2013年11月24日日曜日

仏教伝来は天地がひっくり返るほどの大事件だった?どうも,そんな気がしてならないのだが・・・・。出雲幻視考・その14。

 だれもが知っている仏教伝来(公伝)の話。538年(元興寺縁起)とも,552年(日本書紀)とも言われている。が,年号のことは多少,どちらでもいい。百済の聖明王が使者を立てて大集団を,すでに同盟関係にあったヤマトに派遣してきた,という。このときの主役は仏教を伝えるための金銅の釈迦如来像と経典とその教えを説く僧侶の集団だった。のみならず,死者を弔う葬式の方法や,それを支える職能集団も一緒だった。この他にも鉄を製造・加工する技術者や利水を得意とする土木の専門家や,その他もろもろの技術者集団を引き連れて,百済から大挙してヤマトにやってきた,という。

 こんな仏教伝来の話をまとめた番組がNHK・BSプレミアムで放映されていた(11月21日,午後8時~9時,「歴史館 仏教伝来!異国の神がやってきた 古代日本の文明開化!?」)。わたしは,いつものように,この番組に向かって大きな声で「吼えて」いた。「嘘をつくな!」「なにを根拠にそんなことを言うのか!」「ディレクターのめん玉はどこについてるんだ!」という具合に。そのうち,解説者が3人,順番にあれこれ解説をはじめた。これがまた,もっとひどかった。もう,チャンネルを切り換えて,別の番組でもみようかと番組表に手をのばしかけたとき,アナウンサーが妙なことを言った。

 「仏教伝来は古代日本の文明開化ととらえることはできませんか」と問いかけたのである。ここから,急転直下,話はじつに面白くなった。でも,具体的な事例を取り上げて,得意気に解説する先生方の話は,つまらなかった。もう聞き飽きたアカデミズムが「でっちあげた」話ばかりだったから。ただ,録画で登場した古代史の専門家のなかに,「ああ,この人の説は面白い」と思う発言がいくつかあった。この話はわたしを興奮させた。

 いつもなら,ノートをとるのだが,最初から腹が立っていたので,ただ,吼えることに専念していたために,なにも記録がない。だから,これから書くこと(上にすでに書いたことも含めて)は,そのときに耳にした記憶を頼りにしたものなので,記憶違いも多々あることをお断りしておく。それよりも,そのときに,わたしのからだの中を「電撃」が走った。そして,そのときにわたしの頭のなかに妙な発想が浮かび上がり,これはこれは・・・・いかなることか・・・,と自分で興奮してしまった。そのときに思い浮かんだことのうち記憶に残っているものをいくつか書きとめておきたいと思う。

 仏教伝来・・・?これは百済によるヤマト支配のはじまりだったのではないか?

 こんなことが突然,わたしの脳裏に浮かんだ。
 いうならば,百済がヤマトを植民地化する,そのはじまりだったのではないか。仏教は,百済とヤマトの文化水準の圧倒的な差をみせつけるための最高の武器ではなかったか,と。

 その当時のヤマトの人びとの信仰の中心にあったものは,磐座信仰であった。つまり,山の頂上に鎮座する大きな石や,あちこちに点在する巨岩や奇岩に神の宿りを感じとり,なにかのおりには祈りを捧げ,安心立命することを習わしとしていた。その典型的な例が奈良・三輪山の磐座であり,三輪山の奥にひろがる「ダンノダイラ」の磐座である。ついでに言っておけば,ここは出雲族の拠点でもあった。

 そういう自然崇拝ともいうべき磐座信仰の世界であったヤマトに,仏教が伝えられたのである。しかも,金ぴかの仏像とともに。その仏像はお釈迦さまの如来像だから人間の姿をしている。つまり,神が人間の姿として目の前に出現したのである。その上に,人間・仏陀(お釈迦さま)が教え説いた思想,つまり経典が目の前に置かれ,これを熟読玩味し,それを日夜唱えると,仏教の教えが自然につたわってくる,というのである。さらに,その経典の読解の仕方,その意味・思想を説いて教える僧侶も目の前にいる。

 自然崇拝という眼にみえない神さまの代わりに,目の前に,仏像として眼にみえる神さまが出現したのである。これは,当時の人びとにとっては天地がひっくり返るほどの大事件だったのではないか,とわたしは直感した。それも単なる大事件ではない。

 ヤマトの素朴な磐座信仰に比べれば,仏教は立派な思想・哲学をもった体系的な,立派な世界宗教である。僧侶集団も,その修行や解脱(さとり)や学識に応じてきちんと組織されている。そして,仏教の説く教えのもとに,さまざまな儀礼もきちんと整備されている。とりわけ,多くの人びととのこころを捉え,惹きつけたであろう葬儀の方法は,だれの眼にも納得できる説得力をもった儀礼であったに違いない。

 この文字を読み,その教えを説く僧侶たちの存在は,もはや不動の地位を築いたに違いない。ヤマトのリーダーたちは,百済王の差し遣わした使者や僧侶,そして,さまざまな技術者集団(職能集団)に驚異の眼を向けて,羨望のまなざしを向けたに違いない。そして,これらの高文化をもたらした人びとに恐るおそる接近し,その教えを乞うたに違いない。こうしてヤマトの豪族たちは,ことごとく百済の使者たちに敬意を表し,帰依し,弟子入りすることになったのではなかったか。

 そして,そのことにだれよりも早く対応し,百済文化をわがものとした豪族が,のちに名を残す有力豪族になっていったのではなかったか。このように考えてくると,聖徳太子という偶像を立ち上げて(実在しなかったという説をわたしは支持している),仏教をめぐる諸矛盾をマニピュレートし,まったく事実に反する物語(記紀)をでっち上げることに成功した,権力側のその間の事情もなんとなくわかってくる。大和朝廷は,いかにして,この仏教伝来を「きれいごと」のうちに収め,合理化するか,ということに相当に腐心してきたのではなかったか。つまり,百済とヤマトとの関係を,それぞれ別個のものとして切り離しておくこと,もっと言ってしまえば,いっとき,ヤマトは百済の植民地であった,という事実隠しのために「記紀」の作文が必要であった,と。

 いま,わたしの頭のなかは,ニギハヤヒとジンムの関係(国譲り)の話にまで飛躍していて,ジンムとスジンは同一人物説をとるとすると,そのつぎのスイニンとノミノスクネの関係も,おやおや?と思うある閃きがわいてくる。そして,一気にトミノナガスネヒコの存在がクローズアップされることになる。そして,全部「トミ」つながりになっている奈良県の登美が丘,富雄川,鳥見山,外山,等彌神社,の事跡をさらに追求する必要があるのでは・・・・?とわたしの想像力は飛翔する。

 最後に,ノミノスクネが葬送儀礼にたずさわる職能集団の出身(しかも,出雲の人)であったということが事実だったとすれば,この人の存在をどのように考えるか。そして,その子孫である菅原道真と藤原一族との対立抗争も,まったく新たな地平からの,つまり,教科書的記述とはまったく異なる,意外な日本古代史の裏面が浮かび上がってくるのだが・・・。

 いよいよ,わたしの妄想はエンドレスにつづく。そして,この妄想のなかに,なんだか真実のかけらが潜んでいるのではないか,とも期待しているのだが・・・・。
 
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