2015年3月29日日曜日

「ポストグローバル社会」のスポーツ文化を考える,とはどういうことなのか。

 昨日(3月28日),「ISC・21」3月大阪例会が大阪学院大学で開催され,とても刺激的な議論があって,考えることが多かった。こういう時間が過ごせることは幸せである。

 議論の焦点になったのは,「ポストグローバル社会」のスポーツ文化を考える,というときの「ポストグローバル社会」をどのように考えるか,ということだった。「ボストグローバル社会」ということば自体は,よくみかけるのでなんとなくわかったような気分でいる。しかし,いざ,わたしたちの研究会が議論してきている「スポーツ文化」が,「ポストグローバル社会」にはどうなっているのか考えよ,と言われると困ってしまう。

 なぜなら,「ポストグローバル社会」とは,と問われたとき,相手がどんな社会のことを想定しているのか,わたしには定かではないからである。たとえば,わたしの頭の中には,いくつものイメージが駆けめぐる。

 一つは,グローバリゼーションが徹底的に浸透して行って,あらゆるものがグローバル・スタンダードによって統一された結果として出現する社会,というイメージである。この社会は,いま,まさに進行中の「グローバリゼーション」が,このまま一直線に進展していった結果として誕生する社会,ということになるだろう。しかしながら,そこに浮かび上がってくる「社会」というものが,どんなものになるのか,わたしにはイメージしにくい点が多々ある。たとえば,キリスト教,資本主義,形而上学,などが支配秩序となる社会とはどんな社会なのか。残念ながら,わたしには殺風景な砂漠化した社会しか,イメージとしては浮かばないのだが・・・・。つまり,ジャン=ピエール・デュピュイのいう「破局」を迎えるしかない・・・・と。

 もう一つは,いま進行中のグローバリゼーションは,かならず行き詰まる,破綻をきたす,だから,グローバリゼーションにとって代わるものの見方・考え方・世界観・思想・哲学・宗教が誕生し,まったく別の価値観に支えられた社会が誕生する,というイメージである。しかも,たぶん,そうなるだろうと多くの人が想定している社会といっていいだろう。しかしながら,これもまた,きわめて抽象的なイメージでしかない。具体的に,なにが,どのようになるのか,その手がかりすら現段階では不明である。ましてや,そういう社会での「スポーツ文化」がどのようなものになるのか,イメージすることはきわめてむつかしい。

 さらには,J.P.デュピュイの「破局」論に立つとすれば,いま,ここの,目の前にてきしまった「破局」をいかにして先のばしにして遅らせるのか,そして,できることなら,その「破局」をうまい具合にクリアしていくのか,そのための思考を練り上げ,実践された結果として誕生する社会,というイメージである。たぶん,このようにして生まれる社会が,もっとも現実的であるようにおもう。では,どのようにしてそのような社会は可能となるのか。これが問題である。その中核をなすポイントは「聖なるもの」だ。この「聖なるもの」をいかにして止揚していくのか,これもまたとてもむつかしい問題をはらんでいる。このことは,同時に,「スポーツ文化」の「聖なるもの」をいかに止揚するか,という問題でもある。

 こんな風に,「ポストグローバル社会」のイメージは,さまざまに分散していってしまう。

 したがって,わたしたちの研究会では,この「ポストグローバル社会」をどのようにイメージし,共有していくのか,という問題についてさらなる議論の積み上げが必要となる。今回は,その第一回目の議論としてとても貴重だったようにおもう。もう少し継続して議論を積み上げていくことによって,問題の所在も整理され,理解も深まるのではないか,と楽しみである。
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