2014年12月29日月曜日

「スポーツ学」とはなにか。その1.「スポーツ学」構想の経緯について。

 考えてみれば,もう四半世紀にわたって,わたしは「スポーツ学」なるものを構想してきました。その最初のきっかけとなったのは,ドイツで刊行された『Sportkunde』という著作でした。早速,注文して読んでみましたら,これはわたしが構想している「スポーツ学」とはまったく異なる内容でした。以後も,「スポーツ学」にかかわる情報を,英語・ドイツ語圏をとおしてリサーチしてきました。しかし,こんにちにいたるもそれらしき文献は登場していません。

 となったら,みずから「スポーツ学」の構想を打ち出すしかない,と考えました。とりわけ,ドイツ・スポーツ大学ケルンの客員教授として招かれた折に(2003年),いろいろな研究者と接触することができましたので,その折に,わたしの構想する「スポーツ学」を提示してみました。しかし,あまりいい反応はありませんでした。その理由は,ドイツもまた「スポーツ科学」(Sportwissenschaften)一辺倒で,ますます,その傾斜を強くしていたからです。科学万能神話にどっぷりと浸っていて,なんら疑うということもありませんでした。

 わたしはこの国際的傾向に危機感をいだき,そうではない,「科学」の呪縛から解き放たれた,新たな「学」の確立こそが21世紀を生きる人間には不可欠である,と考えました。そして,その手始めに,世に問うた本が『身体論──スポーツ学的アプローチ』(叢文社,2004年)です。この本は,ドイツでの講義内容をもとに書き下ろしたものです。その主眼は,スポーツ科学が置き忘れてきてしまった「身体とはなにか」という根源的な問いと向き合うことにありました。

 その翌年(2005年)に,藤井英嘉さん(当時,びわこ成蹊スポーツ大学学部長)に依頼されて,講演をすることになりました。そのタイトルが「スポーツ科学からスポーツ学へ」というものでした。わたしは勇んで引き受け,約4時間にわたるお話をさせていただきました。このときの話を編集して,世に問うたものが『スポーツ科学からスポーツ学へ』(藤井英嘉さんと共著,叢文社,2006年)でした。しかし,残念なことに世間からは無視されたままです。でも,一部の人たちからは熱烈な支持もいただいています。

 その後,数年が経過したあと,N大学から『スポーツ学入門』というテクストを作成したいので協力してほしいという依頼がありました(2009年?)。わたしは喜んで引き受けました。大学のなかに「編集委員会」を組織してもらい,わたしの描くラフ・スケッチをもとに,みなさんで議論してもらいました。約半年かけて,目次もできあがり,分担する執筆者も決まり,これでよしというところまで漕ぎつけました。しかし,意外な落とし穴があって,この構想は水泡に帰してしまいました。

 となったら,自分で刊行する以外にはない,と決断。その準備段階として,まずは『スポートロジイ』(Sportology)なる研究紀要を刊行することにしました。これは,わたしの主宰する「21世紀スポーツ文化研究所」の研究紀要です。創刊号を2012年6月に刊行しました。この創刊号のなかに,「研究ノート」として拙稿:「スポーツ学」(Sportology)構築のための思想・哲学的アプローチ──ジョルジュ・バタイユ著『宗教の理論』読解・私論(P.148~274.)を投じました。

 つづいて,第2号を2013年7月に刊行。ここにも「研究ノート」として拙稿:スポーツの<始原>について考える──ジョルジュ・バタイユの思想を手がかりにして(P.190~279.)を投じました。この2本の「研究ノート」をとおして,「スポーツ学」(Sportology)の思想・哲学的根拠は,わたしの中では明確になりました。

 もちろん,ここに至りつくまでには,ハイデガーの『存在と時間』や,ヘーゲルの『精神現象学』をはじめとするヨーロッパの形而上学はもとより,ハイデガーの哲学を批判的に継承するフランス現代思想の人びとの著作をも遍歴しました。とりわけ,モーリス・ブランショ,イマニエル・レヴィナス,ジョルジュ・バタイユ,ジャック・デリダ,ジャン=リュック・ナンシー,などからは強烈な刺激を受けました。そして,近年では,ジャン=ピエール・ルジャンドル,ジャン=ピエール・デュピュイ,など。

 そして,最後に触れておかなくてはならないのが西田幾多郎の一連の著作です。かれの説いた「純粋経験」や「行為的直観」や「絶対矛盾的自己同一」などの考え方は,存在論の原点を示すと同時に,「スポーツする身体」を考える上では不可欠です。その背後には,これはわたしの勝手な推測ですが,道元の『正法眼蔵』と『般若心経』があったと思われます。この『般若心経』は仏教の経典ではありますが,そこにはもっとも根源的な思想が述べられ,哲学が展開している,とわたしは受け止めています。

 そして,さらに付け加えておかなくてはならないのは,西谷修さんの一連のお仕事です。わたしは,ほぼ,30年の長きにわたって,西谷さんのお仕事をとおして思想・哲学へと導かれ,とりわけ,フランス現代思想については大いに啓発されてきました。わたしが,ジョルジュ・バタイユに至りついたのも,西谷さんの導きなしにはありえません。

 わたしの考える「スポーツ学」はこうした人びとの影響のもとに,徐々に頭をもたげ,ようやく自分のことばで語ってみようというところに至りついたという次第です。

 以上が,「スポーツ学」構想の経緯の概略です。このあと,少しずつ,具体的に「スポーツ学とはなにか」の内容について考えていってみたいと思います。ということで,今回はここまで。
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