2014年12月20日土曜日

天保年間(1830年代)の子どもの正月遊び。

 連載・絵画にみるスポーツ施設の原風景の第35回目が掲載されましたので,ご紹介させていただきます。季節の話題ということで,テーマは「天保年間(1830年代)の子どもの正月遊び」(『SF』〔Sports Facilities 〕,体育施設出版,12月号,P.13.)です。

 
いまから200年足らず前の,精確にいえば,184年前の子どもの正月遊びの風景です。184年前を遠い過去とみるか,つい,この間とみるかは人によって差があるでしょう。わたしの感覚では,つい,この間のことではないか,と思えてなりません。わたしが生まれたのが1938年ですから,そこから数えてみれば,たった100年余です。少し背伸びをして手を伸ばせばとどきそうな年数にすぎません。

 ですから,たった184年の間に,子どもたちの正月遊びというものが,めまぐるしく変化してきたことに驚きを禁じ得ません。こんなわずかな期間に,すっかり様変わりをしてしまった子どもたちの正月遊びを,どのように考えればいいのだろうか,と考え込んでしまいます。

 第一,正月に子どもたちが群れて遊ぶ光景など,いまでは想像すらできません。つまり,正月を言祝ぎ,親公認の子どもたちだけの正月遊びという文化そのものが,どこかに消え失せてしまいました。ですから,正月は特別な意味をもつ日ではなく,日常の延長とほとんど変わらなくなってしまったのではないでしょうか。あるとすれば,お年玉がもらえる新年だ,くらいの意識ではないでしょうか。あとは,家族で初詣にでもでかけるくらいのものでしかないのでしょう。だとしたら,なんとも,寂しいことでしょう。

 わたしの正月の記憶は,第二次世界大戦後(1945年以後)からはじまります。空襲で焼け出され,着るものも食べるものも,なにもなくなり,まさに0(ゼロ)からの再スタートでした。焼け出されたのが1945年6月の中頃のこと。街全体が火事同然,燃え盛る家の間をかいくぐって,防空頭巾で身を固め街はずれの神社まで逃げ延びて,なんとか一命だけはとりとめました。

 夜が明けて,街をみると見渡すかぎり焼け野原です。焼け死んだ人の丸焦げの死体もあちこちでみかけました。もちろん,食べるものとてなにもなく,家族揃って,ぼんやりと住んでいた家の焼け跡に立っていました。午後になって,母の実家の寺の大伯父が消防服に身を固め,自転車でおむすびをもって駆けつけてくれました。このときのむすびの美味かったこと,生涯忘れることはありません。その日の夕刻には街はずれの駅から先の田舎に向かう電車が動きはじめたというので,その駅まで歩き,長い時間,電車を待って,夜になって大伯父の寺に到着。もちろん,停電していましたので,真っ暗な寺の衆寮で眠りにつきました。

 それから以後,疎開生活がはじまりましたが,その年の8月には敗戦となり,戦争の恐怖からは解放されました。暑い夏の間はよかったのですが,秋から冬にかけて寒くなってくると,着るものがなくて苦労しました。それでも,正月がくるのを胸躍らせて待っていました。小学校唱歌のとおり,「もういくつ寝るとお正月・・・」と指折り数えながら,楽しみにしていました。

 正月には,寺の広庭で従姉妹たちといろいろな遊びをして楽しみました。凧あげ,羽子板,こま回し,石けり,など。家の中では火鉢を囲み,綾取り,双六,将棋,トランプ,などをして遊びました。大伯父のところには蓄音機もありましたので,レコードなるものも聞かせてもらいました。いま思い返してみても,それはそれは楽しい正月でした。

 考えてみれば,わたしの子ども時代の正月遊びは,基本的に天保年間のものとほとんど変わってはいません。それが,あれよあれよという間に変化しはじめるのは,東京五輪1964年以後のことだと記憶しています。とりわけ,近年の2,30年くらいの間に,子どもの遊びはすっかり変わってしまいました。

 遊びが変わると子どものこころもからだも変わってしまいます。まさに,新人類の誕生です。その余波が,ここにきて理解不能な不祥事となって表出しているように思います。それは,すでに,大人の世界にまで広がってきています。

 正月にどんな遊びをして過ごすかは,じつは,子どもの成長にとってはきわめて重要な意味をもっているのだ,ということを忘れてはなりません。

 この話のつづきはまたいずれ。長くなってしまいましたので,今日のところはここまでとします。

 たかが正月遊び,されど正月遊び。

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