2013年11月1日金曜日

「<医>における<信>」ということについて。ヒポクラテスにみる二つの<信>の問題。医療思想史・その3.

 N教授の医療思想史のゼミがますます佳境に入ってきました。と書きましたが,それは同時にかなり込み入った内容になってきたということでもあります。ノートをとりながら,何回も鳥肌の立つ思いをしながら聞かせていただいているのですが,家に帰ってからノートをみると肝心要の部分が抜け落ちてしまっています。つまり,聞くことに集中してしまって,聞きほれてしまっているのです。そのためにボイス・レコーダーを用意していくのですが,それをセットすることまで忘れてしまっているという情けなさです。

 というわけで,これから書くことは,わたしのわずかな記憶と印象を頼りに書くことですので,間違っていることもお含みおきください。でも,わたしにとってはどうしても書いておきたい重要な内容を含んでいますので,あえて,そこに挑戦してみたいというわけです。つまり,いま,文章化しておかないと,また,きれいに忘れてしまいかねないからです。

 そのテーマが表題に書きましたように「<医>における<信>」というものです。この関係が,ヒポクラテスをとおして浮き彫りになってくる,しかも,ヒポクラテスの<医>の問題を考えるときの核心部分に相当する,とN教授。そして,ヒポクラテスは二重の意味で<信>の問題と深くかかわっていたというわけです。

 それを,わたしが理解しえた範囲で整理しておくと以下のようになりましょうか。

 医師であるヒポクラテスは全知全能ではないことを自覚しています。しかし,病者からは全面的な信頼を受け,身を投げ出すようにして命を信託されてしまいます。すると,さすがのヒポクラテスといえどもたじろいでしまいます。ですから,そのたじろぎを支えるための装置が必要になってきます。そうして,当時,広く知られていた医神アスクレピオスに助けを求めます。そして,アスクレピオス神に絶対的な<信>を置くことによってヒポクラテスは安心立命し,<医>に専念します。つまり,ヒポクラテスの時代の<医>は,こういう意味で,ある種の「特別の職能」であった,というわけです。

 いったい,ヒポクラテスの時代の<医>とはなんだったのか,微妙な問題がその周辺には漂っていたように思います。つまり,論理的な<医>と,人知を超越するところの<医>との狭間で揺れ動く,そういう意味での微妙さの問題です。

 そのもっとも分かりやすいポイントは,ヒポクラテスの<医>はアスクレピオス神殿で行われていた,という事実です。しかも,ヒポクラテスはアスクレピオスの末裔であると名乗り,父祖代々医業を引き継いできたと主張します。ということは,ヒポクラテスの始祖はゼウス神ということと同じことを意味します。すなわち,アスクレピオスの父はアポロン神,そのアポロン神の父はゼウス神ですから,ヒポクラテスの始祖はゼウス神というわけです。

 ここから,もう一つの知見が開けてきます。アポロン神は「神と人間の中間」にある神だとされています。そのアポロンがみずからの太股を切り裂いて,死んだ妻の体内にあった未熟児を埋め込んで育てます。そうして誕生したのがアスクレピオスだといいます。しかも,アポロン神は,このアスクレピオスをケンタウロスに預けて育ててもらいます。ケンタウロスはご存じのように半人半獣です。いわゆる冥界に住む魔物ですが,同時に,ケンタウロスは「癒しの力」をもっていました(このあたりのことは,じつは,とてつもなく深い,動物と人間の関係を考える上で,重要な内容を含んでいます。その点については別稿で考えてみたいと思っています)。この「癒しの力」をアスクレピオスはケンタウロスから伝授されます。こうして医神アスクレピオスが誕生することになります。

 つまり,アスクレピオス自身が神の世界から人間の世界に限りなく近いところにありながらも,なおかつ,神の世界に片足を残しているというわけです。その末裔であると名乗るヒポクラテスもまた,人間の世界に誕生しますが,こころのどこかにゼウス神を始祖とするアスクレピオス神への信仰心(信頼・信託・委託)がしっかりと根付いています。

 ですから,ヒポクラテスはアスクレピオス神殿に身をおき,そこで<医>を営むことになります。そして,冒頭に書いたように,ヒポクラテスは病者の<信>を引き受け,こんどはアスクレピオス神への<信>にすがって,みずからの<医>を展開したというわけです。

 このような位置に立ちながら,ヒポクラテスは「死にゆく病者」と「生命力を残している病者」とを区別して,「死にゆく病者」は聖職者の仕事,医師は「生命力を残している病者」を支援することだ,と考えました。それでも,病者を支援する仕事は「禍々(マガマガ)しい仕事」であり,穢れ(ケガレ)に触れる仕事ですから,そこから救済されるためにもアスクレピオス神を信ずることによって<医>に取り組んだというわけです。ここのところはきわめて重要なことだと,わたしは受け止めています。<医>は,こんにちのわたしたちが考えるような単純なものではない,つまり,科学合理主義で片づけられるような問題ではない,という意味で。

 もう一点だけ,触れておかなくてはならないことは,つぎのような神話です。アスクレピオスは,ケンタウロスから冥界に通ずる「癒しの力」を引き継いでいましたので,あるとき,死者の前で嘆き悲しむ親族に請われて,不本意ながら,死者を生き返らせてしまいます。このことを知ったゼウス神は,怒り狂ってアスクレピオスに雷を落として感電死させてしまいます。孫を殺したのです。理由は,医は地上の生命を支援するためのものであるのに,地下の死の世界に踏み込んで,死者を生き返らせるという領域侵犯をなした,これは許せない,というわけです。

 もちろん,この神話はゼウス的コスモロジーのもとでの話です。しかし,それだけの問題で済ませてしまっていいのでしょうか,とN教授は暗示しているように,わたしには聞こえました。

 この神話がヒポクラテスの頭のなかには避けがたい大原則として刻印されていたと言っていいでしょう。ですから,<医>は生命力のある病者を支援することであって,死にゆく病者に手を出してはならない,というヒポクラテスの掟(誓い・医の倫理)を徹底させることになります。

 この問題は,現代医療の問題を考える上で,ある根源的な示唆を含んでいるのではないか,とわたしは受け止めています。まだまだ,考えなくてはならない問題が山のようにあります。今日のゼミは,わたしにとっては忘れられない,記念すべき日であったように思います。

 というところで,今日のレポートはおしまい。








 
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