2015年1月6日火曜日

「スポーツ学」とはなにか。その6.人間とはいかなる存在なのか。

 「人間とはなにか」。この問いは永遠のテーマです。「わたし」という存在ですら謎だらけです。人間が存在するということは,いったいどういうことなのか。たんにモノ(物質)が存在するのとは意味が違います。もちろん,動物の存在とも違います。わたしたち人間には,ことばがあり,そのことばをとおしてものごとを考える力とそれらを記憶する力があります。にもかかわらず,動物と同じ本能的な衝動を一番深いところに宿しています。言ってしまえば,理性(人間性)と本能(動物性)の両方を持ち合わせた二重構造の存在,それが人間です。

 そして,ここが,わたしたちが「人間とはなにか」を考える上で,もっとも重要なポイントとなります。

 もともと人間は動物一般と同じ動物性の世界に生きていました。つまり,たんなる動物として生きていました。そこでは,自分と他者の区別がありません。動物性の世界とは「水のなかに水が溶け込む」ように,自他の区別のない世界のことです。ですから,他者が存在することも,自分が存在していることも意識していません。あるのは,動物としての生存競争だけです。それはひたすら生き延びるための本能といっていいでしょう。

 このような動物性の世界から,人類は,あるとき<横滑り>(バタイユ)を起こし,他者を意識すると同時に自己を意識するようになります。つまり,突然変異が起きました。しかし,このときなぜ人類に突然変異が起きたのかはわかっていません。しかし,そのとき以来,人類は自他の識別をすることができるようになり,自己が生き延びていくために役立つもの(有用性)はなにか,と考えるようになります。こうして,人類は動物性の世界から離れ,人間性への扉を開きます。

 ここからさきは一直線です。まずは,ことばをわがものとし,死者を悼み,道具を考え出したりします。そして,より精確に他者(対象)を識別するために名前をつけることをはじめます。こうして原初の人間はいろいろのことを考えながら行動するようになります。つまり,本能的な行動から,次第に理性的な行動へと軸足を移していきます。

 しかし,このとき大きな問題が新たに発生します。一つは,本能と理性の折り合いのつけ方です。もう一つは,理性では捉えきれない自然の「力」の存在です。前者の本能と理性との折り合いのつけ方については,こんにちもなお大きな問題として存続し,わたしたちを悩ませつづけているとおりです。もう一つは,原初の人間には想像もつかない自然の驚異ともいうべき不思議な「力」と向き合うことになります。つまり,自己を超越する大自然の「力」の存在とつねに向き合うことになります。それは,やがて,「存在不安」となって自己に跳ねかえってくることになります。

 こうして,原初の人間は,自己をはるかに超える絶対的な他者として「神」を見出します。これが「超越神」です。やがて,原初の人間は,この「超越神」に救いを求め,祈るようになります。ここが「宗教」的なるものの起源です。こうして人間は困難に出会ったり,幸運に恵まれたりすると,この「超越神」に祈るということをはじめます。こうして「祈り」の儀礼(身体技法)が徐々に高度化し,複雑化していきます。やがては呪術的な儀礼もここから派生してきます。

 それらの儀礼を支える身体技法の根幹をなすものが,歌と舞い踊り(歌舞音曲)です。歌と舞い踊りは神との交信のためのもっとも重要な手段となります。ときを経て,神への祈りを捧げるための祝祭空間や場が確保されるようになります。最初は歌と舞い踊りが主役です。そこに,たとえば,狩猟や戦闘などで磨き上げられた驚異的な身体的パフォーマンスが加わります。さらには,さまざまな生業形態を背景にした驚異的な身体技法が参入します。この点については,「その7.スポーツする人間とはなにか」で,もう少し詳しくふれることにしましょう。

 ここでは,原初の人間とは「超越神」に祈りを捧げることによって「存在不安」の解消をはかろうとし,安心立命する存在であった,ということを銘記しておきましょう。

 さらにもう一点だけ重要なポイントを加えておけば以下のようになります。
 人間とは「有用性」を追求する存在である,という視点です。「有用性」とは文字どおり「役に立つ」ということです。その技法の中心になるのは「火」の制御であり,狩猟・採集であり,動物の飼育であり,植物の栽培であり,道具の創意工夫です。つまり,自然の領域への人間による積極的な介入です。人間が自然の土を耕すことに起源をもつ「文化」のはじまりです。

 こうして,原初の人間は大自然と闘い,その多くを思いのままに支配することに成功していきます。そのプロセスについては,ここでは割愛させていただきます(ずいぶん前のブログで詳細に論じていますので,そちらを参照してみてください)。この間,人間はこの「有用性」という考え方を前面に押し立てて,自然を制服していきます。そして,次第に大自然への畏敬の念が希薄化し,自然のあらゆるものを人間にとって役立つものとして利用しようという野望をいだくようになります。そうして登場するのが近代科学です。

 この近代科学は飛躍的な発展を遂げ,さまざまな利便性を人間にもたらしました。その結果,わたしたちの生活は一変してしまいました。そして,近年の最先端の科学・技術は,自然界に存在しないモノまで開発し,とどまるところを知りません。たとえば,核エネルギーであり,iPS細胞です。これらの開発がもたらす功罪は評価が分かれるところです。しかし,わたしたちはもはやこうした科学の力と無縁では生活ができないところにきています。しかも,科学者たちの興味・関心は未知なる世界の開発に向かってまっしぐらです。

 いまでは,最先端の科学・技術は新しい時代を生きる人間にとって,かつての「宗教」にとって代わる,まったく新たな「宗教」と化している,と言っても過言ではありません。すなわち,「科学・技術」に無条件に依存する生き方のはじまりであり,それは新たな信仰とでも呼ぶしかありません。ということは,わたしたちは,ふたたび,自己を見失い,新たな「存在不安」に脅かされている,そういう時代を生きているということでもあります。

 同時に,気づいてみれば,自然環境が恐ろしいほどに破壊され,もはや,人間の棲息をも脅かす時代にも突入しています。いま,わたしたちは,この最先端の科学・技術と環境との折り合いをどのようにつけていくべきか,という大きな壁にぶち当たっています。ここを,どのように通過していくべきかが,いまを生きるわたしたちの喫緊の課題となっています。

 そして,いま,もっとも求められている考え方は,人間は,血の通った「生身のからだ」をもった存在であるという認識です。これからさき,どこまで進化して行ったとしても,「生きもの」であることからは逃れられない,ということです。しかも,この「生きもの」は,本能と理性に引き裂かれた存在であるということです。人間とは,このような存在である,ということをしっかりと認識することが肝要です。
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