2015年3月27日金曜日

<批評>の「学」としての「スポートロジイ」をめざす。

 21世紀スポーツ文化研究所の研究紀要『スポートロジイ』第3号の最後の原稿・巻頭言がようやく仕上がりました。もっとも,早く書いていただいた原稿は,すでに初校ゲラとなり,校正も終わっています。原稿が細切れになってしまい,五月雨式に原稿を送信することになってしまいましたので,出版社(みやび出版)や印刷所にはたいへんご迷惑をかけてしまいました。

 が,ようやく,これで第3号のすべての原稿が出揃いましたので,あとは,初校ゲラの校正を済ませ,校了に向けて一直線です。ここをどのように通過できるか,それによって,発行日がきまってきます。いまは,うまく進行することを祈るばかりです。

 さて,第3号の巻頭言をどのように書いたのか,紹介しておきましょう。短い文章のなかに,いろいろの想いを籠めて書き込みましたので,やや抽象的で,難解になってしまったかもしれません。が,第3号の内容のことを念頭に置きながら,それらともうまく呼応する内容になっているのではないか,とわたしとしては納得。

 巻頭言は以下のとおりです。

 <批評>の「学」としての「スポートロジイ」を目指して

 スポーツは時代や社会を写しとる鏡である。そこには,ありとあらゆるものが凝縮している。スポーツの有りようにじっと眼を凝らせば,それぞれの時代や地域や社会の姿がおのずから浮かび上がってくる。当然のことながら,そういう時代や土地や社会で「生」を営む人間の姿も,立ち現れてくる。

 したがって,スポーツを考えるということは,時代を考えることであり,土地を考えることであり,社会を考えることなのだ。そうすれば,最終的には「スポーツをする人間とはいったいなにか」という根源的な問いに突き当たることになる。つまり,生身の人間が「生」を営む上で,スポーツはいかなる役割を演ずることになるのか,を問うことになる。もっと詰めて言ってしまえば,人間の「生」とスポーツとの関係を問うということだ。さらに,結論的なことを言っておけば,人間の「生」を肯定する上で,スポーツはいかなる役割を演じているのか,を問うことである。

 「スポートロジイ」とは,この関係性に分け入っていくことを目的とする,新しい「学」を目指している。すなわち,人間とはなにか,スポーツとはなにか,と問いつづけるための類まれなる<批評>の学なのである。

 人間の「生」を否定して省みないような「学」を,21世紀を生きるわたしたちは「学」とは呼ばない。わけても,3.11以後を生きるわたしたちは,断じて認めるわけにはいかない。

 20世紀という時代をとおして大きな役割を演じた「スポーツ科学」とはなにであったのか,その是非をしっかりと見極める必要がある。その上で,わたしたちはそれを超克するための新たな「学」として「スポートロジイ」(=「スポーツ学」)を構想する。そのときの規範(criterion )は「善」(西田幾多郎)である。ここでいう「善」とは,ひとことで言えば,人間の「生」を肯定する営みのことを意味する。

 したがって,「スポートロジイ」は「善」の実現を規範としてかかげる,きわめつきの<批評>の「学」である。

 第3号の刊行にあたって,このことを肝に銘じておきたい。

 2015年3月26日。──この日付に万感の想いを籠めて。

 21世紀スポーツ文化研究所(「ISC・21」)主幹研究員 稲垣正浩。
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