2015年1月23日金曜日

「野見宿禰」論──瓦礫の山からの幻視考・「歴史の女神」(W.ベンヤミン)に寄り添って。研究報告・覚え書き。

 1月24日(土)は奈良・若草山の山焼きの日。この日は,わたしの第二の故郷・奈良へのお里帰りの日。奈良教育大学を退職して上京依頼,毎年,欠かしたことはありません。奈良教育大学の教え子たちとの約束です。この日には帰ってきて,なにかお話をする,というのが恒例となっています。数えてみれば,ことしで27回目。途中,雪のために新幹線が止まってしまった年が一回だけありました。その年以外は,毎年,山焼きをじっくりと鑑賞してきました。奈良に住んでいた19年を加えると,計46年も山焼きを眺めてきたことになります。いまや,山焼き評論家を自認しています。

 さて,山焼きが終われば,楽しい懇親会。一年の空白を埋めるために,それぞれにこの一年のできごとについての報告があります。それがなによりの楽しみの一つでもあります。教え子たちが年々,立派な人間に成長していくさまを,この眼で確認できることの喜びは,また,格別です。教師冥利につきるというところ。

 それはともかくとして,その前に,集まってきた教え子たちに向かって,わたしからの報告をしなければなりません。その要旨を少しだけまとめておきたいと思います。

 ことしのテーマは,「野見宿禰」論──瓦礫の山からの幻視考・「歴史の女神」(W.ベンヤミン)に寄り添って,です。

 野見宿禰については,もうすでに長い間,考えつづけてきました。お蔭で,かなりのことがわかってきました。しかし,それでもなお,核心部分については,杳として不明です。ひたすら想像力をふくらませて,あれやこれやと幻視を楽しむ程度でしかありません。まあ,古代史の世界はどうしても不明なことが多く,仕方のないことではあります。しかし,それでもなお,真相(深層)に迫りたいという欲望は絶ちがたくこころの奥底に蠢いています。

 この欲望がつづくかぎりは野見宿禰の実像を追ってみたいとおもっています。それを支えてくれる理論がW.ベンヤミンの「歴史の女神」という考え方です。ベンヤミンもまた,近代歴史学が主張した資料実証主義の可能性と限界を見届けた上で,その限界のさきに存在するはずの歴史の真実に迫ろうと考えていました。資料実証という嵐が吹きまくり,これはと思われる資料はすべて渉猟されてしまい,残るは瓦礫の山でしかありません。それでもなお,資料実証という「風」に吹き飛ばされそうになりつつも,その「風」に必死で耐えて立ちすくんでいる「歴史の女神」を見出したい,この女神に接近したい,とつねづね考えてきました。

 その世界は,確たる証拠はなにもありません。そこは虚実が入り交じった,混沌の世界でもあります。しかし,その虚実の皮膜の間(あわい)にこそ,歴史の女神が微笑んでいるに違いない,とW.ベンヤミンは考えました。わたしもまたこの謂いにならって,野見宿禰の真実という「歴史の女神」に接近してみたいと密かに企んでいる次第です。

 その企みのいくつかは断片的にこのブログにも書いてきました(検索してみてください)。それらの点と点をつないでいきますと,これまたまったく新しい野見宿禰像が立ち現れてきます。これがまたたまらない魅力です。その要点を整理してみますと,以下とおりです。

 崇神と神武は同一人物であるという説に立てば,崇神のつぎの垂仁は,ヤマトの大王(天皇の諡号が用いられるのは推古説と天武説の二つがありますが,それまでは天皇を名乗る人はいなかったわけですので,「大王」と呼ぶのがふさわしいと考えています)の二代目ということになります。つまり,出雲から譲り受けたばかりのヤマトをいかに平定し,新たな秩序を構築していくか,という神武・ヤマトの草創期ということになります。つまり,まだまだ混沌とした,素朴な権力しか存在しなかったはずです。その草創期に「出雲の人」野見宿禰を召し抱えた垂仁はいったいなにを考えていたのでしょうか。まつろわぬ豪族・当麻蹴速と相撲(決闘)をとらせた話は有名です。それだけではなく,野見宿禰は埴輪を提案して,古墳時代に新しい息吹を吹き込みます。つまり,大王の死にともなう人身供犠を廃止します。これは,言ってみれば,大改革です。

 のみならず,埴輪を焼く技術をもっていたので,その特技を活かして「土師」氏を名乗ることを垂仁から許されます。以後,土師氏はその勢力を全国に向けて拡大していくことになります。そして,埴輪を焼くだけではなく,古墳の造営や葬送儀礼にも深くかかわっていくことになります。そうした特殊な職能集団として,その勢力は全国の津々浦々にまで及んでいきます。その証拠は,スサノオやオオクニヌシやノミノスクネを筆頭とする,いわゆる「出雲」族の神様を祀る神社が,他の神社を圧倒するほどの数で存在しています。しかも,これらの神社は,こんにちもなお存続しているということが,なによりの根拠です。なかでも,オオクニヌシは全国にひろがる「一の宮」ネットワークの中心をなしています。

 しかし,それにしては,日本の歴史の表の世界に出雲族はほとんど登場してきません。もっぱら,日本史の裏の世界で隠然たる力を発揮しながら,天皇家と一定の距離を置きつつ,あるバランスを保っていたようです。唯一の例外は,菅原道真だけです。かれは桓武天皇との縁故(桓武は幼少のころから道真の塾で教えを受けていた)もあって,重用され,大きな権力をわがものとします。しかし,その一方では,葬式屋の末裔ではないかと蔑まれ,藤原一族からは蔑視されています。そのねじれた関係の結果が,冤罪による太宰府への島流しです。でも,その後の「大騒ぎ」(藤原一族の相次ぐ死,天皇家の災害,など)があって,北野天満宮に祀られ,祇園祭も生まれ・・・とつながっていきます。しかし,菅原道真の子孫は代々,立派な学者が誕生したことはわかっていますが,その後の消息はみえていません。

 もう一点は,神武に抵抗し,最後まで戦い抜いた出雲の最後の大王・トミノナガスネヒコの存在です。滅ぼされたとはいえ,ヤマトを支配していた大王です。その残党はあちこちに生き延びていたはずです。どのような「手打ち」がなされたにしろ,まだまだ燻りつづける火の粉は残っていたはずです。そういう情況のなかでの,「出雲の人」野見宿禰の登場です。このように考えると,垂仁がなにを野見宿禰に期待したかは明らかです。

 ついでに記しておけば,ヤマトに野見宿禰を祀った神社はそれほど多くはない,という事実です。むしろ,地方の方が多いというのは,いったい,なにを意味しているのでしょうか。たとえば,最近,フィールドワークをしてびっくりしてしまった龍野市とその周辺地域です。地図を開いて,あちこち眺めれば眺めるほどに,この地域からは一種異様な雰囲気が感じられます。それも微妙にねじれた関係性があちこちに見出されます。その中心に存在するのが,野見宿禰の墳墓といわれる野見宿禰神社です。にもかかわらず,野見宿禰神社は龍野神社に合祀されている神社という位置づけです。しかも,龍野神社の祭神は関が原の戦いで武勲を挙げた武将です。なにゆえに,野見宿禰がこのような祀られ方をしなければならないのか,そこにはなにか確たる根拠がありそうです。わたしの幻視によれば,なにやら空恐ろしい仕掛けが隠されているように思います。場合によっては,アンタッチャブルな世界につながっているやも知れません。どうやら,「歴史の女神」はそのさきで微笑んでいるようです。

 そのあたりのことは,当日,口頭で述べてみたいと思います。文章にして残すには,いまの段階では,どことなく憚られますので。

 長くなってしまいましたので,このブログはこの辺で終わりにしたいと思います。当日,時間があれば,そして,場の力をもらえたら,もっともっと面白い話をさせてもらおうと楽しみにしています。とりあえず,今夜はここまで。

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