2014年12月23日火曜日

西谷修さんの集中講義初日聴講・神戸市外大。哲学とはなにか。

 今日(22日)から,神戸市外大で西谷修さんの集中講義がはじまりました。講義題目は,哲学特別講義。テーマは医療思想史。昨年,東京外大で西谷さんの同じ題目の授業を聴講させていただいていますので,わたしにとっては今回で2回目。感銘を受けた本をもう一度読み返す,それに似た印象を受けました。名講義です。

 その中のひとつを紹介しておきましょう。それは集中講義の冒頭でお話をされた「哲学とはなにか」です。細かなことは省略しますが,まずは,哲学の課題は「真・善・美」を明らかにすることにあると切り出し,その中心課題である「善」とはなにか,というお話をされました。

 そのもっとも優れた著作として西田幾多郎の『善の研究』(1912年,明治43年)があります。この著作は日本語で書かれた最初の哲学の本であります。しかも,西田の処女作であると同時に,哲学の核心部分に光を当てて,真っ向勝負にでた素晴らしい本です。西田は善について語ることはほとんど困難であると断わりつつ,その核心部分に脇目もふらずに迫っていきます。その意味で哲学のもっともまっとうな本であると言っていいでしょう。

 善とはなにか。これをわかりやすく説明すれば,以下のようになります。

 気持がよい──気持が悪い,という言い方をします。この場合の「気持がよい」が善である,と考えてよいでしょう。「気持が悪い」よりは,「気持がよい」方が生きる意欲がわいてきます。つまり,生きることを肯定するベクトルが「善」ということになります。

 ものがある,人が生きている,世界がある,人がいる・・・・・つまり,この世が存在することを肯定すること,人がここちよく生きることが肯定されること,これが「善」のベクトルであります。

 もう少し具体的な話に置き換えてみるならば,元気が出る,自分の気持がよくなると他人も気持よくなる,人を助ける・喜ばれる・嬉しい・お互いにここちよくなる,花に水をやる・花が元気になる・嬉しい,というような具合になります。

 つまり,存在という哲学のもっとも本質的なテーマが肯定されること,そして,それが意識化されること,これが「善」に向かう力となります。

そして,「善」には三つの要素があります。それが,「真・善・美」です。つまり,知的活動にとっての善が「真」,感覚にとっての善が「美」,そうしたものの存在を肯定するのが「善」です。

 繰り返しになりますが,より善く生きる=気持がいい=ここちよい=ひとりではできない=ケア(医療),という等式が成立します。生きるということをお互いに肯定すること,それが「善」である,ということになります。

 「医」のはじまりは「猿の毛づくろい」にある,と言います。毛づくろいは,お互いにやり合う,猿同士がここちよくなるためのマナーであり,健康法でもあります。つまり,この視点から「医」を考えること,そして「医療」とはなにかと問い直すこと,これは「善」の研究でもあります。つまり,哲学なのです。言ってしまえば,「通俗哲学」。この集中講義のテーマである「医療思想史」とは,「善」とはなにかを問う,わたし流の「通俗哲学」のひとつの手法でもあります。すなわち,哲学特別講義というわけです。

 というような観点から,医療思想史を考えてみたいと思います。

 という具合で,まあ,ずいぶん勝手なアレンジをしていますが,わたしが受け止め得た西谷さんのお話の,今日の冒頭部分のもっとも印象に残ったところです。

 取り急ぎ,今日の集中講義から。
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