撃(ピストル),水泳(300m,女子は200m),フェンシング(エペ),馬術(障害飛越),陸上(4000mクロスカントリー,女子は2000m)の五種目を行い,その総合得点を競うというもの。当初は,一日一種目ずつおこなっていたが,1996年のアトランタ大会からは,一日で全種目を行う。2000年シドニー大会より女子種目が加わった。驚くべきことに,1948年のロンドン大会までは将校にのみに参加資格が与えられていた。
言ってしまえば,軍隊の将校用に考案された競技を,たとえ一般男女に開いたとしても,いまも実施しなければならないとする根拠はもはやほとんどない。なのに,なんの疑問もなく,いまも安泰である。なぜなら,近代五種の国際連合副会長がサマランチ・ジュニアだから。しかも,かれはIOC理事でもある。だから,近代五種を除外するという話が持ち上がっても,最後の投票では生き残ることになる。現に,今回もそのプロセスを経ている。
しかし,考えるまでもなく,近代五種を競技として楽しめる人たちというのは,世界広しといえども,ほんの一握りの人たちだけだ。日本では,皆無に等しいだろう。こんなものが,どうどうと中核競技の,それも別格として扱われている。それと同じように,馬術,射撃も,これらをスポーツとして楽しむことのできる人が,この地球上にどれだけいるのだろうか。わたしには疑問だ。
ちなみに,2012年のロンドン五輪で実施された競技は以下の26競技である。
陸上,水泳,アーチェリー,バドミントン,カヌー,ホッケー,バスケットボール,ボクシング,自転車,馬術,近代五種,フェンシング,サッカー,体操,ハンドボール,柔道,卓球,ボート,セーリング,射撃,テコンドー,テニス,トライアスロン,バレーボール,重量挙げ,レスリング。
これらの実施競技をじっと眺めているだけでも,レスリングを外すのであれば,この競技がさきだろう,という競技がみえてくる。
2016年のリオデジャネイロ五輪では,この26競技に,ゴルフとラグビー7人制を加えた計28競技が実施されることになっている。
ところが,2020年五輪では,レスリングを外した25競技にゴルフとラグビー7人制を加えた27競技が決定していて,残りの1枠をめぐって7競技がしのぎを削ることになっている。その7競技は以下のとおり。
レスリング,野球・ソフトボール統合,空手,スカッシュ,ローラースポーツ,スポーツクランミング,武術,水上スキー(ウェークボード)。
しかし,この投票も密室で決まる。なにが生き残るのか,まったく予断を許さない。なぜなら,生き残るための論理的整合性が明示されていないからだ。だから,声高に言われていることは「ロビー活動」だ。まさに政治の世界と同じだ。こういう政治力が問われているのだ。このこと自体がオリンピック憲章に違反する行為ではないか。
IOC理事会は,もはや,そういう良識のコントロールの外に飛び出してしまっているのだ。最終的な決定力は「カネ」。拝金主義がまかりとおっている。どれだけロビーで「おみやげ」を渡すことができるか。地獄の沙汰もカネ次第という。そういうところに堕してしまったのだ,IOC理事会という組織が。
もう,いっそのこと,オリンピックで実施競技となるための条件を洗いざらい明確にすること,そして,その条件を満たすデータを各競技ごとに公表すること,その上で,各専門家の意見を聴取すること,さらに国際社会で承認を得られるような基準を設けること,IOC理事会は,そこから出直すしかない,とわたしは考える。
なんだか,どこもかしこも組織が疲弊してしまって,箍が緩みっぱなし。余命いくばくもない命を惰性に委ねているだけ・・・・そんなイメージが浮かんでくる。いまこそ,大英断をくだすことができるかどうか,わたしたちはいま大きな岐路に立たされている。
IOCの理事会が検討すべきは実施競技の精選である。すでに,時代にそぐわなくなってしまったと思われる実施競技がまだまだたくさん残っている。そこに蛮勇をふるってメスを入れることだろう。その対象が,さしあたってレスリングであったというのなら,それはそれでおみごと。ならば,レスリングを除外した理由をIOC会長は世界に向けて公開すべきだろう。しかし,それができない。やはり,公開できない理由があるのだ。だから,話はややこしい。
レスリングを除外するなら,その前に,近代五種,馬術,射撃,などを除外対象として検討すべきではないか。とりわけ,近代五種については,相当に深く踏み込んで議論すべきではないのか。もはや,ほとんど無用の長物になりはてているのではないかとわたしは考えている。
そもそも近代五種は1912年(オリンピック・ストックホルム大会)に新しく加えられた競技である。それも,古代ギリシアの五種競技に代わる近代の五種競技を考案してほしいというクーベルタンの意向を受けて,スウェーデン軍隊が将校の斥候を想定してつくったものである。
競技内容は,ひとりの競技者が,射撃(ピストル),水泳(300m,女子は200m),フェンシング(エペ),馬術(障害飛越),陸上(4000mクロスカントリー,女子は2000m)の五種目を行い,その総合得点を競うというもの。当初は,一日一種目ずつおこなっていたが,1996年のアトランタ大会からは,一日で全種目を行う。2000年シドニー大会より女子種目が加わった。驚くべきことに,1948年のロンドン大会までは将校にのみに参加資格が与えられていた。
言ってしまえば,軍隊の将校用に考案された競技を,たとえ一般男女に開いたとしても,いまも実施しなければならないとする根拠はもはやほとんどない。なのに,なんの疑問もなく,いまも安泰である。なぜなら,近代五種の国際連合副会長がサマランチ・ジュニアだから。しかも,かれはIOC理事でもある。だから,近代五種を除外するという話が持ち上がっても,最後の投票では生き残ることになる。現に,今回もそのプロセスを経ている。
しかし,考えるまでもなく,近代五種を競技として楽しめる人たちというのは,世界広しといえども,ほんの一握りの人たちだけだ。日本では,皆無に等しいだろう。こんなものが,どうどうと中核競技の,それも別格として扱われている。それと同じように,馬術,射撃も,これらをスポーツとして楽しむことのできる人が,この地球上にどれだけいるのだろうか。わたしには疑問だ。
ちなみに,2012年のロンドン五輪で実施された競技は以下の26競技である。
陸上,水泳,アーチェリー,バドミントン,カヌー,ホッケー,バスケットボール,ボクシング,自転車,馬術,近代五種,フェンシング,サッカー,体操,ハンドボール,柔道,卓球,ボート,セーリング,射撃,テコンドー,テニス,トライアスロン,バレーボール,重量挙げ,レスリング。
これらの実施競技をじっと眺めているだけでも,レスリングを外すのであれば,この競技がさきだろう,という競技がみえてくる。
2016年のリオデジャネイロ五輪では,この26競技に,ゴルフとラグビー7人制を加えた計28競技が実施されることになっている。
ところが,2020年五輪では,レスリングを外した25競技にゴルフとラグビー7人制を加えた27競技が決定していて,残りの1枠をめぐって7競技がしのぎを削ることになっている。その7競技は以下のとおり。
レスリング,野球・ソフトボール統合,空手,スカッシュ,ローラースポーツ,スポーツクランミング,武術,水上スキー(ウェークボード)。
しかし,この投票も密室で決まる。なにが生き残るのか,まったく予断を許さない。なぜなら,生き残るための論理的整合性が明示されていないからだ。だから,声高に言われていることは「ロビー活動」だ。まさに政治の世界と同じだ。こういう政治力が問われているのだ。このこと自体がオリンピック憲章に違反する行為ではないか。
IOC理事会は,もはや,そういう良識のコントロールの外に飛び出してしまっているのだ。最終的な決定力は「カネ」。拝金主義がまかりとおっている。どれだけロビーで「おみやげ」を渡すことができるか。地獄の沙汰もカネ次第という。そういうところに堕してしまったのだ,IOC理事会という組織が。
もう,いっそのこと,オリンピックで実施競技となるための条件を洗いざらい明確にすること,そして,その条件を満たすデータを各競技ごとに公表すること,その上で,各専門家の意見を聴取すること,さらに国際社会で承認を得られるような基準を設けること,IOC理事会は,そこから出直すしかない,とわたしは考える。
なんだか,どこもかしこも組織が疲弊してしまって,箍が緩みっぱなし。余命いくばくもない命を惰性に委ねているだけ・・・・そんなイメージが浮かんでくる。いまこそ,大英断をくだすことができるかどうか,わたしたちはいま大きな岐路に立たされている。
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