2015年1月17日土曜日

「スポーツ学」とはなにか・その8.スポーツする人間とはなにか・Ⅱ。

 その7.「スポーツする人間とはなにか」(Ⅰ)のつづきです。すなわち,(Ⅱ)。

 前回の結論は,「スポーツする人間」は,西田幾多郎がめざした「絶対矛盾的自己同一」のひとつの実現形態である,ということでした。この結論は大急ぎでくだしたものですので,大いに飛躍がありました。そこで,今回は,その飛躍の部分をもう少しだけ立ち入って考えてみたいと思います。

 西田幾多郎は『善の研究』という本のなかで,「純粋経験」という概念を提示しています。わたしたちは,生まれてから死ぬまでの間にいろいろの経験をします。それらの経験の多くは,ある事象の進展と思考とがフィードバックしながら脳やからだに刻まれていきます。そして,それらが経験知となって蓄積されていきます。

 しかし,西田幾多郎が提示した「純粋経験」はそういう経験のなかでもきわめて特殊なものを意味しています。それは,わたしたちの意識が立ち現れる前の「経験」を意味しています。たとえば,気がついたらからだが動いていた,というような経験です。無意識のレベルでからだが反応する,といえばいいでしょうか。こういう経験を西田幾多郎は「純粋経験」と名づけました。

 もう少し具体的に考えてみましょう。たとえば,「転ぶ」という経験。これはだれもがしたことのある日常的な経験です。しかし,この「転ぶ」という経験は,よく考えてみますと不思議な構造になっていることがわかってきます。

 なにかに躓いて,からだが投げ出され,重心を失って倒れ,勢いあまって転がる,という場面を想定してみましょう。なにかに躓いた瞬間は,なにが起きたのかわかりません。「ハッ」とするだけです。しかし,からだは無意識のうちにすでに身構えています。この身構えるからだが「純粋経験」です。意識が立ち現れる以前に起こる行為(=経験)というわけです。そして,からだが投げ出されて宙に浮いたころになって,なにが起きたのか朧げながらわかってきます。ここからさきは徐々に意識の世界に入っていきます。最後に転がるときには,きちんと意識がもどってきて,とっさに受け身をとったりします。

 つまり,「転ぶ」という経験は,ほんの一瞬のできごとですが,最初の瞬間には自己を見失います。見失いつつもからだは勝手に反応します。そのあとに,自己が立ち現れ,意識的に対応をしようとします。この自己が自己ではなくなる経験,これが「転ぶ」という経験のポイントとなります(荒川修作・「養老天命反転地」)。別の言い方をすれば,「自己を超え出る経験」です。これが純粋経験の核心です。

 ここまで考えてくれば,この「純粋経験」がスポーツの場面ではいくらでも表出する,わたしたちには馴染みのある経験だということがわかってきます。お相撲さんがよく口にする「からだが動く」も純粋経験です。調子がいいときには,頭で考え,命令をする前に,からだが勝手に動く,ということです。しかも,この「からだが勝手に動く」ことの背景には十分な「稽古」があることは当然です。稽古を積み重ねた結果として,お相撲を取るからだができあがってきます。そして,絶好調のときには「からだが勝手に動く」という状態になる,というわけです。

 こんな経験はどのスポーツにもあります。むしろ,スポーツはこの「純粋経験」の冴え方を競い合っていると言っても過言ではないでしょう。西田幾多郎は,この「純粋経験」をさらに追求していって,そのさきに現れるからだの反応を「行為的直観」と表現しました。つまり,からだの動き(行為)となって表出する直観,ということです。ふつうに直観と言った場合には,からだの動きは伴わない「静的」なものを意味します。しかし,それとは異なる,からだの動きを伴う「動的」な直観が存在すると西田は考えました。それが「行為的直観」です。

 たとえば,剣道の試合を考えてみましょう。相手の竹刀が打ち込みにかかった瞬間に受け手は無意識のうちにその打ち込みにもっともふさわしい構えをとります(稽古の賜物ですが)。そして,つぎにどのように裁いて,どのように打ち返すかも瞬時にからだが反応していきます。この反応は意識とは無関係です。そして,お互いが打ち合ってすり抜けたあとになって意識が蘇ってきます。ですから,打ち合った瞬間のことはほとんど記憶に残っていないということがよく起きます。このとき働いているのは「行為的直観」だ,と西田は考えました。

 気と気が触れ合って共振し,からだとからだが反応し合って共鳴し,瞬時にして打ち合いすり抜ける・・・この一連の動作が無意識のうちに繰り広げられる。こういうことが,時として起こる場合があります。これが「行為的直観」の出現の「場」です。言ってしまえば,からだのひらめきの「場」,ということになります。

 しかし,からだがひらめく,という事態を詳細に,あるいは,論理的に説明することは不可能です。なぜなら,「行為」と「直観」とは相容れないものであるからです。つまり,ふつうに考えれば,あるひらめき(直観)があって,その上でからだが動く(行為)という順序を踏みます。しかし,「行為的直観」は,からだがさきに反応することによって成立する「直観」,あるいは,両者が同時に反応することによって立ち現れる「直観」です。つまり,矛盾したことが,瞬時にして同時に起きる(起きている)と西田は考えました。

 人間の行為,日常の所作というものも,よくよく考えてみると,そのほとんどが無意識のもとで行われています。考えるともなく動いたり,動いてしまってから考えたり,というようなことはいくらでも起きています。このとき,わたしたちは「行為」も「直観」も意識してはいません。むしろ,無意識のうちにこの矛盾する両者を連動させています。そして,みごとに調和させています。わたしたちの生活(生きる営み)はこの矛盾する両者のみごとなバランスの上に成り立っているということがわかってきます。こうした調和状態のことを西田幾多郎は,ひとくちで,「絶対矛盾的自己同一」と表現しました。

 もちろん,厳密にいいますと,西田幾多郎のこの「絶対矛盾的自己同一」という概念はもっともっと深い意味と広がりをもっています。たとえば,わたしたちは「動物」であると同時に「人間」でもあります。この両者も「絶対矛盾」です。しかし,この両者を「自己同一」させないことには,現実の生活は成り立ちません。この問題をもっと解いていきますと,本能と理性,情動と知性,感情と思考,こころとからだ,という具合に,「絶対矛盾」を抱え込みながら「自己同一」することによって,わたしたちの「生」が成立していることがわかってきます。

 このように考えてきますと,「スポーツする人間」というものは,こうした「絶対矛盾的自己同一」を,一定の条件(ルール,場所,観衆,用具,施設,など)のもとで,いかにしてより高いレベルで実現させるか,ということを日夜,考え,努力している「生きもの」だ,ということがわかってきます。すなわち,スポーツは人間を,その内なる動物性をも含めて,トータルに鍛え,発現させる文化である,と言っていいでしょう。

 以上から明らかなように,「スポーツ学」は,「人間」や「スポーツする人間」について,さまざまな角度から理解を深めていき,最終的には,「スポーツとはなにか」を探求していく新しい「学」の成立をめざします。

 その9.では「スポーツとはなにか」について考えてみたいと思います。
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