2013年10月8日火曜日

『世界』11月号が出ました。拙稿「オリンピックはマネーゲームのアリーナか」が掲載されています。




  待望の拙稿掲載誌『世界』11月号が書店に並びました。今月の『世界』の特集は「市場化される日本社会」です。こちらは「TPP」問題に焦点を当てたものですが,わたしの論考ともどこかでシンクロしていて面白いなぁ,と思いました。

 TPPは,いま,まさに正念場を迎えています。政府は国民との「公約」を無視してまでも,TPPに譲歩して,加盟の目処をさぐろうとしています。こちらはまさにアメリカン・スタンダードによる暴力的な「地ならし」です。巨大なブルドーザーを駆使して,荒れ地も肥沃な田んぼも山林も,みそくそ一緒くたにして「地ならし」をし,まったく次元の異なる「さら地」=「新たな市場」を生み出そうというわけです。このブログでも注目しているPARC事務局長の内田聖子さんの「市場化パッケージとしてのTPP──利潤か人間か」という論考も掲載されています。

 日本の棚田のような農業はもはや成り立たなくなってしまいます。そうなりますと,地下水の流れ方にも大きな異変が生じてきます。その他,専門家が,あれも,これもという具合にして,日本の伝統的な文化の土台が,根源から突き崩されていく事例をあげて警告を発しています。市場化するということは「根無し草」になるということです。シモーヌ・ヴェイユのいう「根こぎ」そのものでもあります。にもかかわらず,政府は一気呵成に暴走し,押し切ろうという姿勢をみせはじめました。いったい,安倍政権はなにを考えているのでしょうか。このままいくと自民党が内部分裂・崩壊する可能性もあるといいます。まさに,正気の沙汰とも思えません。

 しかし,よくよく考えてみますと,スポーツの世界ではそれが当たり前のようにして大通りを歩いてきました。むしろ,それが「正義」であるとすら考えられてきました。そして,そのことに疑念を差し挟む,異議を申し立てる人は圧倒的少数派にすぎません。スポーツによる規範の統一(ルールの統一)の,どこが悪いのか,というわけです。こういう人たちに,ベンヤミンの『暴力批判論』は通用しません。たとえば,法措定的暴力(スポーツでいえば,ルールを決めることの暴力性)や,法維持的暴力(一度,決めたルールを維持しつづけることの暴力性)の問題性を提起しても,見向きもしてくれません。困ったものです。が,それが現実です。

 その典型的な事例がオリンピックです。
 オリンピック・ムーブメントは国際平和運動の仮面をかぶった恐るべき文化装置(=怪物)です。つまり,オリンピック・ムーブメントは,近代スポーツによる世界制覇という野望を実現させる文化装置以外のなにものでもありません。すなわち,ヨーロッパ的近代合理主義による世界支配の先兵です。その根源にあるものは,思い切って断言しておけば,キリスト教です。キリスト教精神に支えられたヨーロッパ産スポーツ文化による世界制覇です。

 ですから,日本の柔道も,もののみごとに「これは柔道じゃあない」と言わざるをえないほどの変貌をとげ,日本を除く国際社会が容認する立派な「JUDO」に生まれ変わりました。JUDOはわたしたちの知っている柔道ではありません。似て非なるものです。これが,スポーツによる世界制覇のひとつのサンプルであり,そのからくりです。柔道を国際化するということは,こういうことであり,これがありのままの実態です。

 こうなってきますと,では,いったい「オリンピックとはなにか」,そして「スポーツとはなにか」という問いがどうしても持ちあがってきます。

 東京五輪招致が決まったということは,同時に,オリンピックとはなにか,そして,スポーツとはなにか,という根源的な問いがわたしたちの眼前に立ち現れた,ということでもあります。わたしたちはこの問題を避けてとおるわけにはいきません。しかし,政府も,NOCも,組織委員会も,こんなややこしい議論をするつもりはなさそうです。そして,見て見ぬふりをして(得意の”under control”と嘯いて),もっぱらそろばん勘定に走ることでしょう。

 オリンピックは,サマランチ会長以後,加速度的に「経済」に傾斜していきました。別の言い方をすれば,オリンピックの「金融化」です。すなわち,スポーツの金融化です。豊穣なスポーツ文化が経済によって切り刻まれ,商品価値のあるものから順に金融化され,市場に吐き出されていくという次第です。その結果,いま,わたしたちはどういうところに立たされているのか,どういうオリンピックと向き合っているのか,これからどうしていけばいいのか,といういくつもの難題にいやでも取り組まなくてはならなくなっています。しかし,そんなことには蓋をして,美しい世迷い言の「神話」ばかりが大量生産されることになるのでしょう。そのために大いに力を発揮し,権力の片棒をかつぎたがっている「スポーツ評論家」は掃いて捨てるほどいるわけですから。

 スポーツを真に愛する人びとの,辛口の「スポーツ批評」の声が,現場ではまったく無視されてしまいます。ここにじつは大きな問題がある,と今福龍太さんも仰っています(『スポートロジイ』第2号,みやび出版,2013年,P.11.)。この難題にどうやって分け入っていくのか,それが,これから7年間にわたる,わたしたちの大きな課題であろうと覚悟を決めています。

 東京五輪招致をとおして,そんなことを考えるための一つの手がかりとして,わたしなりの論考を『世界』に寄せてみました。どうぞ,忌憚なきご意見をお聞かせいただければ幸いです。
 
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