2016年1月13日水曜日

松はみな枝垂れて南無観世音(山頭火)。

 ぶらりと散歩にでたついでに立ち寄る本屋さんがある。田園都市線の沿線にしては,なかなかの本屋さんである。売り場面積も大きく,珍しい本も置いてある。とくに,アート関係の本が面白い。暇つぶしには絶好の場でもある。家からも近いので,立ち読み目的だけででかけることも多い。立ち読みは体力勝負になるので,じつに効率よくたくさんの本を渉猟することができる。速読の訓練にもなって一石二鳥だ。

 そんな折,なにげなく文庫本のコーナーを眺めていたら,ひょいと一冊の本の背表紙が目に飛び込んできた。拾い読みするだけのつもりで手にとって読み始めたら,止まらなくなってしまった。もう何冊も買って持っているのに,この本は持ってない,という理由だけてそのままカウンターへ。

 『山頭火随筆集』,種田山頭火著,講談社文芸文庫,2002年第一刷,2013年第13刷。

 山頭火の「句集」や,評論は,もう何冊も持っている。が,「随筆集」は初めて。しかも,山頭火の書く随筆が底抜けにいい。そう,まさに,「底が抜けている」のだ。あるいは,突き抜けている,と言ってもいい。ようするに,ふつうの次元ではないのだ。こんなに凄い随筆というものがあるんだ,といまさらのように驚いている。

 言ってしまえば死と隣り合わせの世界が広がっている。いや,生死の間(あわい)をさまよっているような世界。いやいや,とっくの昔に,いつ死んでもいいと覚悟を決めた人の世界だ。そんな世界を悠々と遊んでいる。

 現実にも,熊本の曹洞宗の寺で得度し,托鉢にでて修行をしている。そして,無住の観音堂の堂守になったり,行乞しながら,放浪の旅をつづけたりして,生涯を過ごした人だ。その間に,世をはかなみ,自死を試みて失敗したりもしている。最後は,友人と深酒をして眠りに落ち,そのまま還らぬ人となった。

 おちついて死ねさうな草萌ゆる

 行乞の途中で,こんな句も詠んでいる。いまのわたしには重い句である。

 春になってようやく暖かくなってきた。もう寒さに震えながら野宿をする必要もなくなった。これなら,なんの気兼ねもなく「おちついて」死ぬことができる,とこころの底から山頭火がおもっている心境が伝わってくる。若草が太陽の光をいっぱいに浴びて輝いている。ごろりと横になって,芽吹いたばかりの草の匂いを嗅ぎながら,そのまま土に還ることができたら,さぞかし心地よいだろうなぁ,と山頭火は詠嘆している。そんな気持ちが,じかに,伝わってくる。

 見出しに掲げた句には,つぎのような前書きがついている。そして,連作している。

    大正14年2月,いよいよ出家得度して肥後の片
    田舎なる味取観音堂守となったが,それはまこと
    に山林独住の,しづかといへばしづかな,さびし
    いと思へばさびしい生活であった。

 松はみな枝垂れて南無観世音
 松風に明け暮れの鐘撞いて
 けふも托鉢ここもかしこも花ざかり
 ひさしぶりに掃く垣根の花が咲いている

 あるいは,つぎのようなのもある。

   大正15年4月,解くすべもない惑ひを背負う
   て,行乞流転の旅に出た。

 分け入っても分け入っても青い山
 しとどに濡れてこれは道しるべの石
 炎天をいただいて乞ひ歩く

 山頭火が書く随筆は,この前書きが少し長くなっているだけだ,と言ってもいい。しかも,それがほとんど詩文になっている。一分の隙もない,無駄のない,これしかないという選び抜かれたことばが紡ぎだされている。そのときどきの心情がストレートに吐き出されていて,そのことばが一つひとつ輝いている。

 最後に,山頭火の随筆の一部を引いておこう。じっくりと味わってみてほしい。

 或る時は死ねない人生,そして或る時は死なない人生。生死去来真実人であることに間違いはない。しかしその生死去来は仏の御命でなければならない。

 征服のと世界であり,闘争の世界である。人間が自然を征服しようとする。人と人とが血みどろになって掴み合うている。
 敵が味方か,勝つか敗けるか,殺すか殺されるか,──白雲は峯頭に起こるも,或は庵中閑打坐は許されないであろう。しかも私は,無能無力の私は,時代錯誤的性情の持主である私は,巷に立ってラッパを吹くほどの意力も持っていない。私は私に籠る,時代錯誤的生活に沈潜する。『空』の世界,『遊化』の寂光土に精進するより外ないのである。

 本来の愚に帰れ,そしてその愚を守れ。

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