もうずいぶん前に書かれた『思考の整理学』が,ある日,突然,注目を集めはじめ(大学生協の書店員の仕掛けたアイディアだったと聞く),あれよあれよという間にベストセラーとなって,書店に平積みされるようになって,わたしは内心とても嬉しかった。
ああ,外山先生,お元気でよかった,と。そして,その後も勢いにのって,新しい書き下ろしも出版され,それもまた注目され,売れている。久しぶりに外山先生のお顔が,どこか書店に立ち寄れば,みられるという僥倖にめぐまれるようになった。それが,いまもつづいている。
朝日新聞の夕刊に「人生の贈りもの」という囲み記事があり,そこに外山先生が登場した。5月9日(月)から13日(金)までの計5回。万年青年だと思っていた先生がもう87歳と知って驚いた。さもありなん,かく申すわたしですら73歳なのだから。
さて,この話をどこから切り出そうかと,そのとば口が見つからなくて困ってしまう。それほどに,先生とわたしとの関係は語りだせばきりがないほどだから。でも,思いっきり単純化して,わたしにとってとても重要な「出会い」の記憶だけを書くことにしよう。
結論から入ろう。わたしのこんにちがあるのは外山先生との出会いが,大きな転機になったことは間違いない。そういうわたしにとっては忘れることのできない大事な恩人なのである。外山先生は愛知県の刈谷市のご出身。わたしは愛知県の豊橋市の出身。同じ「三河」の出身である。その三河出身者のための学生寮が文京区にあって,その名を「三河郷友会東京寄宿舎」という。通称「三河郷友会」(みかわごうゆうかい,と読む),あるいは,「郷友会」。先生もわたしもこの学生寮のOBである。
ちょうど,1970年前後の,いわゆる全共闘世代が大活躍して,あちこちの大学が封鎖されて,授業もままならない事態を迎えていたとき,わたしはまだ大学院の院生として大塚のキャンパスに通っていた。そのキャンパスのなかで,外山先生とばったり出会った。当時,先生は英文科の助教授だったと記憶する。「やあ,稲垣君,いま,どうしているの?」と親しげに声をかけてくださる。で,わたしは「これこれしかじかで,院生をやっています」と答える。「それはいい。じつは,デス君が夜逃げをしてしまって,寮が困っている。君,寮監をやってくれないか。ぼくも応援するから」と仰る。外山先生は寮の理事。デス君というのは寮監。わたしも学生時代にお世話になった寮監の先生。元,都立高校の校長さんで英語の先生。旺文社の「蛍雪時代」などにも原稿を書いている人だった。まじめ一点張りの人で,嘘のない人だったので,寮生からは愛されていた。しかし,全共闘世代の寮生とは話が噛み合わず,嫌気がさして,夜逃げをしてしまった,というのである。
こうして,外山先生とのやりとりがはじまり,何回もお会いしてお話をうかがううちに,とうとう説得されて寮監を引き受けることになってしまった。苦学生が近寄ることもできなかった料亭でご馳走してくれたり,お宅に招かれてご馳走になったり,あま,あちこちで「折伏」の場がもたれた。わたしも,かなたしつこく「お断り」をしていたのだが,外山先生の熱意には勝てなかった。
この三河郷友会のある敷地は,もともと,本多平八郎忠勝の江戸屋敷の一角で,そのとなりにはホテル・ニュー・オオタニの社長の邸宅があった。この社長さんとも,いろいろ問題が生ずるたびに,呼び出されてお会いすることになった。もと力士だった初代社長である。この人物はじつはとてもおもしろい人だった。が,この話はまたすることにして,この学生寮と外山先生のご自宅は,歩いて5分くらいのところにあった。だから,この社長さんから呼び出しがあると,すぐに,外山先生のところに行って相談をし,作戦を練ってからうかがうのがわたしの習いとなっていた。
この新聞の記事によると,外山先生は朝5時に起きて散歩なさる,とある。しかし,わたしが寮監をつとめていたころは,真夜中に散歩をなさっていた。わたしが,ときおり,夜遅くまで起きて仕事をしていると,散歩で通り掛かった外山先生が「灯がついていたので,立ち寄ったけれども,お邪魔していいかなぁ」と玄関に現れる。その時間は,きまって午前3時前後だったと記憶する。そして,おしゃべりに調子がでると「夜明け」までつづく。「いやあ,失敬,失敬。夜が明けてしまった」と言って,帰っていかれる。でも,このときのお話も,いまも忘れられない貴重なものがたくさんある。
このころの寮生のひとりが西谷修さんである。もちろん,船井廣則さんもそうだ。その他,いまではそうそうたる人たちが,寮生として苦楽をともにした。同じ釜のめしを食った戦友のような絆が,いまもそこはかとなく生きている。それほどに,日々,真剣勝負だった。毎晩のように寮監宅(大正時代の木造2階建てで,女中部屋まである,立派な構え。敷地も150坪もあった)の8畳の部屋に寮生が集まってきて,侃々諤々の議論が深夜までつづいた。このときの議論が,いまのわたしの基盤をつくったといって間違いない。わたしも必死で勉強をした。思想と哲学の違いを知ったのも,恥ずかしい話ではあるが,このときである。
いま,考えてみれば,あのとき,外山先生と大塚のキャンパスでばったり出会っていなかったら,西谷さんとの出会いもなかったことになる。その意味では,外山先生はわたしの大切な恩人なのである。そのごも,外山先生とはちょくちょくお会いする機会があったが,最近は,まったくなくなっている。これをチャンスに一度,お伺いしてみようと思う。デニスのお好きな先生だったが,もう,無理でしょうね。もし,お元気だったら,テニスでお付き合いを・・・といきたいところ。
でも,外山せんせいの魅力は「おしゃべり」。いつか,その機会をつくろう。そうだ,「ISC・21」の月例研究会にきていただこうか。いいところに話が落ちたところで,今夜はここまで。
ああ,外山先生,お元気でよかった,と。そして,その後も勢いにのって,新しい書き下ろしも出版され,それもまた注目され,売れている。久しぶりに外山先生のお顔が,どこか書店に立ち寄れば,みられるという僥倖にめぐまれるようになった。それが,いまもつづいている。
朝日新聞の夕刊に「人生の贈りもの」という囲み記事があり,そこに外山先生が登場した。5月9日(月)から13日(金)までの計5回。万年青年だと思っていた先生がもう87歳と知って驚いた。さもありなん,かく申すわたしですら73歳なのだから。
さて,この話をどこから切り出そうかと,そのとば口が見つからなくて困ってしまう。それほどに,先生とわたしとの関係は語りだせばきりがないほどだから。でも,思いっきり単純化して,わたしにとってとても重要な「出会い」の記憶だけを書くことにしよう。
結論から入ろう。わたしのこんにちがあるのは外山先生との出会いが,大きな転機になったことは間違いない。そういうわたしにとっては忘れることのできない大事な恩人なのである。外山先生は愛知県の刈谷市のご出身。わたしは愛知県の豊橋市の出身。同じ「三河」の出身である。その三河出身者のための学生寮が文京区にあって,その名を「三河郷友会東京寄宿舎」という。通称「三河郷友会」(みかわごうゆうかい,と読む),あるいは,「郷友会」。先生もわたしもこの学生寮のOBである。
ちょうど,1970年前後の,いわゆる全共闘世代が大活躍して,あちこちの大学が封鎖されて,授業もままならない事態を迎えていたとき,わたしはまだ大学院の院生として大塚のキャンパスに通っていた。そのキャンパスのなかで,外山先生とばったり出会った。当時,先生は英文科の助教授だったと記憶する。「やあ,稲垣君,いま,どうしているの?」と親しげに声をかけてくださる。で,わたしは「これこれしかじかで,院生をやっています」と答える。「それはいい。じつは,デス君が夜逃げをしてしまって,寮が困っている。君,寮監をやってくれないか。ぼくも応援するから」と仰る。外山先生は寮の理事。デス君というのは寮監。わたしも学生時代にお世話になった寮監の先生。元,都立高校の校長さんで英語の先生。旺文社の「蛍雪時代」などにも原稿を書いている人だった。まじめ一点張りの人で,嘘のない人だったので,寮生からは愛されていた。しかし,全共闘世代の寮生とは話が噛み合わず,嫌気がさして,夜逃げをしてしまった,というのである。
こうして,外山先生とのやりとりがはじまり,何回もお会いしてお話をうかがううちに,とうとう説得されて寮監を引き受けることになってしまった。苦学生が近寄ることもできなかった料亭でご馳走してくれたり,お宅に招かれてご馳走になったり,あま,あちこちで「折伏」の場がもたれた。わたしも,かなたしつこく「お断り」をしていたのだが,外山先生の熱意には勝てなかった。
この三河郷友会のある敷地は,もともと,本多平八郎忠勝の江戸屋敷の一角で,そのとなりにはホテル・ニュー・オオタニの社長の邸宅があった。この社長さんとも,いろいろ問題が生ずるたびに,呼び出されてお会いすることになった。もと力士だった初代社長である。この人物はじつはとてもおもしろい人だった。が,この話はまたすることにして,この学生寮と外山先生のご自宅は,歩いて5分くらいのところにあった。だから,この社長さんから呼び出しがあると,すぐに,外山先生のところに行って相談をし,作戦を練ってからうかがうのがわたしの習いとなっていた。
この新聞の記事によると,外山先生は朝5時に起きて散歩なさる,とある。しかし,わたしが寮監をつとめていたころは,真夜中に散歩をなさっていた。わたしが,ときおり,夜遅くまで起きて仕事をしていると,散歩で通り掛かった外山先生が「灯がついていたので,立ち寄ったけれども,お邪魔していいかなぁ」と玄関に現れる。その時間は,きまって午前3時前後だったと記憶する。そして,おしゃべりに調子がでると「夜明け」までつづく。「いやあ,失敬,失敬。夜が明けてしまった」と言って,帰っていかれる。でも,このときのお話も,いまも忘れられない貴重なものがたくさんある。
このころの寮生のひとりが西谷修さんである。もちろん,船井廣則さんもそうだ。その他,いまではそうそうたる人たちが,寮生として苦楽をともにした。同じ釜のめしを食った戦友のような絆が,いまもそこはかとなく生きている。それほどに,日々,真剣勝負だった。毎晩のように寮監宅(大正時代の木造2階建てで,女中部屋まである,立派な構え。敷地も150坪もあった)の8畳の部屋に寮生が集まってきて,侃々諤々の議論が深夜までつづいた。このときの議論が,いまのわたしの基盤をつくったといって間違いない。わたしも必死で勉強をした。思想と哲学の違いを知ったのも,恥ずかしい話ではあるが,このときである。
いま,考えてみれば,あのとき,外山先生と大塚のキャンパスでばったり出会っていなかったら,西谷さんとの出会いもなかったことになる。その意味では,外山先生はわたしの大切な恩人なのである。そのごも,外山先生とはちょくちょくお会いする機会があったが,最近は,まったくなくなっている。これをチャンスに一度,お伺いしてみようと思う。デニスのお好きな先生だったが,もう,無理でしょうね。もし,お元気だったら,テニスでお付き合いを・・・といきたいところ。
でも,外山せんせいの魅力は「おしゃべり」。いつか,その機会をつくろう。そうだ,「ISC・21」の月例研究会にきていただこうか。いいところに話が落ちたところで,今夜はここまで。
1 件のコメント:
いや、つい懐かしくなりました。わたしは外山先生のことはほとんど稲垣さんから伺うだけで、料理長の牧島さんのこと(とくに朗々たる詩吟)の方が記憶にありますが、ハッハッハ。
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