2013年11月18日月曜日

新国立競技場問題・その1.五輪開催基準を満たすため?とか。

 現在の国立競技場では,オリンピックを開催するためのメイン・スタジアムとしての基準を満たしていない,という。だから,建て替える必要があるのだ,という。単に,老朽化が進んでいるからだけではない,と。今日(17日)の新聞で初めて知った。

 わたしの記憶では,現在の国立競技場もスタンドを増築して,5万人以上の観客を収容できるようになっているはず。それでもなお,オリンピック開催のための基準を満たしていない,という。いったい,何万人の観客を収容せよ,とIOCは言っているのだろうか。そして,その基準をどのようにして定めたのだろうか。新しい付属施設になにを要求しているのだろうか。このあたりの精確で,詳しい情報がほしい(あとで,調べてみたいと思う)。

 もし,この話がほんとうなら,現状のままでオリンピックを招致できるだけのスタジアムをもっている都市はどれほどあるのだろうか。ロンドンですら,新しく建造したし,リオ(ブラジル)もいま新しく建造中という。たぶん,世界中のどこの大都市といえども,ほとんどの都市はIOCの要求する基準に合う競技場を新しく建造しなければならないだろう。ということは,どこの都市で開催することになるにせよ,メイン・スタジアムはすべて新しく建造するしかないのではないか。

 となると,もはや,これからの五輪招致は,大都市の,経済力のある豊かな都市以外は不可能だということになる。どう考えてみても,五輪開催可能都市は,相当に限られてしまうことは間違いない。だとしたら,これからのオリンピック開催都市は一定の基準を満たす,いわゆる先進国の都市の間を順番にまわっていくしかなくなる。五大陸を,可能なかぎり平等に,というオリンピック憲章の理念に反することになる。

 もっと,別の言い方をすれば,途上国で「小さなオリンピック」を小じんまりと開催するなどというコンセプトはもはや通用しなくなってしまった,ということだ。しかしながら,大きいことはいいことだ,自由・平等に競争をして,無限の進歩発展を夢見たヨーロッパ近代の考え方が,いまもそのままIOCを支配しているらしい。この考え方そのものが,とうのむかしに破綻しているというのに・・・。重厚長大という近代の価値観から,むしろ,軽薄短小の小回りのきく価値観が見直されつつあるというのに・・・。

 たとえば,原発問題がそうだ。ドイツではさっさとあきらめをつけ,それに代わる各家,各集落,各事業所,各村,各都市,という具合にできるだけ小さな単位で代替エネルギー(再生可能なエネルギー)の調達に取り組み,すでに大きな成果をあげていると聞く。

 かつてマンモスは,そのからだの大きさのゆえに生物界に君臨したが,逆に,からだの大きさのゆえに環境に適応できなくなり,絶滅してしまった,と聞く。オリンピックも,このままの路線を進むかぎり,その巨大で盛大なるがゆえに人気を博したものの,その巨大・盛大なるがゆえに維持・管理が不可能となり,やがては破綻していくのではないか,とそう思う。

 新国立競技場は,その規模といい,内部施設といい,出来上がれば「世界一」だそうな。その「世界一」の競技場を建設するためには,多少のこと(歴史的景観,やすらぎ,など)は犠牲にしてもいいと考えているらしい。どこぞの首相が考えそうな,経済発展のためなら人命も少々犠牲になるのもやむなし,その部分は「特定秘密」にすればことは済む,などという発想とどこかで通底しているようだ。新国立競技場建造構想が抱え込んでいる問題は,相当に根が深く,複雑怪奇なものであり,けして単純なものではない。その錯綜した力関係については,これから執拗に追求してみたいと思っている。

 その最大のポイントは,だれが得をするのか,だれのために建造するのか,というところにある。

 今日のところは,とりあえず,五輪開催基準を,いまある,あの巨大な国立競技場が満たしていないという事実にびっくり仰天した,というところにとどめておきたいと思う。そして,IOCという組織はいったいなにを考えているのだろうか,と疑問がいっぱい・・・・。

 こういう事実に対して,きちんとした批評をしない/できない土壌の方が,あるいは,もっと大問題ではないか。なぜなら,ここにも「自発的隷従」の陰が潜んでいる。それが当たり前である,それが自然なのだ,と勘違いするIOCを取り巻く不思議な(貴族的な)日常(常識)が,スポーツ界を牛耳っているらしい。われわれ庶民にはとうてい理解不能であるが・・・・。だからこそ,われわれのサイドからの厳正なる批評が重要な意味をもってくるはずだ。また,そうでなくてはならない,とわたしは信じている。
 
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