2015年1月16日金曜日

イスラム社会の人びとの生活の組み立てを考えなければならない(西谷修)。

 昨日(1月14日)の東京新聞の「こちら特報部」の記事の内容がとてもよかったので,紹介しておきたいと思います。テーマはいま話題のフランス風刺週刊紙「シャルリエブド」襲撃事件をどのように考えるか。これを多面的にとらえ,分析してみせてくれています。鈴木伸幸,篠ケ瀬祐司の両記者による実名記事。やはり,記者の名前がみえている方が,読む方も楽しみがひとつ増えるというものです。

 見出しもとてもわかりやすい。

 「論議呼ぶ仏紙風刺画」
 「表現の自由か 宗教冒とくか」
 「欧州連帯 米は冷静」

 
「やゆ・・・ヘイトと同根」
 「タブー切り込む仏の風刺文化」
 「日本も在日排斥」
 「自由に伴う責任自覚を」


 記事のこまかな点については,多少,わたしなりの異論がないわけではありませんが,ここでは省略しておきます。そして,この記事のなかで,やはり,わたしの眼に止まり,「これだ」と我が意を得られたのは西谷修さんのコメントでした。

 詳しくは,新聞記事のなかの西谷さんの発言で確認してみてください。

 西谷さんは,まず,フランスの風刺文化がはたしてきた歴史的な経緯をわかりやすく説き,フランスの近代化を推し進めた結果として獲得した「表現の自由」を絶対的な「正義」と考え,その物差しをそのまま当てはめて「(イスラムの)神の絶対化や殉教などはおかしい,野蛮な信仰だ」と決めつけているようだが,それでいいのか,と疑問を投げかけています。

 そして,圧巻は「表現の自由は民主主義制度の根幹に関わるが,何でもいいわけではない」とバッサリ。それに追い打ちをかけるようにして,「イスラム社会の人々がどういう原則で生活を組み立てているかを考えなければいけない。テロリストと普通のイスラム教徒を地続きでバカにしてはいないか」と警告を発しています。

 わけても,「イスラム社会の人々がどういう原則で生活を組み立てているか」,この点をしっかりと考えなくてはいけない,という西谷さんの指摘がわたしにはずっしりと重くのしかかってきました。といいますのも,民主主義にしろ,表現の自由にしろ,これらはヨーロッパ近代が到達した一つの価値観であって,一定の役割をはたしたのちには,また,違った価値観が導き出され,変化していく可能性が十分に考えられるからです。つまり,唯一,絶対的な価値観ではない,ということです。ですから,その一時的な自分たちの価値観を違う世界観のもとで生きている人々に押しつけることはできません。その逆を考えてみれば明らかなことです。

 では,なにがお互いを理解する前提として価値をもつことになるのか。それが「生活の組み立て方」だというわけです。つまり,実際に,いま,どのような「原則」(教義=ドグマ)にもとづいて,自分たちの「生活を組み立て」ているか,これが最優先されなくてはならない,と西谷さんは仰るのだと思います。言ってみれば,ここだけはお互いに踏み込んではいけない「アンタッチャブル」な領域だ,というわけです。ここだけは,お互いに譲り合い,認め合うことが肝腎だ,と。

 ここに「表現の自由」を持ち込むことは,あってはならないことだ,ということです。

 なのに,「共和主義者」たちは,そこのところがわかっていないのだろう,と西谷さんはやんわりと批判しているようです。

 まあ,新聞でのコメントは,西谷さんが実際に話をされたことのほんの一部分しか取り上げられてはいないだろうことは,わたしも経験的に知っています。じつは,西谷さんがこのようなコメントをされる背景にはもっともっと膨大な情報と思考の深さがある,ということを忘れてはなりません。それは,これまで書かれてきた著作からも明らかです。そして,今回の事件に関する最新情報にしても,友人のフェティ・ベンスラマからも直接手に入れています(西谷さんのFBからも明らかです)。また,もっともっと深い洞察は,この数日間の西谷さんのブログ「言論工房」で確認することができます。

 それらを熟読してみますと,フランスという国家そのものが,いま現在,抱え込んでいる「難題」がいくつもあって,それらと連動するかたちで,フランス国民が一致団結しなければならない特殊な事情があることがわかってきます。つまり,「表現の自由」をどこまでも固持しなくてはならない,フランスの事情がある,ということです。詳しくは西谷さんのブログでご確認ください。

 きわめて重厚な論考になっています。ですから,相当に気合を入れて読まないと,跳ね返されてしまいます。

 というところで,このブログを閉じたいと思います。
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