2016年1月12日火曜日

箱根駅伝の報道の仕方に疑問。なにを伝えたいのか?

 このところ毎年のように箱根駅伝をテレビで観戦している。しかし,気になっていることがある。それは不必要な「演出」が多すぎるということだ。いったい,駅伝をテレビで中継することの意味をどこに置いているのか,わたしには理解できないことが年々多くなってきている。

 たとえば,いま走っている駅伝のレースから突然離れて,有力選手の秘話を,あらかじめ録画しておいたものを流しはじめる。その間にも選手たちは必死で走っており,レースは刻々と変化しているというのに。そんなことを無視して,特定個人の秘話を延々と流しつづける。しかも,その有力選手が失速して,大失態を演じたあとだというにもかかわらず。ただひたすら,あらかじめ用意したシナリオどおりに録画を流す。現実とのあまりの乖離に,もう,恥ずかしくてみてはいられない。うまく走れなかった選手はもっと恥ずかしいだろうに。だから,みていて不快きわまりない。

 あるいは,順位やレース展開とはまったく関係なく,有力選手ばかりがテレビの画面を独占しているのは,なぜか。しかも,激走,快走しているわけでもないのに・・・・。なぜか,あらかじめヒーローとなるであろう選手にターゲットを絞っておいて,そこにスポットを当てるという報道の方針がさきにあって,そのシナリオどおりに,ディレクションがなされているのが,丸見えになってくる。この場合などは,みていて滑稽ですらある。なにやってんだか・・・・と。ときに腹が立ってくる。

 箱根駅伝のテレビ中継の面白さは,まず第一に,レースがどのように展開されているのか,時々刻々と変化していくレースの全体像が,リアルタイムでみられることだ。何年か前までは,画面を二分割して,トップを走る選手と,それ以外のところで競り合いを演じていたり,追い抜いたりする場面とを同時に見せてくれていたのに,それがなくなってしまった。残念の極み。

 それと,コマーシャルの時間が長すぎることも興ざめだ。しかも,回数も多い。その間にレースが大きく動きそうだというのに,構わず,予定どおり割って入ってくる。この場合には間違いなく腹が立つ。こんなときに流されるコマーシャルは逆効果でしかないのに・・・・。コマーシャルこそ,画面を二分割して,その半分を使って流せば十分なのに。音声も控えめにして・・・・。

 わたしの希望は,いま,走っている選手たちの姿を,可能なかぎり全員,一度は画面に登場させてやってほしい,ということだ。応援するチームも選手も,視聴者はばらばらなのは当然なので,そのすべての視聴者の気持ちを汲んで,短い時間でもいいい,その区間を走っている間に,一度は画面でとらえて紹介してやってほしい。

 どの選手も箱根をめざして過酷な練習をこなし,念願かなって晴れの舞台に立ち,喜び勇んで,全力で走っているのだ。この選手たちの努力の賜物である「走り」を,一度は画面でとらえてやってほしい。そして,選手を実名で呼びかけて,頑張れ,と激励のことばをかけてやってほしい。たとえ,順位や記録がよくなかったとしても,その選手にとっては一生の思い出となるのは間違いないのだから。しかも,家族,友人たちが必死で応援しているのだから。

 わたし自身は,どのチームのどんな選手が,どのような「走り」をしているか,全部みてみたい。無名の選手のなかに,素晴らしい才能をもった「走り」をしている姿を見つけることがあるかもしれない。それはそれで,順位に関係なく,喜びであり,感動ものだ。そういうシーンに,少しでも多く出会ってみたい。

 もう一点は,カメラの位置について。画像に写る選手たちの「走り」のほとんどは真っ正面からのものだ。表情はよくわかるが,「走り」はまったくわからない。わかるのはピッチ走法か,ストライド走法かの違いくらいのものだ。そうではなくて,「走り」を強調してほしい。真っ正面からでも,足の運び具合を映し出すことはできる。実際,そういう映像もときおりあるのだが,いつのまにかアップになって「顔」の方にカメラは行ってしまう。

 「走り」の美しさは,なんと言っても真横からの映像に限る。ときどき,そういう映像が流れるとき,こんなに速いスピードで,こんなに美しいフォームで走っているのだ,ということを知る。感動する一瞬である。この映像をもっともっと増やしてほしいものだ。

 できることなら,各区間ごとに定点にカメラを据えて,そこを通過する選手をすべて映し出してほしい。間隔が開いたときには,その間は,別のカメラの映像を流せばいい。何カ所もカメラが配置され,走りまわっているのだから,それは可能なはずだ。全選手を,一度は必ず画面にとらえるアングルこそ,あらかじめ設定しておけばいいのではないか,とおもう。

 タスキの受け渡しが行われる中継点では,それが行われているのだから,あれと同じ定点を何カ所か決めておいて,そこからの映像を流すことは可能なはずだ。そうすれば,すべての選手の横からのランニング・フォームを捉え,紹介することができる。つぎつぎに通過していく選手たちの雄姿は,それだけでも感動ものだ。それは沿道で応援するのと同じ体験を味わうことでもある。それ以外は,移動中継車に,時々刻々と変化するレース展開の様子を追わせればいい。

 箱根駅伝で伝えるべきものはなにか。テレビ局は,徹底して,この議論をやるべきだ。そこに,視聴者の声も反映させるべきだ。そうして,もっともっと多くの感動を生みだす装置として,テレビを活用してほしいものだ。テレビでなければできない,いな,テレビだからこそできる効果的な「演出」を工夫してほしい。

 悪しきヒーロー主義はやめてもらいたい。それよりは,未知の新しいヒーローの誕生の場面を追ってほしい。それをリアル・タイムでみることができたら,視聴者冥利につきるというものだ。

 あらかじめ,余分なシナリオを用意するのはやめよう。そのシナリオの意図が外れたときが,あまりに無惨で不快だ。それは,マラソン中継でも,しばしば眼にしてきた光景だ。レース当日の選手たちの「走り」そのものに徹底して光を当て,ランニングそのものの奥の深さを素人にもわかるように映像化してほしい。そのための解説者もいるのだから・・・。そうすれば,おそらく,もっともっと多くの駅伝ファンを生みだすことに成功するだろう。

 そして,その美しい「走り」をみた少年たちの中から,つぎの箱根駅伝をめざす選手たちが続々と生まれてくるだろう。駅伝の底辺を拡大していくには,それが一番だ。そして,その夢を追うことのできなかった大人たちは,その新しいドラマを知って,再度,感動するのだ。伝統はこうして創造されていくものだ。そして,その創造に参加することにこそ意味があるのだ。

 箱根駅伝のテレビ報道の主眼をここに据えて,来年からの中継に臨んでほしい,とこころから願うものである。
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