2013年2月26日火曜日

東京マラソンは新しい文化,新しい祝祭空間となりうるか。

 マラソン・レースはテレビでみるものであって,沿道にでてみるものではない,とずっと思っていた。しかし,とうも,そういうものではなくなってきているらしい。それが数字で現れている。主催者発表によれば,沿道に繰り出して応援した人びとが173万5千人という。これには驚いた。この人たちは,一瞬にして目の前を駆け抜けていく選手たちを,ただ,ひたすら応援していたのだろうか。どうも,そうではないらしい。

 1964年の東京オリンピックのときのマラソンを甲州街道の歩道で応援したことを思い出す。アベベ選手がやってきたと思ったら,あっという間にとおりすぎて行った。ほかの選手たちも同じだ。本ものを見た,ということだけが自慢で,あとはなんの感懐もない。むしろ,味気なかった。もう,二度と沿道に立つのはやめておこうとさえ思った。以後はもっぱらテレビ観戦である。

 しかし,何年か経って,数年前,箱根駅伝を藤沢まで見物に行ったことがある。復路の応援をする人たちの姿がみたかった。そして,自分自身もその集団のなかに身を置いて,一緒に応援してみようと。しかし,このときも,つぎつぎに選手たちはやってくるが,あっという間に目の前をとおりすぎて行って終わりである。でも,沿道の人びとは無邪気に応援をしていた。しかし,わたしは退屈した。もう,こんご二度と沿道には立つまいとこころに決めていた。

 でも,マラソンは好きなので,テレビでは熱心に眺めている。

 こんどの東京マラソンもテレビで観戦した。お目当ては,2時間4分台で走る選手の4人。いったい,どんな走りをするのか見たかった。が,残念なことに「ペースメーカー」なる存在に邪魔されて,30キロまでは大集団のまま。なんの駆け引きも起こらない。しかも,予定よりも遅い。なんともつまらない展開。4分台選手にとってはまるでジョギングでもしているような余裕さえ感じられる。が,レースは30キロすぎて「ペースメーカー」がはずれてからはじまった。それもあっという間のできごと。一気に集団がばらけたところで,あとは,飛び出したキメットと,それを追うキビエゴの勝負となる。

 これをみて,ペースメーカーは不要だ,と思った。むしろ,記録をよくするよりも悪くすることに貢献しているではないか。なんのためのペースメーカーなのか。疑問だらけ。ペースメーカーがいなかったら,このレースはどうなっていただろうか。選手たち同士が,もっと激しいレースの駆け引きを展開して,みる者を熱狂させたのではないか。と,そちらの方に気持ちが向かう。

 テレビは,ひたすら優勝争いと,話題の選手を追いかけるのみ。あとのことはどうでもいいかのようだ。解説も平凡。なぜ,ケニアの選手たちはこんなに強いのか,とアナウンサーに聞かれた瀬古のピンぼけな応答。解説者としての勉強が足りない。それに比べれば,増田明美は事前に取材もして,下調べがしてあり,場面,場面に応じて的確な解説をしていた。立派である。それから,高橋尚子の解説も歯切れがよくなった。彼女もよく勉強しているなぁと思った。もう,瀬古の解説なら聞かない,聞くまでもない。

 気がつけば大いなる脱線。話を本題にもどそう。
 テレビにはほとんど映らないにもかかわらず,いや,それだからこそほんの一瞬の映像が強い印象を残すのかもしれない。仮装をしたランナーの即興のパフォーマンスに沿道の人たちが大喜びをしている。そのあたりのことがもう少し知りたいと思った。そこで,新聞やネット情報を掻き集めてみると,意外な(いや,もう,多くの人の知るところかもしれない)ことがわかってきた。

 それは,東京マラソンに参加しているランナーたちは,大きく三つに分かれているようだ。一つは,いわゆるエリート選手たちの競走。徹底して勝ち負けにこだわるグループ。競技としてのマラソンに真摯に向き合っているランナーたち。テレビは,このうちのトップ集団しか映さない。だから,あとのことはテレビ観戦者にはほとんどなにもわからない。二つ目のグループは市民ランナーと呼ばれる人たち。いわゆるトップ・アスリートを目指すのではなく,一人ひとりの目標があって,それを実現させるべくランを楽しんでいる人たち。三つ目は,ファンランを楽しむ人たち。いろいろに仮装をしたり,ランの途中で面白いパフォーマンスを繰り広げたり,沿道の人たちと交流することを楽しんでいる人たちだ。

 そこで,なんとなくわかってくるのは,沿道に立って応援していると,三つの性質の異なるランナーたちがとおりすぎていくことだ。エリート集団が,勝つこと,順位,記録をめざして必死で駆け抜けたあとに,走ることそのことを楽しんでいる市民ランナーが,思いおもいのランを繰り広げてくれる。そして,最後の集団はファンラン。とにかく完走すればいい。記録よりも,みずからの仮装をみてもらうこと,ついでにその仮装に見合うパフォーマンスをみてもらうこと,このことに主眼を置いたグループがやってくる。

 この三つ目の集団はお祭り集団だ。いかにして祝祭空間を演出し,沿道の人びとと一体化し,笑いをとるか,そこに参加する意味を見出している。そここそが勝負だ。受けがよければ,沿道の人たちのところに近づいて行ってハイタッチもありという。立派な市民交歓会が繰り広げられているらしい。ときおり,それらしき光景がテレビに瞬間的に映ることがある。これは,少なくとも,ここ数年の間に急激に増えてきた現象らしい。だとすれば,これは面白い。つまり,ある意味では,多数の役者たちによって延々と演劇的なパフォーマンスが繰り広げられていることになるからだ。だとすれば,沿道に出て行って,それらを楽しむ人がでてきてもおかしくはない。こういう光景が見られるのなら,わたしも出かけてみようかと思う。

 残念なことは,テレビをそういう光景を映そうとはしないことだ。これもまた東京マラソンの一つの重要な要素であるとしたら,しっかりと報道すべきではないのか。それとも主催者たちはこの手のランナーを「困った輩」とでも思っているのだろうか。ファンランはそんな雰囲気を肌で感じながら,意図的・計画的にアゲインストしているのだろう。だとしたら,それは,明らかにマラソン文化に革命が起きている,なによりの証拠となるだろう。

 いっそのこと,テレビ観戦者のために,テレビの画面を4分割ぐらいにして,東京マラソンを多面的・多層的に見せることをやってみてはいかがか。一つは,これまでどおりにトップ集団を中心にした映像を送りつづけること,もう一つは市民ランナーたちの走りをじっくりと見せること,三つ目はファンラン。沿道の人たちとのコミュニケーションがどのように展開されていくのか,これは面白いと思う。あと一つは,その他の情景を拾っていくこと。たとえば,ボランタリーの人たち(約1万人が参加しているという)の活躍ぶりを追うこと。給水や誘導,など。そうして,東京マラソンの全体像を浮き彫りにすることを考えるべきではないのか。勝ち負けだけがスポーツではないのだから。

 たぶん,いま,単なる競走・競技であったマラソンから,マラソンの全コースを祝祭空間に仕立て直して,そこでの時空間を,ランナーも沿道の人も一体となって,新たなお祭り広場を演出しようとしているかにみえる。これは「21世紀のマラソン」という名の新しい文化の誕生ではないか。主催者が仕掛けたわけでもなく,沿道のファンが仕掛けたわけでもない。マラソンに参加するランナーたちのなかから自発的に,いかにしてランを沿道の人たちとともに楽しむかという創意工夫が生み出した,まったく新しいスポーツ文化の出現ではないのか。

 ここまで考えたら,来年はどこか冷たい風が吹かない場所を選んで,沿道に立ってみたいと思い出した。ある意味では,スポーツ文化の先祖返り。そして,そこにこそ,21世紀スポーツ文化の新たな可能性が秘められているのではないか。勝利至上主義も,自立したランナーとしての自己実現も,ファンランも,そしてそれらを支える裏方さんも,そしてなによりも沿道で声援を送りつつ,ファンランをする人たちとの交流を楽しむ。そんなスポーツ文化が実現したら,なんと素晴らしいことか。これこそが,わたしが待ち望んでいたスポーツ文化のひとつの新しいモデルであり,スタイルでもある。

 よし,こんど,そのようなマラソン・レースがあったら,出かけていって沿道に立とう。そして,こちらからも声援という名のパフォーマンスを繰り出してやろうではないか。

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