2013年11月14日木曜日

「股関節を緩める」こと,「沈する」こと,「腰を回転させる」こと,「曲線を描く」こと,「尾てい骨を巻き込む」こと。李自力老師語録・その39。

 「股関節を緩めなさい」,とこれまでどれほど言われてきたことか。それはつぎの動作で「力を導き出す」ための準備局面として不可欠です,と。つまり,それは「力を溜める」ことであり,「力強さ」を表出するための最大のポイントです,と。

 じつは,「股関節を緩める」という表現ほど奥が深く,理解が困難な動作はない,とわたしはかねがね考えてきました。なぜなら,なにを,どのようにすれば「股関節を緩める」ことになるのか,自分のからだで感じ取ることができないからです。つまり,膝の屈伸運動や伸脚運動は随意運動ですので,頭で考えて命令すればからだは,それなりに動きます。しかし,「股関節を緩める」という動作はそうはいきません。

 ですから,わたしは,「それらしきこと」を見よう見まねでやってきました。しかし,今日(13日)の稽古で,「腰が回転していない」という厳しい指摘を受けました。そして,それは「股関節を緩め」ていないからだ,と李老師は仰るのです。そして,いつものように「悪い見本」と「正しいお手本」とを実演して見せてくださいました。「悪い見本」は,みごとなほどの「ものまね」で,自分のことながら爆笑してしまいました。その上で「正しい見本」を見せてくださいました。眼で見れば,なるほど,とこころの底から納得です。

 しかし,「股関節を緩める」ということが自分の体感としては,いまひとつ,ピンときません。そこで,勇気を奮い起こして(というのは,質問することが恥ずかしかったので),「股関節を緩める」ということがまだよくわかっていません,それはどういうことなのか詳しく教えてほしい,と聞いてみました。すると,李老師の眼がキラリと光り,やや間があって,つぎのようなお話をしてくださいました。それを精確にここに記述することはきわめて困難なのですが,いつものように「如是我聞」という前提で書いてみますと,以下のとおりです。

 「股関節を緩める」ということばは中国語では「沈する」と言います。それは膝の関節を曲げて「沈する」のではなくて,股関節の部分をほんのわずか「沈する」のです,と。そうして,さまざまなスポーツでも,力強い動きを発動させる寸前には必ず「股関節を緩め」ています,つまり「沈して」います,と。そして,上手,下手の分かれ目は,この「股関節を緩める」というところにある,つまり「沈する」ことが自然にできているかどうかにある,と。

 この「沈する」ことがわかれば,自然の流れとして「腰の回転」運動が,意識しなくても起こります,と。そして,その動作は間違いなく「直線」ではなくて,「曲線を描き」ます,と。そう言って,立ってたばこを吸っている人の「ものまね」をしてくださいました。そして,その横にいる友人に話しかけると,その友人もまた無意識のうちに「腰を回転」させて向き合いますと仰り,その声をかけられる役をわたしに与えました。そして,やってみますと,わたしのからだはなにも考えないのに「腰を回転」させて向き合っています。このとき「沈する」が無意識のうちに起きている,つまり,「股関節を緩め」ている,と仰います。

 そして,それは直線運動ではなく,かならず「曲線を描く」ことになります,と仰ってイエマーフォンゾンの動作を何回も繰り返しやってみせてくれます。わたしたちも一緒に,必死になって,そのあとを追います。が,やはり,どこか違います。さらに,わたしは勇気を奮い起こして質問をしてみます。すると,意外なことに「尾てい骨を巻き込む」ときにも「沈する」のだ,と仰る。「えっ?!」とわたし。李老師はわざわざその部分だけをやってみせてくださいます。なるほど,言われてみれば「沈して」いることがわかります。

 さあ,これは大変なことになった,と初めてわたしは気づきました。なぜなら,力を表出させる動作のとき以外は,つねに「沈して」いる,と気づいたからです。これまでにも「余分な力は抜きなさい」とつねづね言われてきたのですが,つねに「沈する」ことによって,あの李老師の滑らかな,流れるような動作が生まれているということに気づいたからです。

 さあ,こうなったら,稽古あるのみ,です。
 今日の稽古は薄皮を一枚はがしたように,「沈する」世界が見えてきました。これはとてつもなく大きな前進だと受け止めています。李老師に感謝あるのみです。「老師,謝謝!」。これから気持を入れ換えて稽古に励みますので,こんごともよろしくお願いいたします。
 

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