2013年10月12日土曜日

治癒神としてのイエスの話(医療思想史・その2.)。

 快晴の秋晴れ。風やや強し。10月11日午後0時10分。是政橋を歩いている。是政駅20分発の電車に乗らないと,先週につづけて今日も遅刻になってしまう。必死になって早足であるく。なんとか間に合って,授業(12時40分始まり)に滑り込む。

 教室に入ってみると,ほとんどまだだれもきていない。入り口近くのソファーにKさんがぽつねんと座っていて,ご挨拶。そのうちにどどっと院生さんたちが入ってくる。先週とは少し顔ぶれが違うような気がする。が,そんなことはいっさいお構いなくN教授は授業を開始。

 今日もノートに書き切れないほどの刺激的(わたしにとって)な話がてんこ盛り。どの話題もみんな刺激的。嬉しくてたまりません。そんな話のなかから,なにか一つ取り出すとすれば,「治癒神としてのイエス」の話でしょうか。

 先週の授業のときに配布してくださった〔MIMA医療思想史 参考文献〕についてのプリントの解説からお話がはじまりました。全部で33冊の文献に,さらに追加として4冊,それにN教授の書かれた関連文献が5冊。こちらの文献一覧もまたてんこ盛りです。そのトップに挙げてある文献は,1.ヒポクラテス『古い医術について』,岩波文庫,1962年,です。この本の解説が,まずは,たっぷりと丁寧に展開され,そのあと何冊かの解説をされたあとに,7.山形孝夫『聖書の起源』講談社現代新書,1976年のお話がありました。

 まずは,なぜ,医療思想史の授業に『聖書の起源』なのか,とN教授は院生さんに問いかけます。みんなきょとんとしています。それもそのはず,聖書と医療とはなんの関係もない,と一般的には考えられていますから。でも,一冊でも聖書を読んだことのある人であれば,イエスがいろいろの病いにたいして奇跡を起こしたり,たくさんの「癒し」を行っていたことを思い出すでしょう。

 このテクストについては,つぎのようなコメントが書かれています。
 ※治癒神としてのイエスを明確に描き出し,人間にとっての信仰と医術との根源的な関係を示唆する本。

 まずは,山形孝夫さんはイエスを「治癒神」と位置づけた上で,キリスト教信仰と医術との根源的な関係について多くの示唆を与えてくれる,とN教授は語ります。たとえば,五大福音書を一つひとつ読み解いていくと,イエスは困っている人,苦しんでいる人,悩んでいる人,などを癒すことに専念していることがわかってきます,と。癒すことが苦しみからの「救い」となり,そこが信仰の入り口になる,というわけです。言ってみれば,イエスは身体の医者ではなかったけれども,間違いなく魂の医者ではあった,と。

 と同時に,そこから類推できることは,古代・中世のキリスト教文化圏における医術は,生きる者の救済に重点が置かれていて,死にゆく者には医術を施してはいない,ということです。なぜなら,死にゆく者とは,神のいる国,すなわち,天国に昇っていく者のことであり,それは苦しみでもなんでもありません。むしろ,幸せなことです。つまり,キリスト教を信仰する者は,死ぬこと自体を恐れたり,苦に病んだりはしません。天国に昇天できる素晴らしいできごととして,むしろ,歓迎されたのではないか,と。場合によっては,恍惚として死んでいった,と。

 だから,生きる者(生きる可能性をもった者)の医術は施したけれども,もはや,生きる可能性をなくした者にはなにも手を出しません。天国への旅立ちの邪魔をしてはいけないからです。ですから,生きる者は生きる,死ぬ者は死ぬ,とはっきり割り切っていたというわけです。

 このことがなにを含意しているかは,すでに,おわかりのことと思います。現代の医療の考え方や姿勢,そして制度としての医療体制とのあまりの差異に,驚くほかはありません。つまり,なにがなんでも「生かす」ことを最優先する考え方との差異です。もっと言ってしまえば,植物人間になってもまだ「生かす」という発想との,あまりの開きにわたしたちはだじろいでしまいます。

 こういう現実がどのような経緯によって生まれてきたのか,この医療思想史の授業をとおして考えていきたい,とN教授。そして,そういうことを考える絶好の素材を『聖書の誕生』(山形孝夫著)は提供してくれる貴重な文献である,という次第です。

 というところで,今日のところはおしまい。



 
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