2015年3月6日金曜日

当(まさ)に知(し)るべし今生(こんじょう)の我身(わがみ)二(ふた)つ無(な)し三(み)つ無(な)し。『修証義』第6節。

 「無二亦無三」(むにやくむさん)という,わたしが敬愛してやまなかった大伯父が書いた扁額が,いま,わたしの脳裏にくっきりと浮かんでいます。若書きの,勢いのある,スッキリした文字が仰ぎ見る者にそこはかとない迫力とともになにかが迫ってくる,素晴らしい扁額です。わたしは幼いころから,この扁額に引き寄せられるものを感じていました。もちろん,意味もなにもわからないまま・・・。いまにしておもえば,これぞ書の力。

 しかし,気がつけば『般若心経』の解説本を読みふけり(最初の出会いは山田無文さんの『生活のなかの般若心経』でした),いつしか『正法眼蔵』の解説本にも手が伸びていました。そのころになって,ようやく「無二亦無三」の出典を知りました。そうか,やはり,道元さんのことばだったのか,と。しかし,道元さんは「無二亦無三」とはどこにも書いてはいません。ということは,道元さんの「三時業」(『正法眼蔵』のなかの一節)の中にでてくる「当に知るべし今生の我身二つ無し三つ無し」を,「無二亦無三」とアレンジしたのは大伯父だったのだ,というわけです。

 宝林寺という寺の住職であった大伯父は,明らかに道元さんを念頭におき,道元さんをめざし,道元さんを生きたのだ,ということがいつのまにかわたしの確信になっていました。その理由は二つ。一つは,宝林寺という寺名は知る人ぞ知る,道元さんが最初に建てた寺の名前と同じであること,もう一つは,大伯父の僧名は「一道」(いつどう)であったこと。すなわち,宝林寺の一道和尚としてその生涯をささげたのです。

 いささか前置きが長くなってしまいました。それほどのインパクトのある(わたしにとっては)第6節を引いておきましょう。

 当(まさ)に知(し)るべし今生(こんじょう)の我身(わがみ)二(ふた)つ無(な)し三(み)つ無し,徒(いたずら)に邪見(じゃけん)に堕(お)ちて虚(むな)しく悪業(あくごう)を感得(かんとく)せん惜(おし)からざらめや,悪(あく)を造(つく)りながら悪(あく)に非(あら)ずと思(おも)い,悪(あく)の報(ほう)あるべからずと邪思〇(じゃしゆい)するに依(よ)りて悪(あく)の報(ほう)を感得(かんとく)せざるには非(あら)ず

 
ここの第6節の文言は,取り立てて解説する必要のない,そのままで理解ができる,とても分かりやすい部分だとおもいます。

 ここでは「邪見」ということばだけを,確認の意味でチェックしてきましょう。仏教用語としての「邪見」とは「正見」の反対語です。「正見」とは,仏教の根本原理のことです。すなわち,「因果応報」(「善因善果」「悪因悪果」)です。善いことをすれば善い結果がえられる。悪いことをすれば悪い結果をえる。だから,善(善行)を積み上げなさい,と。そうすれば,やがては浄土の世界に入ることができますよ,というわけです。

 ですから,「邪見」とは,仏教の教えを無視する考え方,つまり,この「因果応報」を無視する考え方を意味します。すなわち,地獄に堕ちていく人間の考え方である,ということです。

 ここさえ抑えておけば,あとは,何回も声に出して読み上げていれば,意味はおのずからからだに染みこんでくる,とおもいます。なぜなら,「声に出して読む」ことそのことが「善因」ですので,かならずや「善果」がえられるという道理です。

 「読経(どきょう)」とはそういうことなのです。 

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