2013年11月5日火曜日

『敗者の古代史』(森浩一著,中経出版,2013年9月刊)を読む。出雲幻視考・その11.

 鳥見山登山を終えて,八木駅で近鉄に乗り,京都に行こうと思ってホームに入っていったら,目の前を京都行き急行が発車していく。まあいいや,つぎの急行を待とうと思って時刻表を確認したら,30分も待たなければならないことがわかる。仕方がないと覚悟を決めて,ホームのなかをうろうろしていたら,本屋さんがあることを知り,ここで時間をつぶそうと入る。

 レジのそばに特別コーナーがあって,そこには奈良の歴史に関する書籍が集めてある。これ幸いとばかり片っ端から本をめくり,ずいぶんいろいろの本が出ているものだと感心していたら,一冊の本が買ってくれと呼びかけてくる。いつものシグナルだ。タイトルは『敗者の古代史』(森浩一著,中経出版,2013年)。そういえば以前に,広告をどこかでみた記憶がある。これがご縁というものなのか。

 目次をみてびっくり。
 いきなり,第一章がニギハヤヒノミコトとナガスネヒコ,とある。あわてて中味を確認する。そこにはとんでもないことが書かれている。

 まず第一に,宗像神社のことが写真入りで紹介され,この神社はニギハヤヒの天降りのときに一緒にやってきた神社ではないか,と森浩一さんは書いている。

 なにを隠そう,この日の鳥見山登山のために等弥神社に向かう途中で,車のなかからわたしが叫びました。「いま,通過したあの神社はなにっ?」と。運転しているTさんが「以前から気になっているんですが,まだ,確認はしていません」という。じゃあ,確認しに行こう,ということになり車を引き返す。そんなに大きな神社ではないが,どことなく独特の雰囲気がある。近づいてみると,鳥居のところに「宗像神社」と書いてある。

 そのときには,まだ,森浩一さんの推測を知らない。ウーン,なぜ,こんなところに九州の神様が祀られているのか,とわたしは考える。いつ,だれが,どんな理由でここに宗像神社をもってきたのか。しかも,地政学的にみれば,まことに複雑な勢力がせめぎ合った場所に。境内をぐるりとめぐって戻ってくると,鳥居の外の右横に「能楽の碑」が立っている,とTさん。しかも,「宝生流発祥の地」とあそこに書いてあります,とTさんがいう。

 えっ!と思わず声を発してしまいました。なぜ,この宗像神社の場所が宝生流の能楽の発祥の地と重なるのか。これはまぎれもなく宗像神社が宝生流の発祥に背後から後援したに違いない。能楽の原形は朝鮮半島にあると記憶しているので,これはまた調べなくてはならないことがひとつ増えてしまった。

 しかも,森さんは,この宗像神社のすぐ近くにある茶臼山古墳は,ニギハヤヒの古墳ではないか,と推測している。このあたり一帯の地名は「外山(とび)」という。なにゆえに「外山」と書いて「とび」と読ませるのか,このことが以前からわたしは気がかりになっていた。そして,だれかの書いた本のなかに(村井さんの本か?),ジンムが苦戦しているときに道案内に現れたという金鵄,すなわち,トビにちなむ地名ではないか,と書いてある。それにしても,なぜ,「外山」なのか。

 ところが,森さんはいとも簡単に「外山(とび)」と「鳥見(とみ)」は同じ意味だと,このテクストのなかで書いている。そして,そこには深入りしていかない。なぜか? 読み方によっては,意図的に避けている。それどころか,完全に忌避している,と思われる。その理由をいくつか挙げておこう。

 一つには,総じて,この地域一帯をニギハヤヒの側から思考し,分析している姿勢が強いことがある。それはこのテクストの題名「敗者の古代史」からくるとも考えられるが,それだけではなさそうである。たとえば,ジンムの記録はニギハヤヒに比べたら,まことに貧弱なものでしかない,ともいう。第一,ジンムに関する古社はどこにも見当たらない,とも。それに引き換え,ニギハヤヒの古社はいたるところに点在している,という。ジンムへの基本的な懐疑が森さんのなかにはあるのかもしれない。
二つには,桜井茶臼山古墳と一般的には呼ばれている巨大古墳を,わたしは「外山茶臼山古墳」と呼ぶことにしている,とわざわざ断り書きをしていることがある。つまり,「桜井」では意味がない。「外山(とび)」と冠を載せることによって,よりこの古墳の実態や性格が浮かび上がってくるからだ,と強調している。
三つには,森さんは鳥見山という表記を用いてはいない。国土地理院の地図でも「鳥見山」と書いてある山を指して「鳥見白庭山(とみしらにわさん)」と,一貫して書いている。そして,ここがニギハヤヒが二度目の天降りをした「大和の鳥見の白庭山」であると,なんの躊躇もなく断定している。この記述をみて,わたしはあっけにとられてしまった。根拠も推理もなにも示すことなく,ここがニギハヤヒが降臨した「鳥見白庭山」だと言い切っているのだから。こんなことは当たり前のことだと言わぬばかりに。

 わたしが,ようやく,この鳥見山こそ「鳥見の白庭山」ではなかろうか,と当たりをつけているというのに,森さんはすんなりとこともなげに断定している。言外には,考古学的ななにか確信があるとでも言わぬばかりに・・・。少なくとも,そんな雰囲気も感じられる。このあまりの自信に圧倒されてしまうほどだ。

 四つには,宗像神社を取り上げ,外山茶臼山古墳をニギハヤヒの古墳と推理し,鳥見白庭山を断定し,これだけの確信的な持論を展開されているのに,なぜか,等弥(とみ)神社についてはひとことも触れていないのはなぜか。森さんともあろう人が等弥神社の存在に気づいていないはずはない。いな,鳥見白庭山の頂上にはみずから登っているはずだし,そのためにはいやでも等弥神社を通り抜けていかなくてはならないのだから。では,なぜ,等弥神社を無視するのか。そこには,現段階では触れることのできない,森さんなりの意を決するところというか,かなり強い意図が感じられる。それは,なにか。

 なぜ,森さんがそのような,一見したところ,優柔不断な姿勢をとるのか,わたしなりにわからないでもないことがある。それは,どう考えてみても天皇制批判につながっていくこと以外のなにものでもないからではないか。

 鳥見(とみ),外山(とび),等弥(とみ)の不思議な連鎖と記憶の問題,あるいは,そこにみられる「詩と真実」については,一度,わたしなりの仮設を展開してみたいと思っている。なぜなら,そこにこそ古代史の謎を解く,ひとつの大きな鍵が隠されているのではないか,と考えているからだ。

 ということで,今日のところはここまで。








 
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