2013年10月17日木曜日

クーベルタンとヒトラーの接点を考える。スポーツ批評・その12.

 一度読んだ本はもういいとする悪い習慣がわたしにはある。夏目漱石の『我輩は猫である』は10年に一度は読め,そのつど新しい発見がある,と書いたのは江藤淳だっただろうか。記憶があまり定かではないが,10年生きているとそれなりに成長する,その成長に応じて本の読み方もおのずから変わる,というのだ。なるほど,とおもったものの実行はほとんどしていない。

 多木浩二さんの『スポーツを考える』(ちくま新書)もそういう本だ,ということを今回,久しぶりに再読してみてつくづくそうおもう。こんなに面白い発想の仕方があるのか,という方法はもとより,内容という点でも,驚くべき発見がある。一度,読んだら忘れるはずのない内容なのに,なぜか,すっかり忘れているのだから不思議だ。

 そのひとつが「クーベルタンとヒトラーの接点」である。まさか,近代オリンピックの祖・クーベルタンとあの悪名高きナチズムのヒトラーと「接点」があったとは,だれも思うまい。だから,もし,あったということを知ったら,こんな特ダネを忘れるはずはないだろうに・・・。なのに,すっかり忘れているのだから,不思議だ。人間の記憶などというものはいい加減なものだ。

 多木さんによると,クーベルタンは晩年を,ヒトラーの提供した多額の年金で暮しをたてていたというのである。なぜなら,クーベルタンはヒトラーのプロパガンダとして利用されていたからだ,という。もっとも,多木さんによれば,クーベルタンとヒトラーとの間にはお互いに響きあうものがあったように思うから,別に不思議ではない,という。

 そのひとつの例として,1935年8月4日にベルリンのラジオ放送でクーベルタンが話した内容(タイトルは「近代オリンピックの哲学的基礎」)が取り上げられている。たとえば,つぎのような具合である。

 古代オリンピックの根本的な特徴は,近代オリンピックもまったく同様だが,ひとつの宗教だということである。・・・・オリンピックの第二の性格は,貴族主義であり,エリート主義であるということである。もちろん,この貴族主義とは,もともとは平等であり,個人の身体的な優越性と,訓練の意志によってある程度まで増強できる筋肉的な可能性によってのみ決定されるものである。

 このクーベルタンの発言に対して,いまさらコメントする必要はなにもないだろう。このまま,素直に読み取ればそれでこと足りる。つづけて,もう一点,多木さんが引用しているので,それも紹介しておこう。

 真のオリンピックの英雄とは,私の眼には,成年男子の個人である。私は,個人的には,女性の公的競技への参加は認められない。これは女性が多くのスポーツの実践を控えねばならないという意味ではない。スペクタクルに身をさらすべきでないという意味である。オリンピック競技においての彼女たちの役割は,かつてのトーナメントの場合同様に,勝利者に冠を授けることであるべきだ。

 この二つの引用文を読めば,クーベルタンとヒトラーがお互いに響きあう心性をもっていたであろうことは疑う余地はない。それどころか,クーベルタンにはヒトラーを賛美する傾向があった,とさえいわれていると多木さんは指摘している。そして,「クーベルタンは,実際にはきわめて保守的で,人種と性を差別する白人男性の思想から免れていなかった。しばしば称賛されてきたように人類愛に燃え,同時代の人間の健康に留意している人物ではなかった」とも書いている。

 クーベルタンは私財を投げうって,オリンピック・ムーブメントのために全力をそそいだといわれていて,先祖伝来のフランス貴族の遺産も使い果たし,最後には「破産宣告」まで受けて,落魄のうちに生涯を閉じた,というところまではわたしの記憶にもある。しかし,晩年には,ヒトラーからの高額な年金を頼りに,スイスでひっそりと暮らしていた,という事実は多木さんのこの本ではじめて知ったことである。

 もっとも,これはわたしの不勉強がなせるわざであって,少しく,クーベルタンの事跡を追ったことのある人にとっては,おそらく常識なのだろうとおもう。ただ,そういう人が日本には少ないということなのだろう。と思って,多木さんが用いている出典を確かめてみたら,フランス語で書かれた原典からのものだった。わたしの手のとどかないところに,その情報源があった。多木さんのアンテナの高さに脱帽するのみである。

 クーベルタンについては,そのむかし読んだことのある『オリンピックと近代──評伝クーベルタン』(ジョン・J.マカルーン著,柴田元幸/菅原克也訳,平凡社,1988.)のなかで,相当に詳しく論じられているので,こちらもおさらいをしておかなくてはいけない,と反省。 

 ということで,今日はここまで。

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