2013年10月1日火曜日

千秋楽,鶴竜と稀勢の里の一戦に,ひとこともの申したい。勝負の「判定」とはなにか。

 大相撲秋場所が終わって一日が過ぎた。今場所は,いろいろと事情があって,大好きな大相撲をみる時間が少なかった。だから,なにも言わないでおこうと決めていたが,やはり,どうしてもこの一番だけはひとこともの申しておきたい。

 大相撲の勝負の判定はきわめてむつかしいということは百も承知している。しかし,千秋楽の鶴竜と稀勢の里との一戦については,わたしとしては,黙って見過ごすことはできない。テレビの解説者も問題にしなかったし,翌日の新聞(東京新聞)もひとことも触れてはいないので,世間的には大相撲の判定とはそういうものなのだ,と認知されているらしい。

 しかし,ほんとうに,それでいいのだろうか。このまま放置しておいていいのだろうか。だれも異議申し立てをする人間がいなければ,それでよしとして,それでいいのだろうか。大相撲を真に愛するひとりのファンとしては,いかがなものかと思う。だから,ひとこともの申しておきたい。

 一応,物言いがついて,土俵上で確認の話し合いがなされたが,鶴竜の左足の方が稀勢の里の右肘が土俵の外につくよりも早かった,だから,行司軍配どおり,となった。もちろん,ビデオによる確認もなされている。そして,たしかに,その判定に間違いはなかったことも,スローの映像を流してくれたので,わたしたちも理解している。

しかし,である。それで納得できたか,とみずからに問えば,ノーである。手続きとしては理解できたとしても,その判定に納得することができるかどうかは別問題である。相撲には「かばい手」という判定がある。わたしの目には,鶴竜の左足は「かばい足」にみえた。なぜなら,鶴竜は,稀勢の里が落ちていくのを上から見届けて,すでに勝負あったと判断して左足をついた,とわたしはみる。もし,そうでなかったら,あの左足は浮かせたまま土俵下まで落ちていくことになったはず。あるいは,稀勢の里のからだの上に倒れ込んでしまうことになったはず。しかし,そうなると稀勢の里に怪我をさせてしまう恐れがある。鶴竜の目には完全におれの勝ちと写ったはずである。だから,意識としては,稀勢の里が落ちたと思ったので,左足をついて土俵下まで落ちていくのを防いだ,ということなのだろう。

しかし,行司はその一瞬の差を見届けていた。これはたいしたものである。しかし,勝負審判の親方たちには座っている場所によって,みえた人とみえなかった人との差がでてくる。座席でみているファンにはその差はほとんどみえない。ましてや,テレビ観戦では,よほどカメラアングルがよくないかぎりは,まずは,みえない。そのみえないところをビデオによって正当化する,この判定の仕方はこれでいいのか,というのがわたしの疑問である。

 「相撲に勝って,勝負に負けた」という言い方が相撲界にはある。むかしから,この判定の矛盾は広く知られている。鶴竜は相撲に勝って,勝負に負けた,ということなのである。しかし,それは,だれの目にも明らかに見届けることのできる場合にかぎるべきではないのか。相撲の流れからして,鶴竜はきれいに稀勢の里を突き落として,しかも断然,有利な体勢のままで土俵の上に立っている。だから,わたしの目には「かばい足」と写る。

 テレビ判定を優先させるのであれば,もはや,勝負審判員は不要である。すべて,機械に任せればいい。スピード・スケートの1000分の1秒差まで計測して,判定を下すのと同じになってしまう。ここからさきの議論は,じつは,もっともっとややこしい問題がいっぱいある。したがって,今日のところはここまでとしておく。いずれまたの機会に。
 
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