2010年7月26日月曜日

横綱白鵬の「涙」。

 優勝インタビューで,横綱白鵬が「涙」を流した。不思議な感動を覚えた。この「涙」は,いまの日本人がどこかに置き忘れてきてしまった,日本人の「古層」に触れるものだったようにおもう。
 今日の午後,たまたまテレビをみていたら,大相撲名古屋場所を総括する番組をやっていた。何人かのコメンテーターが,いつものように,どうでもいい話をもっともらしくつくっていた。演出やシナリオがあるのはわかっているものの,それにしても馬鹿げた話ばかりをやっている。そんな中に,昨日の映像が織り込まれていて,その中の白鵬の千秋楽の一番の映像と,優勝インタピューと,そのあとの記者会見の三つの映像だけは,いいものをみた,という満足感を与えてくれた。結論から言ってしまえば,白鵬に感動した,のひとこと。
 47連勝,3場所連続全勝優勝,という輝かしい大記録もさることながら,人間・白鵬にしびれた。偉業をなしとげる人間というものは,もちろん,ふつうの人とは基本的なところが違うのだが,それにしても白鵬はすごい。こまかなことはともかくとして,わたしが一番,ズシンときたものは,優勝インタピューの折の「涙」だった。
 場所前から,「国技をつぶす気か」「NHKの相撲中継はやってほしい」「天皇賜杯まで中止することはない」などの発言が,新聞紙上を賑わし,とかく話題になった。わたしも白鵬はそこまで言うのか,と半信半疑だった。が,その意味はこの優勝インタピューの「涙」でわかった。
 わたしは基本的に,名古屋場所については,日本相撲協会全体が反省し,謹慎するという意志表示の意味で開催中止,そして,徹底した真相解明に向けて全力をそそぐ,もし,開催するのであればNHKの中継はやるべし,そして大相撲とはなにかという問題提起をすべし,という意見だった。それが,全部あべこべになってしまった。これではますます疑惑が深まるばかりで,お先真っ暗になる,と考えていた。ほぼ,予想どおりの展開になっていて,いささか恐ろしいほどである。
 唯一,今場所の救いの神は,白鵬の活躍だった。まるで,人が変わったかとおもわれるほどの,最後の記者会見の話ぶりに,弱冠25歳の,モンゴルからやってきた若者の姿はどこにもみられなかった。その落ち着き,もの言い,内容(責任感)・・・・完璧である。これで日本の大相撲は持ち直す,そのための重要なきっかけをつかんだ,とおもった。あとは,いま起きている疑惑をどこまですっきりさせることができるか,それだけだ。
 そして,このブログで書いておきたいことは以下のことだ。
 「天皇賜杯を目標にこれまで努力してきた。それなのに,それがいただけないとは・・・・」という趣旨の発言が,わたしの胸にグサッと刺さった。そして,その悔しさが「涙」となった。こんにちの平均的日本人の感覚からすれば,天皇賜杯などもらえなくたって,優勝に変わりはないし,大記録樹立の称賛をえたし,文句ないではないか,というところであろう。しかし,白鵬は違った。かれは「儀礼」の重みを,おそらく,からだで知っているのである。優勝の最高の栄誉を讃える「天皇賜杯」を土俵上で授与されることの意味を,全身全霊でわかっているのである。ただ,優勝すればそれでいい,というのではなくて,それをきちんと「カタチ」にすること,つまり「儀礼」を執り行うこと,このことによって「優勝」の意味を日本全国のファンはおろか,モンゴルの熱烈なファンたち,そして,世界の大相撲ファンの「網膜」にしっかりと刻み込むこと,そして,それを感動とともに記憶のなかに定着させること,そのことの重要さを知っていたのである。
 戦後民主主義によって展開された「生活合理化運動」によって,日本の伝統的な「儀礼」の多くが,意図的・計画的に廃止されていった。それでも,いくつかは生き残っている。しかし,それらもまた「形骸化」してしまい,本来の意味を失ってしまっている。いまでも,そんな形式的なことは止めましょう,という意見の方が主流であろう。しかし,それでも完全になくなることはない。なぜなら,それなりに意味をもっていることを知っている人たちがいるからである。むしろ,ある世界では,近年,少しずつ復活しつつあるとも聞く。その功罪をいまは問わない。
 大相撲という,わたしの眼からすれば,典型的な伝統芸能だからこそ,千秋楽の賜杯授与の「儀礼」のもつ意味は限りなく重いのだ。この「儀礼」をとりやめにするというのなら,最初から名古屋場所を開催すべきではなっかた。この「儀礼」が執り行われることによって,大相撲はめでたく千秋楽となるのである。こういう判断すら,いまの日本相撲協会をとりまく,暫定執行部すらできないのである。その「奇怪しさ」「不可解さ」を,なんと,モンゴルからやってきた大横綱・白鵬の「涙」が教えてくれたのである。白鵬をモンゴル人とおもってはいけない。現代のわたしたちよりも,はるかに多くの古き日本人の「古層」に触れるハートをもっている人,それが白鵬なのである。
 混迷をきわめる大相撲を救済するために急遽,招集された「外部役員」のみなさん。この白鵬の「涙」をしっかりと受け止めて,ことに臨んでいただきたい。大相撲の長年にわたる熱烈なるファンのひとりとして,お願いである。これまでの報道をみる限りでは,「外部役員」のみなさん,と言っては言い過ぎならば,ほとんどのみなさんは,どこか腰が引けていて,「雇われマダム」のようにしか見えない。まるで,アルバイトか,パートタイマーのようにみえる。理事長代行ですら,場所中に,仕事があるからといって東京にもどったという報道があった。そんなに大事な仕事をもっているのなら,理事長代行などという重責を引き受けるべきではない。なんという「無責任」なことか。ことほど左様に,多くの「外部役員」のみなさんも,どこかにそんな意識が流れてはいないか。現に,何回も委員会を招集しようとしても,メンバーが集まらない,という。これでは,お先,真っ暗としかいいようがない。しかし,これが日本のリーダーたちの実態なのかもしれない。もう一度,言っておく。政界も財界も学界もふくめて,「無責任」という病に犯されつつある。
 そんな中での白鵬の「涙」である。わたしには,あまりに「重い」。そして,「痛い」。わが身をふり返りながら,こころの底から反省したいとおもう。わたしも,そういう駄目人間の一角を担っているのだから。

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