2015年1月6日火曜日

「スポーツ学」とはなにか。その7.スポーツする人間とはなにか・Ⅰ。

 人間とはいかなる存在なのか。これが前回(その6.)のテーマでした。そして,その結論は,人間とは,生身のからだを生きる「生きもの」であり,しかも本能と理性に引き裂かれた宙づり状態で存在する「生きもの」である,というものでした。

 では,この本能と理性に引き裂かれた宙づり状態で存在する「生きもの」としての人間であるわたしたちは,どのようにして本能と理性を統合し,ひとりの人間としての全体の調和をとればいいのでしょうか。このテーマは古今東西,宗教家や哲学者,そして文学者をはじめ,あらゆるジャンルの専門家が向き合い,格闘してきました。ピカソが好んで描いた「ケンタウロス」(半人半獣)の絵はその典型的なものの一つです。しかし,このテーマはいまもって確たる結論にはいたっていません。なぜなら,時代も社会も人びとの感性もどんどん変化していくからです。

 ですから,わたしたちは,いま,ここ,を生きるひとりの人間として,それぞれの必要や制約に応じて,個別にその調和をめざすしかありません。そのため,わたしたちは「わたし」とはいったい何者なのか,という問いをつねに内に抱え込むことになります。これはごく当たり前のことなのです。こうした問いを繰り返しながら,みずからの生き方を模索し,徐々に成長し,人生を構築していくことになります。それが「生きる」ということです。

 そんな人生の探求者のひとりに,西田幾多郎という哲学者がいます。生涯にわたって人間が生きるとはどういうことなのか,人間が存在するとはどういうことなのか,を考えつづけた人です。その西田幾多郎のたどりついた結論が「絶対矛盾的自己同一」です。かんたんに説明しておきますと,以下のようになります。

 本能と理性とは相容れないもの同士であって,けして「自己同一」することはありえません。そのありえないことを,西田幾多郎は「絶対矛盾」と表現しました。しかし,この「絶対矛盾」を自己の内で「同一」化しないことには,平穏に日常を生きていくことはできません。そこで,この「絶対矛盾」の壁を超越するにはどうしたらいいのか,とみずからに問いかけ,その答えを見出そうと考えつづけました。したがって,「絶対矛盾的自己同一」とは,人間が存在することのひとつの理想像として西田幾多郎がゆきついた結論だったというわけです。言ってみれば,人間が生きるということを肯定する(=「善」)ための,最後の砦がこれであった,と言ってもいいでしょう。

 この西田幾多郎の考え方が,じつは,「スポーツする人間」を考える上でとても役に立つのです。そこで,この西田幾多郎の哲学をささえる重要な概念である「純粋経験」「行為的直観」「絶対矛盾的自己同一」をてがかりにしながら,「スポーツする人間とはなにか」というテーマに迫ってみたいと思います。

 いささか前置きが長くなってしまいましたが,この前置きはきわめて重要です。といいますのは,「スポーツする人間」とは,まさに本能と理性の「自己同一」なしには成立しないからです。わたしたちがスポーツに熱中しているとき,本能的に動くとか,理性的に考えるとか,はすっかり忘れています。しかし,結果的には,間違いなく,本能的な衝動的な動きも表出しますし,瞬間的に的確な判断をくだしたりしています。つまり,無意識のうちにそれらがみごとに調和して,瞬時にスーパー・プレイが表出する,というわけです。このとき,わたしたちは考える余裕などありません。厳しい練習をとおして脳やからだに刻まれた記憶が無意識のレベルでふかく蓄えられ,潜在している,これが鍛え上げられたスポーツ・ヒューマンの理想の姿です。この「潜在的なるものが,突如として表出する瞬間」(蓮実重彦)こそがなにものにも代えがたいスポーツの醍醐味です。わたしたちは,この「瞬間」に邂逅したくて,スポーツに熱中するといっても過言ではありません。

 では,いったい「潜在的なるものが表出する瞬間」とはどういうことなのか,もう少し詳しく立ち入って考えてみることにしましょう。

※かなり長くなりそうので,ここでいったん切って,このつづきを「Ⅱ」として,「その8.」で展開してみたいと思います。

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